万屋
僕が見た、最後の色。
その鮮やかな色だけを覚えている。
それは、どこもかしこも真っ白に彩られた冬の寒い夜だった。
友人に教えてもらって尋ねたその店は、ごく普通の茶屋に見えた。似たような造りの建物が並ぶ中、その店もまた似たような出格子を備え、すっかり周りの景観に馴染んで建っている。ただし、暖簾も大戸もない。小さなくぐり戸がひとつ、それも通りに面していない側にあるだけだった。本当にここで合っているのだろうか。
躊躇ってなかなか戸を叩けないでいると、カラカラと向こうから戸が開いた。
「いらっしゃいませ」
僕を出迎えたのは、お引きずりの着物を着た黒髪の女の人だった。いらっしゃい、ということは、やっぱりここはお店だったらしい。でもこの店構えなら、きっと新規のお客さんなんてひとりも来られないだろうと思う。
「どうぞ、お入りくださいな」
女の人はくるりと背を向けて、僕を中に誘導した。店の中はたくさんのランタンが吊るされたり置かれたり、あちこちに配置されて、それぞれがぼんやりした光を放っている。
中はそんなに広くなかった。古そうな本がたくさん並ぶ本棚と、高価そうな貴金属が飾ってある飾り棚。それに加えて、売り物なのか使う物なのかよくわからない、いろんな形の椅子が所狭しと並べられている。それらを抜けた先に、硝子でできた大きめの机が置いてあった。
「こちらにお掛けになって」
女の人は机の隣に置いてある革張りの椅子を指した。そうして自分はその斜向かいにある長椅子に掛けて、さら、と着物の裾を直しながらじっとこちらを見つめた。
赤が基調の着物に、同じく真っ赤な口紅と真っ白な肌。こちらを見つめる大きな目は、綺麗にまとめられた髪と同じ漆黒の闇の色。いろいろと鮮やかで目が疲れそうだった。
「今日のお客様は無口な方ですのね」
彼女はそう言って微笑んだ。色の強さとは違って、柔らかい笑顔だった。
「……ええと、おじゃま、します」
ものすごく今更な言葉を口にして、僕は椅子に座った。
「緊張なさらないで。上着と襟巻は、隣の椅子に置いていただいて大丈夫ですから」
「……」
促されるまま、僕は持ち物を置いた。何から話そう、と考えても上手く言葉が出てこなくて、俯いたまま袴を握る。
「……」
「……」
「あのお客様の、ご紹介かしら?縁がべっ甲の眼鏡をかけていらっしゃる方」
思わず顔を上げた。聞いているのか?本人から。
「いえ、ただの予想です。同じ年頃のお客様はあの方しかいらっしゃらないから」
まるで僕の思考を読み取るように彼女は答えた。漆黒の瞳が、全てを見抜いているようで少し怖い。
確かに今日僕は、彼の話を聞いてここへ来た。どんな店で、どんな店主なのかを見るために。
「その、通りです……ええと、欲しいものがあるわけではないんです。一度行ってこい、と彼に言われまして」
「そうですか。でも……欲しいものはないのですね。困りましたね」
ううん、と彼女は首を捻った。その間も僕から逸らされないその目は、一体何を見ているんだろうか、と思う。僕の目とは同じものに思えなくて、やっぱり少し怖かった。
「ここは、お店ですから。何かを買いに、お客様がいらっしゃいます」
そうだろうと思う。僕の同級である眼鏡の彼も、最初は欲しかった希少な本を寄せてもらえる店を聞いたのだ、と嬉しそうに話していた。僕はそれほど本に興味がないから適当に聞いていたけれど、それから少しずつ、彼の通う頻度と話す熱量が増していった。本に対する熱意がいつの間にか店に対する熱意に代わり、辛うじて授業にこそ来るものの、すぐに「店に行くから」とか、「あの人に次に頼む本を考える」とか、どこかへ行ってしまうようになった。そしていい加減に心配になって昨日彼を強く引き止めたら、気になるなら君も一度行ってみたらいい、と場所を教えられたのだ。そうして、今に至る。
「ここは、本屋なのでしょうか」
「本も、売っていますね」
……含みのある言い方に、なんだか嫌な予感がした。
「彼は、本当にここへ本を買いに来ているのでしょうか」
「他のお客様のことは、お答えしませんの」
「他には、何を売っているのですか?」
「何でも」
「何でも?」
「ええ。お客様のご希望に合わせて、なんでも」
会話が続かなくなった。とりあえず僕は、彼がなんともないならそれでいいのだけれど。
「失礼かもしれませんが……僕には彼が少々、こちらへ入れ込みすぎているように見えるのです」
「そうですか」
「どうしたら……いいのでしょう」
さぁ?と彼女は首を傾げた。僕らよりも年上の人だと思っていたけれど、その不思議そうな表情はまるで子供のようだった。
「それよりも、私は店主としてあなたの欲しいものへの興味の方が強いですわね」
「それよりもって……」
「ここは、何でも御用意するお店です。だから皆様からご贔屓にしていただいているのですけれど……それを知らずに来る方は滅多にいませんから。欲しいものがない、と言う方も」
「僕はただ……彼が心配で」
「では、何か買われてはいかがでしょう。彼の気持ちになってみては?」
「……」
一理あるかもしれないけれど、急に言われたって特に欲しいものなどない。大体、何でもってなんだ。
「何も……思い浮かばなくて」
「本当に、何でもいいんですのよ。物によってはお時間もお代も、たくさん頂きますけれど。逆に、本当に欲していないものは御用意できません」
「え?」
ふふ、と笑って彼女は言った。
「例えばあなたは、私を少し怖いと思っている。そうでしょう?」
ギクリとした。否定できない。飲み込まれそうな彼女の目が、怖い。
「それと同じ。本当の気持ちしか、私には伝わりません。望む意思が弱ければ、私には届かない。だから御用意もできませんの」
なんだかもう、一刻も早く店を出たかった。怖い。彼にはやっぱり、もう店に通うのは辞めるべきだと伝えよう。何を買っているとしても。
「お帰りになりますか」
彼女はそう言って、初めて目を伏せた。その仕草のなんと妖艶なことか!怖かった目は長い睫毛に隠されて、急に儚げな眼差しに感じられた。ランタンの灯りに照らされる喉元は白く華奢で、細い肩が美しい。閉じられた胸元に思わず目がいって、体がカッと熱くなる。ごくりと唾を飲んだ。
「……あら、まぁ」
伏せられた目がゆっくりと開けられていく。ぱっちりと目が開いたと思ったその時――
僕の前に、彼女の姿はなかった。
「望んでしまったのですね」
頭の上から声がする。僕の背後に立っているらしい彼女は、そっと僕の目を手で覆って囁いた。
「お代は、高いですのよ」
そのまま耳元に口付けが降ってきた。力が抜けそうな程に柔らかくて心地いい肌の感触と、濃い花の香り。頭が回らない。触れた肌の感触に全ての注意が奪われる。
遠のく意識の中で、白く美しい指の合間から瓶に入った目玉のような物が見えた。
「いけませんのよ。欲しいものがないのにこの店に来てしまうのは」