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水面に揺れる月の夜に

作者: 元葉秀貞

駅までの道に小さな川があり、片側には数十メートルの桜並木がある。

川は、随分前に氾濫対策として川岸はコンクリートに舗装されているので、桜並木と言っても、そんなに風情があるものではない。

それでも、桜が満開に咲くこの頃になると、晴美は思わず足を止めてしまう。


もうこんな季節になったんだ。


毎日、ルーティーンな仕事をしていると、あっという間に季節は変わっていく。特に三十路に近づいてからは、年だけが加速度的に過ぎていくようで焦りにも似た気持ちになる。


そう言えば、母が亡くなったのも桜の季節だった。


母はいわゆる良妻賢母のタイプで、いつも笑顔で掃除をしたりご飯の準備をしていた。晴美は母に褒められたくて率先してお手伝いをしたりしていた。どんどん母に似てくると言われる事は晴美にとって褒め言葉であり、とても嬉しかった。

そんな母が、晴美が中学二年生の時に病死した。

弟はその時まだ小学三年生で、本当に家の中の灯りが消えたように暗くなってしまったが、晴美が母の代わりに父親を支えて、弟を守らなければならないと決心をした。

その為、クラブ活動などはせず、学校が終わると買い物をし、晩御飯を作り、掃除や洗濯をして1日が終わるという日々を過ごしていった。

そんな生活は、晴美が短大を卒業して、今の会社に就職した後も続いた。

その為か、晴美は同級生よりも幾分大人びてしまい、友達と呼べる人も少なく、元来、内気な性格の為、異性と付き合うという事もほとんど無いまま来てしまった。


弟も無事就職して一人暮らしを始めたから、以前ほど家事に専念しなくても大丈夫になったものの、その時間をどのように使えば良いかわからなかった。


四月を過ぎて、晴美の部署にも新入社員が入ってきた。

金曜日の夜、早速新入社員歓迎会が開かれた。普段は飲みに出る事もない晴美も、忘年会や新年会など部署のメンバーの結束を深めるような行事には参加するようにしていた。

その日は、父親も夜遅くなると言っていたので、気がねなく遅くまで参加出来るのだったが、いつものように一次会のみの参加で皆んなと別れた。

このまま一人の家に帰るのも何となく引けて、賑やかな街をブラブラした。

洋服や靴などを見たものの、結局必要な衣類を買って家路に向かった。


駅から歩いていると、春真っ盛りだが、夜の風には冷気が混じり、アルコールで火照った顔には心地良かった。

いつもの川の橋の上に来て、ふっと立ち止まった。川は全く色を失った真っ黒な流れをつくり、その上に無数のさくらの花びらが流れていた。

重くゆっくりと流れる様は、まるで宇宙に浮かぶ無数の星のようで、さながら天の川のように見えた。

すると、黒い川の一点がきらきらと光り始めた。

晴美が空を見上げると、雲間から美しい月が姿を現した。

暗く墨汁を流したような空とは対照的に、白く真円の月は、まるで黒い空にあいた光のトンネルのようだ。


綺麗な月を見上げていると、急に胸の奥から孤独感が湧き出した。


母は今の晴美の年齢の時には晴美を産んでいた。

自分とて結婚しても、あるいは子どもを産んでいてもおかしくはない。


弟が家を出て、父親と二人の生活になったが、すれ違う事も多く、家族の絆も希薄になったように感じられた。


晴美も結婚願望はあるが、具体的に相手がいる訳ではない。高望みをしているつもりもないが、今の生活の中で出会えるとも思えないし、積極的に結婚相談所に行こうと思ってもいない。


