後
袁傪は己が任務を忘れ、無防備のまま叢に近づき、懐しげに久闊を叙した。そして、何故叢から出て来ないのかと問うた。李徴の声が答えて言う。
自分は、脆弱なる人體の軛から解き放たれた。故人と語らうことなど、最早、何もない。すぐ殺してはつまらん。話を交わすのならば、どれ、拳にて語らおうではないか。
その言に、既にかつての豊頬の美少年の俤はなく、しかし、往時の語らいを袁傪は想った。
曰く、李徴の身には、己ならざる獸の気性がある。この身を焦がす尊大な羞恥心と傲慢な自尊心よりも、それが恐しいのだと。
当時の袁傪は、李徴のその言について、若くして科挙に登第した、なまじ才気ある若人が故の、いわゆる若年の至りだと思ったのだ。
しかし、その言は、果して正しかった。斯くの如き事情で、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪もうとしなかった。彼は叫ぶ。
「人であることから逃げたか、李徴子!」
「人であることを棄てたのだ、袁傪!」
月夜に、戦士が二人。さらばそれまで、問答は不要ず。
袁傪は、地脈を踏み跟歩に構えた。その構えは、正しく形意拳・虎の型!
かつて袁傪、武者修行に西方を赴きし折、霍山の頂にて編み出した必勝必殺の型である。獸を模したその身には、人の身を超えた爆発的な勁が宿る。
袁傪は叢の傍に立って、見えざる敵と対峙した。
曾ての袁傪と李徴は、その伎倆伯仲、東で袁傪が盗賊を誅して名を揚げれば、西で李徴、蝦を倒して列強に数えられた。
名人への道未だ嶮しく遠かれど、互いに切磋琢磨し百戦百分。さりとて、それは李徴が人の身でありし青春の話である。時は朱夏、袁傪は監察御史と成り大陸各地の強敵を打倒し、李徴は悪名轟く人喰虎へと果てた。
両手両足で地を攫む力強き姿勢にて、叢中より出るは虎、先手を取りて袁傪に迫る。袁傪身を翻し、寸毫の間もなくその横腹に発勁一撃! 疾風がごとき拳脚冴え渡るも、しかし人虎李徴、些かの痛痒も見せぬ。夜露と血に塗れし金毛皮は、半可なる打突擲撃を通さない。
今や高手となりし達人の一撃さえも、虎には通じないのだ。
「間抜けがァッ! お前はこの李徴にとっての猿なんだよ袁傪──ッッ!!」
剛爪一閃! 人虎李徴の右の剛腕が、袁傪の鳩尾に炸裂する。只一撃で、袁傪の肋骨は盡く折れた。地脈を踏みしめる守勢の構えによって高められた内功がなければ、既に即死していたであろう。李徴はそのまま、仰向けに倒れた袁傪の上に圧しかかり、喉笛目掛けて牙を剥く。
「お前の血肉で、この身の餓え乾きを癒やしィーッ! その後に、都の取るに足らぬ人間どもを喰らい、愚帝を殺しにいってやろうッ! 中華全土に覇を唱えるのはこのおれッッ! 李徴を措いて他にないのだーッ!!」
喉笛に牙を突き立てるその刹那。
袁傪の掌底が開口した李徴の口蓋を捉え、勁が爆裂した。
致命の一撃である。取った。袁傪の拳には、確かに頭蓋を砕いたその感触があった。
達人同士が死合うにあたり、その決は瞬きの内に着くものだ。練達せし技倆は、その一撃一撃を遍く必殺へと至らしめるためである。
「超曰く──『不入虎穴、不得虎子』。かつての君ならば、ここで油断などしなかっただろう。君は最早、我が友、李徴ではない」
しかしその声には、まだ惜別の念が籠もっていた。袁傪はかつての友の名譽を護るため、ただの人喰虎を討伐せしめたと報告する必要がある。
そのために、目前の人虎は、我が朋友、李徴であってはならない。
