天下母 2
「それでは、私の後宮に入ることになっているということにすれば良いであろう」
そう言って助け舟を出してくれたのは、王奉光の苦境を聞きつけた趙王・劉尊であった。もともと王奉光の先祖は功を立てたことによって高祖から関内侯の身分を授けられたこともあり、劉家との縁が深い。王奉光が都尉を務める魏郡と趙国の都である邯鄲はさほど離れていなかったから着任後に表敬訪問のために足を延ばしたし、その後は季節の変わり目に書簡をやり取りすることもあれば、折に触れて家族の安否などを尋ねられることもあった。
「秩石六百石の刺史の立場で監察先の都尉の娘を望むとは。しかも聞いたところによると左庶長になったばかりというではないか。思い上がりも甚だしい。関内侯である其方に対して、婚姻を申し込むこと自体が己を弁えていない証左としか思えぬ」
漢帝国においては良民と呼ばれる一般庶民男性個々人に皇帝から授けられる身分が有り、その制度のことを二十等爵といった。その名の通り最も低い「公士」から最高位である「列侯」までの二十段階に分けられていて、左庶長とは下から十番目、秩禄六百石以上の官位を得てから初めて与えられる官爵である五大夫の一つ上でしかない。それに対して、高祖から王家に授けられた関内侯は上から二番目に高い爵位であった。そしてその地位が直系の子孫にあたる王奉光にまで脈々と受け継がれてきたことからわかるように、罪を爵位で贖ったりするような失態を犯すようなこともなく、各々が職務に忠実にそして身を慎んできた何ら瑕疵のない一族だったのである。このためたとえ王正が趙王に望まれたとしても、また逆に王奉光が娘を趙王の後宮に納めようとしても何ら不自然ではなく、またお飾りであろうともその血筋の良さから嫡妻にあたる王后として立てられても全く問題がないのであった。
「私のような年寄りに嫁がせるのは気が引けないでもないが、まだ私には後継となる男児もいないことだし若い妻をもらうとしても誰も不思議には思わないだろうしね」
年寄りとはいっても不惑を迎えたばかりの劉尊は、溌剌とした笑顔を王奉光に向けていった。
「どうしても私との相性が悪いなら、ほとぼりの冷めた頃に改めて縁談を用意しよう。なあに、悪徳代官のために隠れ蓑になったと言えば、高祖陛下もきっと大笑いして許してくださるであろうよ」
と、まるで悪戯に勤しむ子供のように楽しげに言い切ると、片目をつぶって見せた。
そのようなわけで、思いもかけず王正は本始元年(前73年)に趙王の座について3年が経とうというのに未だ后を定めていなかった劉尊の後宮に入ることが決まったのである。そして卜いで双方に縁起の良い年が選ばれ、王正は嫁ぐその日を心待ちにしながら家族との日々を大事に過ごしていった。
ところがその最中の地節元年(前69年)、それまで健康そのもので日々の鍛錬を欠かしたことすらなかった趙王・劉尊は、政務の最中に突然言葉を失ったかと思うと床に崩れ落ち、そのまま身罷ってしまったのである。
趙王が薨去したことは速やかに京師・長安へと伝えられ、程なく皇帝の下にもその知らせはもたらされた。
「なに、趙王が…?」
皇帝・劉詢は、中尚書の弘恭からの報告に片眉を釣り上げた。
「はい。執務中に意識を失われその夜に息を引き取られたとのこと。何しろ突然のことでしたから、邯鄲からの知らせも少々慌ただしく。継承の問題もございますし」
「そうか、確か兄弟もいなかったのであったな」
「は、趙国の継承は変則的でありましたので、後嗣となり得る方も限られておりまして」
もともと趙王の位には武帝の兄にあたる劉膨祖が就き、その息子である丹が皇太子に立てられていた。だが、繍衣御史であった江充の告発によって皇太子丹が廃されたことにより、武帝の弟にあたる劉昌が趙王を継ぎ、その死に伴い子である尊が王位につくという変則的な継承が行われていたのである。
「後嗣に恵まれていなかったので、新たに王魏郡都尉の娘を王后として迎えるという話がまとまっていたそうでございます。残念なことに間に合わなかったようですが」
「王魏郡都尉?…弘恭、其方が今言った王魏郡都尉、とは王奉光のことか?」
「は、ご存知でいらっしゃいましたか」
「ああ、いや。娘のことはあまり知らないのだが、奉光とは闘鶏仲間であったのだ。奉光は金持ちであったから良い雄鶏を飼っていてなあ、羨ましかったものよ。…負けが込んだ時は張賀に内緒で銭を都合してくれることもあったな。そういえば随分と長らく張賀の冢(墓)にも参ってないなあ。これも何かの縁かもしれん、それにしてもそうか、あの奉光の娘と。」
皇帝・劉詢は武帝の玄孫として生を享けながらも、皇太子であった祖父の謀反の煽りを受けて生後間もなく父方の曽祖母、そして祖父母・父母を失った上、皇族の身分を剥奪され庶人に落とされた。その劉詢が劉病已と名乗り、生前の祖父の恩義に報いようとする宦官・張賀の庇護の下まだ民間にあった頃、張賀と二人で楽しんだ闘鶏を通じて知り合ったのが王皇后の父、王奉光であった。
「すっかり忘れていたが、奉光の娘も年頃になっていたのだな」
「時が経つのは早いものでございます。ただ…噂の又聞きですが、お気の毒なことにこれまでにも幾度となく結婚を約束された方がお亡くなりになっているのだとか。男の命を食う、などという者もいるようでして趙王とのご縁談もうまくいかなかったとなりますと…」
「それは哀れな…。嫁ぐ前にたまたま相手が亡くなってしまうだけなのであろうに」
「誠にその通りでございます」
「しかし、そのようなおかしな噂が立ってしまうと良い縁談を得ることもできまい。だからと言ってむやみやたらとどうでもいいような男に押し付けるわけにもいくまいしな。…奉光の任期はあとどれほどか?」
「は、すぐに調べましょう」
「奉光には、娘の縁談は朕が心掛けていると伝えさせよ。…場合によっては、朕の後宮に入ってもらっても良いのだ」
「承知いたしました。すぐにその旨伝えるよう手配いたします」
皇帝の意向はすぐさま魏郡の王家へと伝えられ、趙王の薨去から3年を経たのちも望ましい縁談がまとまらなかった王正は皇帝の後宮に召し出されることが決まった。
地節4年(前66年)、それまでの霍一族による前皇后暗殺と皇太子毒殺未遂、そしてこの年に皇后の兄・霍禹が皇帝廃位を目論み起こした謀反の罪に連坐し、8月に霍成君が皇后位を廃された後、王正は慎重に選ばれた吉日に皇帝・劉詢の後宮に入り、父親と皇帝との縁によって倢伃の地位を与えられた。
王正は子を身籠ることはなく、ゆえに許皇后の忘れ形見である皇帝の嫡長子・奭の後見役に選ばれ、ひいては元康2年(前64年)2月、皇后に立てられた。
まさに、子を生まずして天下の母となったのである。