結局、何かを望んだとしても、今の穏やかな生活に流されてしまうような気がする。小さな桜の花びらでは、大きな川のうねりに逆らう事が出来ないように。



仕事の帰り道、晴美はいつものターミナル駅を乗り換えの為に歩いていた。

いくつもの路線が行き交うこの駅の地下街は、時間を問わずいつも人で溢れかえっていた。


「こんばんわ」


唐突に後方から大きな声を掛けられ、晴美は思わず立ち止まってしまった。


「とてもスッキリしたお顔の相をされてますね。私、占いの勉強をしているのですが、ちょうど変り目の時期にきていらっしゃいますね。」


学生のような若さで、顔も体も丸い感じの一生懸命という言葉が似合いそうな娘だった。

彼女は鈴木と名乗った。

場所がら、様々な勧誘やキャッチセールスがあるため、晴美はいつもなら通り過ぎてしまうのだが、彼女が言った「今が変わり目のチャンス」と言う言葉に思わず立ち止まってしまった。


彼女は矢継ぎ早に

「今、どのような運勢を掴むかによって、あなたの永遠が決まる時ですね。何か思い当たることはないですか?」と捲し立ててきた。


「漠然と結婚については考えていますけど…」

「あ~、やっぱり。お相手はいらっしゃるんですか?」


「いえ、まだ。」


「やっぱり凄い転換期ですね、お顔に出ています。あなたにとって理想の相手と出会うチャンスが来ていますね。」


鈴木の言葉は何故か晴美の気を引きつけた。


「この近くに、私が大変お世話になっている姓名判断の先生がいらっしゃるのですが、これから見てもらいに行きませんか?」


直ぐに家に帰らなければならないという事でもない。占いで結婚の時期や相手が分かるなら…


晴美は鈴木と一緒に二つ先の駅にあるという鑑定所に行くことにした。


電車で二つ先の駅で降りて、大きな街道沿いにある高級そうなマンションの一室が鑑定所だった。中はいくつかの個室があるような造りで、晴美達は玄関から直ぐの個室に通された。


鈴木が、しきりに先生、先生と言っていたから、お婆さんのような人を想像していたが、自分と大して変わらない、もしかすると、自分よりも若いかも知れない田中という女性の先生が部屋に入ってきた。


田中先生は、スケッチブックのような物を使って姓名判断をしていたが、そこから段々と因縁について話し始めた。


ようは先祖の行いが、今生きている自分達に運勢という形で現れるという。良い行いをした先祖が多ければ順風満帆な人生を送り、逆に悪い行いをした先祖が多ければ、何をしても上手くいかず不幸な人生を辿るという。


晴美の場合は女性が苦労する家系で、母親が早死にしたのも悪因縁によるもので、このままの運勢だと晴美も結婚出来ない、或いは結婚しても離婚しやすい運勢だと言われた。


「どうしたら良いですか?」


晴美の一言は、重い話しばかり続いていたその場の雰囲気を、一気に軽くしたように感じた。

田中先生は、お祈りして来ますと言って部屋を出た。

先ほどまで眠たそうにしていた隣の鈴木も、間を持たせようと懸命に喋りかけてきたが、晴美は次の展開が気になり適当に相槌を打っていた。


田中先生が入って来て、再びスケッチブックに書き始めた。

「全ての元凶は、親子の縁が切れる事により人は自分勝手になり、男女の縁が切れる事により愛憎が生まれ、兄弟の縁が切れる事により争いが生まれたんです。そして本来、縁が切れていない状態というのは、親と子、すなわち親の親である先祖と私が強く結ばれ、先祖と結ばれた男女が真の愛で結ばれた夫婦となり、そしてその子供達も固い縁で結ばれた状態、すなわち真の家庭こそが完全なる縁で結ばれた形なのです。」

主要な単語をスケッチブックに殴り書きしながら、熱のこもった状態で話し続けた。


「家系にある因縁を断ち切る為には、真の家庭を家系の中に作らなければならないのですが、先祖の因縁があるので実際には難しいのです。

ですので、その代わりに完成された真の家庭を象徴する物を家系に入れなければならないのです。それが念珠です。」


「念珠?」


「そう、念珠です。念珠というと一般的には仏具ですが、これは特別な祈祷が施されたお守りです。珠は魂を現し、それらを固く糸、絆で結び、失われた親と子、夫婦の絆を取り戻し真の家庭を完成させたという条件を成立する事が出来ます。」