「ぐッ……あああッ!! 然り! 然り! 我は李徴ではない! あの弱き男であってなどなるものか!」
万里に響かんばかりの咆哮と共に、激しく痙攣する虎の胴体から、一対の黒き翼が生えた。
そして筋骨は膨張し逞しく、金の毛皮を割いて黒光りする筋繊維が覗く。額からは七色の怪光線を発し顎は首まで裂け、両目の間には七つの瞳が生じ、元あった片方の目は頭の内側に入り、もう片方は外側へ飛び出す。手足の指は七本に増え、電流のように逆立った体毛は先端に向かうほど血のように赤く変色した。
李徴第2形態である。
「そうだ! 己は窮奇! 気性残忍にして天に唾する真正の魔性ッ! 我が爪牙にて天地の理を覆してやろう!」
窮奇は馴らしとばかりに黒翼を羽ばたかせると、大嵐が巻き起こる。周囲の樹木は轟音を立てながら裂け倒れ臥し、商於の家屋は皆諸共に粉砕され、眠りについていた者たち盡くが、一瞬にして、黒翼の嵐が暴威によって絶命した。
数多の命が潰える気配を全身に感じ、窮奇は裂けた口を半月に歪めて嗤う。
「いい気分だ! 取るに足らぬ弱者どもが、おれがちょいと羽を動かしただけで死んでいく! 最高の気分だ! 歌のひとつでも歌いたくなるほどになッ! 袁傪ーッ! 貴様のチンケな術理は、この李徴の力を高める慶事だッッ!
天因凶疾成殊類 幸福相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
我為異物蓬茅下 暴力暴力暴力力
力力力力力力力 殺殺殺殺殺殺殺!!!!」」
異形の怪物が詠みし七言絶句に、袁傪は句を継げずいた。
これは、正しく獸である。人虎などという表現が、この暴威を前にしては余りに易しい。
「袁傪。貴様のお蔭で、くくッ、大勢死んだぞ! クハ、ハッ、クハハハハハハァッ!!」
巨木を裂き大岩を砕く暴風雨に、窮奇の笑い声が響く。
「なぜ嗤う」
しかして袁傪、禍つ嵐の中で、なお両足を地に着けていた。
「なぜ、驕る」
「どうした、人間。何も不思議はなかろうよ? クク、万象一切を薙ぎ倒す、この素晴らしき力がないから理解不のだ」
「そうか」
袁傪は、得心がいったと頷き、
「強いのならば、堂々としていればよいだろう。己が力を誇示する必要はない。その分厚い毛皮の下に潜むのは、戦士として武林の門を敲いたばかりの初心者にすら劣る、凡庸な魂だ。
窮奇。──お前の心根の底には、今もなお、かつてと同じ、怯懦があるようだな」
「…………吼えたなッ!! 脆弱なる人間風情が、この、おれにッッ!!」
激昂した李徴は黒翼を大きく広げ、己が全霊を以て目の前のちっぽけな命を打倒せんと狙いを定めた。
窮奇の憤怒に呼応し、地が裂け、嵐が荒れ狂う。
吹き荒ぶ風は泥濘草木を巻き上げ、覚束なく地に足を付ける袁傪を阻む。体内では散り散りに折れた肋骨が幾つもの臓器を傷つけ、先の一撃による反動で、腕の肉は削がれ尺骨も剥き出しの状態である。最早死に体満身創痍、武の基本たる構えすらも儘ならぬ有様だ。
しかし、袁傪が倒れることはない。袁傪は死境の淵にありながら、その勁は曾てないほどに高まっていた。
実戦に勝る鍛錬は、古今存在し得ぬ。
故にこそ、生命の絶対的窮地に陥り、人虎李徴は窮奇李徴へと進化を遂げ、袁傪の功夫は彌増したのだ。
全ては、目前の敵を打倒するために。
天頂に張りついた銀月が、流れる暗雲の廻間より二つの影を見ている。
──強者よ。決着の時は来た!