「それを持てば、家系の運勢を変えることが出来るんですか?」


「その通りです。珠も木とかでは無く石、キセキを使います。」


田中先生は、紙に大きく輝石と書いた。


「石には意志、魂が宿りますので…

晴美さんは、これを持ちたいと思いますか?」


「はい…。」


晴美は戸惑いながらも、それ以外の選択肢がないように感じられた。


「では、晴美さんに相応しい輝石をお祈りして来ますので、少しお待ち下さい。」


そう言って再び席を外した。

鈴木が、しきりに自分も先生に勧められて念珠を持つことで大きく運勢が変わったと言った。


田中先生が戻ってくると、晴美に合うのは翡翠で出来た念珠だと言ってパンフレットを開いた。

淡緑色の綺麗な念珠だった。


「これを授かる為には浄財が必要になります。

そして、数字には数霊が宿るため、全て意味があります。晴美さんに相応しい数字を3つ書きますので、ご自身で判断してみて下さい。」


そう言うと、紙に120、70、40と書いた。

晴美は瞬間理解出来なかったが、それが万単位だと気づくとギョッとした。

お金がかかるとは思っていたが、数万くらいだと思っていたからだ。

田中先生は、そんな晴美の様子を見抜いたのか、


「浄財というのは、浄罪という意味もあります。すなわち、家系的に連綿と続いてきた罪を晴美さんの代で清算するという事でもあります。本来であれば、全てを投げ打って神仏の前に出家するような条件を立てなければならないのですが、現実的には難しいですよね。

ですから、一瞬でも身を切られるような想いを越えなければ、家系的な運勢など絶対に変えることは出来ません。」


確かに、簡単に変わると言われれば、信じがたい気もする。しかし、ここまで真剣に自分も越えたら、今までとは違う運勢が来るかも知れない。晴美はしきりに強調されていた人生の転機というものだと信じてみようと思った。


それでも1番上の金額を選ぶ事は出来ず、真ん中の70を選んだ。


それからは契約書を書いたり、クーリングオフの説明を受けたり現実的な作業をしたが、最後に、これは陰徳積善だから暫くは誰にも話してはいけないと念を押された。


鑑定所を後にし、家路を辿っている時、晴美は何度も騙されたのではないかという葛藤の中にいた。


翌日の会社の帰り、晴美はATMから70万円を下ろしていた。

昨晩は、よく眠れずに悩んでいたが、これで結婚出来れば安いものだと思うことにした。


昨日の今日で、早速鈴木と一緒に鑑定所に行き、田中先生にお金を渡した。


「念珠は40日間、特別な祈祷をしながら作りますので、暫くお待ち下さいね。

これで晴美さんの運勢は大きく変わって行きます。しかし、晴美さんが理想の結婚相手に出会う為には、晴美さん自身が魂の成長をしなければなりません。

その為には心を磨く勉強をしなければなりません。

何処か目的地に行く為には、地図が無ければ行けませんよね。心も成長する為には成長する為の知識がなければならないのです。

私が個人的に知っているカルチャーセンターがあるのですが、鈴木さんにも紹介して随分と成長されたので、ぜひこれから一緒に行ってみたら如何ですか」


乗りかかった船とは、このことだろう。

晴美は、言われるがままに鈴木と一緒にカルチャーセンターへ行った。


カルチャーセンターは、ターミナル駅にあった。喫茶店のような談話室の奥に、衝立で一つ一つ仕切られたテレビを見るスペースが並んでいる。鈴木はビデオセンターだと紹介した。

暫くすると、カウンセラーという女性が2人の前に座った。

カウンセラーは小沢と言い、やたらに晴美を讃美し始めた。

その内、ここで学べばどれ程素晴らしい人生が待っているか、逆に学ばなければ恐ろしいかといった話しを織り交ぜながら勧めてきた。

結局、晴美は言われるがままに受講を決めていた。

そこではビデオを見るのだが、黒板講義で神様の話しや聖書の話しをするビデオだった。

晴美は今まで神様や聖書にまともに向き合った事が無かった為、理解することもあまり出来なかったが、反証する事も出来無かった。ビデオを見た後に小沢と話しをするのだが、小沢はこ れは真理だからという事を強調してきた。

ひと月も通っただろうか、小沢が泊り込みのセミナーに参加するよう強く勧めて来た。

晴美はどちらかというと人見知りで、初めて会った人たちと泊まるのは抵抗があると言ったのだが、小沢からはそういう所を変えなければ一生幸せにはなれないと言われ、セミナーの参加も決めてしまった。


1週間後の週末、晴美は郊外の旅館のような造りの修練所と呼ばれる場所に来ていた。

そこでは講師と呼ばれる人が来て、ほぼ2日間ビデオで見た講義を直接受けるのだという。

人見知りだった晴美も、似たような人が多いからか、思いの外打ち解けることが出来、それなりに楽しめた。

2日目の夜の講義で「イエスの生涯」という講義があった。晴美は、イエスキリストについては、断片的にしか知らなかった。

講師が語るには、イエスキリストという人は、マリアの子どもではあるが、父ヨセフの子どもではなく、そのため幼少期は今で言う幼児虐待のような環境で育ったという。

しかし、本来は救世主として地上において結婚をし、神様が望む真の家庭を築く為に来られたという。しかし、当時のユダヤ人たちは、自分達が救世主を待ち望んでいたにも関わらず、イエスキリストを偽救世主として迫害し、挙句の果てには十字架につけて殺してしまったのだと、怒鳴るような熱い言葉で泣きながら訴えていた。

その様子をまるで見ていたかのように語られてるうちに、晴美も自分でも驚くほど泣いていて、イエスキリストのために何かしたいとさえ思うほどであった。

今度はそのままの流れで4日間のセミナーも決めてしまった。


4日間のセミナーでは、ここが統一教会という宗教団体である事、2千年前に十字架で亡くなったイエスキリストが今の時代に再臨した事などを講義していた。イエスキリストが地上でなされなかった使命を受け継いだのが、韓国出身の文鮮明という人だと言った。

晴美は、全くピンと来なかったが、それらの内容よりも亡くなった母親の事を思った。母親が亡くなった時、弟は小学校三年生だった。どれ程の思いを残して亡くなったのか、それも晴美をこの道に導く為の犠牲だったのではないか、そう思うとどんな事があっても晴美はこの道を突き進んでいかなければならないという気持ちになっていった。


最初に念珠を授かってから、一年もしない内に晴美は仕事も辞め、家も出て出家信者として、ターミナル駅で前線活動というキャッチセールスをしていた。


晴美に声をかけた鈴木は、親の強烈な反対にあい無理矢理実家に連れ戻され音信不通になったらしい。晴美は父親に反対されながらも、父親や弟の為にも自分がこの道を貫き通すという決意のもとに家を飛び出してきた。


晴美は世間で霊感商法という活動をしていた。ある時は蔑まされるような対応をされる事もある、実績が出ない時は断食をする事もある、実績が出るまで帰れないと夜中の繁華街を女性2人で歩いた事もある。

それら全ては神様の為であり、再臨のイエスの為であり、日本の罪の為であり、自分の家系や家族の為だという信仰で耐えていた。


そんな生活も2年を過ぎた頃、結婚、その宗教では祝福という話しが出て来た。


その日、教会では生涯の伴侶となる相手の写真を貰う会がなされた。

写真を貰っただけで、結婚が決まるというのは非常に特異な事ではあるが、教祖が選んだ相手という事で、自分では決してわからない理想の相手であると信じて結婚するわけである。