窮奇李徴の構えは、奇しくも、かつて彼が武人であった時と同一であった。四ツ足の獸は巨岩のような上体を起こし、地を攫むべき一対の脚は、今は天を攫んでいる。
一方、袁傪は構えず、ただ木偶のごとく立つのみだ。視線は胡乱で、表情もその精悍さを失い、今や愚者のような容貌と化している。ただ、その呼吸のみが静謐だった。
袁傪の上体が前のめりに倒れ、窮奇は勝利を確信した。
「もはや立つことさえできないとはなァッ!! 戦士失格は貴様だッ! このカスがァーーッッ!!」
窮奇が二足で駈け出すと同時に、大地は爆ぜ割れ、大気の圧搾により烈風が生じた。凶風は四つん這いになった袁傪の全身を切り刻む。流血が風に混じると、血風は煙幕のごとく袁傪の顔へと纏わりついた。
「血の目潰しだッ! どうだッ!! 勝った! 死ねえッッッ!!!」
獣の身から放たれるは、ヒトが編み出し千代に八千代に煉り上げし破壊の術理──即ち、掌底一撃!
相対するは唯人袁傪、構えず、ただ暴威を受くるのみか──!?
「ハハ、ハハハハハハ、ハ──?」
否。否。否である!
袁傪は構えることができなかったのではない──構えなかったのだ!
窮奇李徴が放った全霊渾身の拳は、唯人袁傪の内功によって、完全に受け流されていた。
──是なるは、高手袁傪、死境の淵にて編み出した秘奥・不構之構。
至為は為す無く、至言は言を去り、至打は打つことなし。
袁傪は四足で立ち、四肢にて地脈と一体化し、正しくその身は大地となっていた。
「莫迦なッ! この、おれの拳が! どんな小細工を──ッ!?」
驚愕の直後、受け流された必殺拳の爆発的衝撃が余すことなく、窮奇李徴の全身を伝った!
「が、が、ががが、ガッ──」
歪なほどに膨張した筋肉は爆発し、額は割れ、七つの瞳は盡くが弾け飛び、四肢は四方に千切れ、瀝青のように黒い血が、驟雨のごとく降り注ぐ。
──至打は、打つことなし。
仰向けに倒れ伏した窮奇は、それでも猶、未だ息をしていた。重き軀を尺取虫のように地に這わせ、大地を黒血で穢しながら、四つ這いのまま動かぬ袁傪に、鋭利なる乱杭歯を突き立てんとする。
あと三歩。
あと二歩。
あと一歩。
あと、半歩。
そこで動きは止まった。
「……李徴、李徴よ! おれは、おれが望むままに、貴様が倦んだこの爪を、この牙を! 大いに楽しんだぞ!」
金虎は銀月に大きく吼えると、静かにその身を横たえ、そうして、二度と動かなくなった。
これが、嶺南の人喰虎の最期であった。
尋常ならざる雨風は直ちに止み、宵闇が静寂を取り戻した。
大地に刻まれた破壊の痕は、地殻の底にまで及んでいる。地脈もまた、窮奇の一撃で破壊され乾上がっていた。今後数百年、この地に草木は一つとして生えぬだろう。
この商於の地に、生き残りし者は袁傪を除き誰もいない。禽獸草木、この地に生きる生命は全て、窮奇の手によって果てていた。
荒野に吹いた微かな風は、何を運ぼうともせず、ただ袁傪の髪をのみ揺らした。
袁傪は勝利を誇らず、ただ友の死のみを悼み、しばし、佇む。
玲瓏たる月は、小動もせず天頂で輝いていた。
袁傪の全身の疵は、生涯瘉えることはなく、全身を覆う麻の包帯には常に血が滲んでいた。
門下の子弟は、それは一体どうした具合なのですか袁先生と、好奇と畏怖を以て袁傪に絶えず問いかけてきた。
しかしこの死闘を、友の数奇なる宿業を、誰に何度問われようとも、袁傪は生涯、誰にも語ることはなかった。
故に、天の銀月を除いて誰一人、この天地を震わす闘いを知ることさえもなく。
時の史書も、監察御史某討人喰虎事と記すのみであった。