晴美の相手は韓国人であった。写真は集合写真を引き伸ばしたような物でピントが合ってはいなかった。晴美が見た第一印象は目が小さくサルのような顔だと思ったが、理想の相手なのだと言い聞かせ受け入れたのだ。


実際に結婚する日、晴美は韓国に来ていた。


聖酒というワインを飲んで婚約する儀式の日とウエディングドレスを着て結婚する儀式の日と2日間連続で執り行なわれる予定であった。


式場はかつてオリンピックが催されたスタジアムで行われ、参加者は3万人にもなった。

スタジアムの席には、結婚するカップルで埋め尽くされ荘厳な雰囲気になっていた。


晴美は、婚約の儀式の日、親戚の叔母さんという人に連れられてきた夫となる人に初めて会った。

その親戚の叔母さんという人は、教会の古参信者らしく、大きな声で晴美によろしくという意味の言葉を言っていた。


晴美は、親戚の叔母さんの影で不貞腐れているような態度の夫の姿を見て愕然とした。

写真よりも随分と老けていて、土気色の顔には深いシワも多かった。身長も晴美と大して変わらないくらいだった。

晴美は、血の気が引くのを感じていたが、何とか信仰で越えようとしていた。


スタジアムの席に並んで座ると、夫の体からはタバコの匂いがした。

韓国の男性は信仰もない人も多いから、日本人の妻が変えていかなければならないと教えられていたが、晴美は自信を失いかけていた。

言葉も通じず、ただただ時間が過ぎるのを待つしかない状況に耐えられず、トイレに行って来ますと言って席を立った。


トイレから帰る途中で、同じ教会に所属する二つ年下の男性に声をかけられた。

彼とは販売活動も一緒にした事のある真面目な好青年であった。

彼の横にはエメラルドグリーンのチマチョゴリを着た可愛らしい韓国人女性がいた。


「綺麗な人ですね。」


そう言うと彼は幸せそうに頭をかいた。


「今度、晴美さんのご主人様にも会わせて下さい。」

と言われ、曖昧な返事をして別れた。

その場で自分の気持ちなど言えるはずも無かった。

意を決して席に戻ると、夫の姿は無かった。

式典が進んでも夫は現れず、結局その日夫が戻ることは無かった。


翌日は、合同結婚式である。晴美はウエディングドレスを着ても、このまま夫が来なければいいという思いと戦っていた。


会場に着くと、昨日の親戚の叔母さんと夫がいた。晴美の顔を見ると、叔母さんがまくし立てるように韓国語で話してきた。

恐らく、しっかり見張ってろとでも言っていたのだろう、晴美は泣きたい気持ちを堪えていた。


スタジアムで隣に座ると、夫からはタバコと共にお酒の匂いまでしてきた。

結婚式だというのに、ほとんど意思の疎通も出来ないまま終わってしまい、終わるやいなや夫はサッサと帰ってしまった。


晴美は日本に帰ってからも、この結婚を破棄したい思いで一杯だったが、教祖が決めた相手との結婚を破棄するという事は、信者として最も重い罪になるので、どうしてもハッキリと決断する事が出来なかった。

年齢的な事もあり、晴美は直ぐにでも韓国に行って結婚するよう周りの圧力に流されるしかなかったのだ


晴美は、韓国に来て驚かされる事が2つあった。

夫の実年齢が聞かされていたよりも5つも上だった。そうなると、晴美よりも10才以上上になるという事だ。


もう一つは、夫は定職についていなかった。

気が向いた時に日雇いの仕事をして食いつないでいるという生活だった。

であるから、住んでいる家も物置きのようなボロボロの狭い家だった。


更に夫は家族との関係が疎遠で半ば見放されてるような状態だった。

だから、この家も祝福式の時に会った、あの親戚の叔母さんが世話をしたらしい。

そのような状況を知るにつれ、ようやく腑に落ちた。


ようは、夫は信仰など全く無く、世話になっている親戚の勧誘を断れず、嫌々結婚したのだ。


初めに愛がない結婚でも、お互いが信仰を持っていれば、愛を育みながら上手くいく事もあるかも知れない。

しかし、晴美達の結婚は初めから上手くいく要素が無く破綻していたのだ。


その日暮らしの夫は、晴美と暮らし始めてからも、その生活態度を変えるような事は無かった。

それでも晴美を追い出さないのは、程の良い家政婦を雇ったとでも思ったのかも知れない。

晴美の方も、ヒリヒリするような夫との生活を耐え忍んだのは、日本は昔韓国に酷い事をしたという教会の教えの為だった。


日帝という時代、日本は韓国から「国王」「主権」「生命」「土地」「資源」「国語」「名前」という7つを奪い、従軍慰安婦や時として残虐非道の殺戮をしてきたと教えられてきた。

日本人はその当時の歴史認識を持っている人も少なく、言われた事をそのまま信じていた。


特に韓国に嫁いできた日本人女性たちは、自分達は日本の為にその罪を償う使命を持ってこの国に来たと教え込まれ、どんな苦労をしても罪滅ぼしとして感謝して越えなければならないと強く教え込まれた。


晴美も最初の頃は、その教えの通り、それでも夫に尽くそうと努力したが、生活が改善する事は無かった。


数年後、夫は腎臓を患い働くことも出来なくなった。必然的に晴美が家政婦などをしながら、働かなければならなかったが、夫の高額な医療費を払ってしまうと、ほとんど生活費が無くなるという生活になっていった。


晴美の窮状を見かねた、同じ教会に通う日本人女性たちが、食材などを分け与えながら何とか生活を凌いでいた。

その中でも、特に良くしてくれたのが純子という女性だった。

彼女は近所にある農家に嫁いでいた。

韓国では儒教意識が強く女性の立場、取り分け嫁という立場は低い。ましてやそれが日本人ともなれば、使用人のような立場でこき使われる。

純子の家は、姑が日本人嫌いで純子に辛く当たるとぼやいていた。

そんな純子ですら、晴美の窮状には同情せざるを得ないようで、お米や食材、時にはお金も与えてくれた。


晴美も周りの助けに感謝しながらも、何故自分がこのように生きなければならないのか、段々分からなくなっていった。

日本へと帰りたかったが、飛行機代を工面出来ないという事と呪縛のような使命感が躊躇させていた。


夫は、病院通いをしてもお酒を止める事が出来ず、少しでも気に入らない事があると暴力を振るうようになった。

晴美は、段々と生きていく意味も分からなくなっていき、高い場所に行けば、ここから飛び降りたら楽になれるだろうか、或いは眠る時は、このまま心臓が止まって起きなくなればどれほど楽か、そんな事ばかり考えるようになっていった。


その日、晴美は体調を崩して教会に行く事が出来ず、とても焦っていた。

信仰があるからではない、そこで今週生きる為の食材を確保する為だ。


数日後、晴美は純子の家を訪ねた。

外から様子を伺って純子を探したが、純子はいないようだった。以前、普通に家を訪ねて行った時に、純子の姑から口汚く罵られたので顔を会わせるのを避けていたのだ。

諦めかけて踵を返した時、純子がご主人と手を繋いで帰って来るのが見えた。


純子は、晴美に気がつくと小走りで近寄って来て

「晴美さん、体調崩したんだって、大丈夫?」

と声をかけて来た。


その横をご主人が、

「ヨボ、先に入ってるね」

と声をかけて行った。

純子は、

「いつもの用意してあるから、ちょっと待ってね。」

と言って、ご主人の後を追うように家の中に入って行った。

暫くすると、ビニール袋2つに野菜や米、お菓子なども入れて持ってきてくれた。


晴美は、それらを受け取ると挨拶をして帰って行った。


晴美の脳裏には、幸せそうに手を繋いで歩く純子の姿が焼きついた。

確かに純子も苦労している。しかし、晴美のそれとは全く違うように思えた。


純子がいなければ、食べる事も、或いは生きていく事も出来ないかも知れない。

それでも、晴美は酷く裏切られた気分になって冬枯れの道を泣きながら歩いて帰った。


今日、夫は病院へ行っている。とっくに終わっている時間だが、夜になってもまだ帰ってこない。

晴美は、純子から貰った貴重な食材で必要以上に晩御飯を作ってしまっていたのだが、とっくに冷めてしまっている。


案の定、夫は酒を飲んで帰ってきた。

あれ程医者に止められていても、この人は変わる事が出来ない。

普段は、言ってもどうにもならないので、話しをしたりしないのだが、その日の晴美は自分の感情を抑えることが出来ず夫に意見した。


夫は赤い顔を更に赤くし、晴美の顔面を思いっきり拳で殴った。晴美は勢いあまって壁まで跳んだ。引っ叩かれたり、蹴られるという暴力は日常茶飯事だったが、ここまで強く殴られたのは初めてだった。

晴美は恐怖で慄きながら、それでも治まらず家の中を壊す夫を見ているしか出来なかった。

ようやく落ち着いたのか、夫は乱雑になった部屋で、そのまま布団を被って寝てしまった。


電気も消えた部屋の片隅で、晴美は壁にもたれながら膝を抱えてぼうっとしていた。

左顔面に心臓があるかのようにドクドクしていたが、痛みは感じられず、晴美はもう自分が生きているのか死んでいるのかもわからなかった。


ふと、光を感じ窓を見上げると、そこから月が見えた。

白く真円の月、暗闇の世界にあいた光の穴だ。

晴美は不思議な既視感を感じた。


(どこかで、見た事がある…。どこで見たのだろう…。そうだ、実家の近くの川から見たんだ。)


桜の季節、あの時見た月は本当に美しかった。


あの頃の自分は穏やかで平凡な暮らしだった。

それが、どれほど貴重な物だったか知る由もなかった。


普通の結婚、夫と子どもに囲まれた平凡な日々。毎日が今ある生活が、永遠に変わらないと思える日々が手に入ると思っていた。

教会に来れば、そんな生活が当たり前のように手に入ると思っていた。神様が選ぶ理想の相手は、きっと自分を大切にしてくれる優しい人だと思っていた。特別な事など必要無かった。

ただ、毎日を笑顔でいられる日々を夢見ていた。

教会に来れば、教会に来たのだから、そんな理想が自分の物になると思っていた。

逆に教会などに来なければ、手に入れる事が出来たのかも知れない。時を戻せるなら、あの時の自分に戻れたなら、ちがう道を選べるのに、

そんなとめどもない思考は空回りしていく。

何故なら、今はもう決して手の届かない所にあるという事を分かっているからだ。


美しい月は晴美の瞳の中で揺れた。



「チュギョ、(殺してくれ)」


それは、突然静寂の中で聞こえた。


寝言だったかも知れない。

あるいは、空耳だったかも知れない。


重要なのは、晴美の耳には確かにそう聞こえたという事だ。


(そうよ、そうだわ。この人だって生きてて何の意味があるの?家族や親戚にも疎まれ、病気で働く事も出来ない。女房も養えず暴力でしか応える事しか出来ない…。この人にも生きていく意味などないんだわ。そうよ、私が送ってあげなくては…)


危険な思考は、甘い蜜のように晴美の心を蝕んだ。


晴美は、音もなくすうっと立ち上がると側にあったタオルを、寝ている夫の顔面に思いっきり押しつけた。

普段は、どこにそんな力があるんだという力で暴力をふるう夫も、僅かばかりの抵抗を見せただけで、あっさりと動かなくなった。


晴美は再び、先ほどいた場所に同じように座ったが、窓の外の月は、もう見えなくなっていた。


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