天下の星 3
集落を出てから衝撃的だったことはいくつもあるが、とびきり驚いたのは体術の習得が一般的でない、という事実だった。
通常の一般人は押しなべて身体能力が著しく劣っていたのだ。僕どころか、集落の爺さん婆さんと比較しても、だ。
肉体的には未だ成長の途上である僕は大概の大人より頭一つ分は小さい。それでも大半は相手にならない。鍛えている戦闘職の面々を含めても、だ。
この二年で健康のために磨いた伊予流を使うことは滅多になかった。
長老が教えてくれた伊予村の由来については、もしかしたら本当なのかもしれない。
そう思うくらいには他人と違うことは理解したつもりだ。
「だけどさぁ……ちょっと弱すぎない?」
僕の遠当て一発で気絶した肉の塊を前にぼやく。
中央区にあるエラドリデルの軍本部。最奥の偉い人が座る椅子にブロック肉が置いてあった。
耳障りな声で喚き出したので遠当て――指向性を持たせて気合をぶつけたらあっさり失神してしまった。
仮にも軍隊のトップがこれじゃダメだろう。体躯こそ大きいが、余分な肉が多すぎる。精神力も弱そう……弱かったし、偽物の疑いがある。
影武者を期待……いや、危惧し、しばし周囲の気配を探る。
「……いない、なぁ」
正面からぶん殴ってきたやつらで全員だったようだ。
それにしたってここの兵士は酷い。まだ田舎の農民の方が鍛えられた肉体をしている。
「まあ一番上がこんなんじゃそうなるか……」
肉塊はお茶目に白目を剥いているが、その程度では醜悪な面を改善不可能だ。沼に住む蛙に似ていると思ったが、こいつの肉は不味そうなので食味が良い蛙に失礼だ、やめておこう。
観察もそこそこに、僕は部屋の物色を始めた。
本で読んだ物語ではよく不正をしている権力者が登場していた。自らの歴然たる意志を持って悪事を働いているにも関わらず行為を隠そうとするけしからんやつらだ。
そして何故か不正の証拠を自分で確保しており、手の届くところにひそかにこっそり置いている。
白磁の壺の中、重厚な本棚の裏、豪奢なソファの下――怪しい場所を次々とさらうが怪しい金庫や仕掛けは見つからない。
「いやいや……まさかね……」
怪しすぎて逆に確認せずにいた定番の箇所、壁に掛かった額入りの絵画を見つめる。
そっと縁に手を寄せ、壁との隙間に視線を巡らせた。
「あるのか」
さりげなさを装ってはいるが、壁面に穴が空いている。針金が一本くらいなら入りそうな大きさの穴だ。
執務机の引き出しを漁ると、それにぴったり合いそうな鉄棒が出てきた。角に沿わせて誤魔化していたが、あると思って探したら一発で見つかった。
穴に棒を押し込むと、すぐ横に引き手が押し出されてくる。現れた隠し棚の中には紙の束といくらかの初めて見る硬貨、そして何かの牙で出来た印章が入っていた。
硬貨は小銭入れに、紙束と印章は襤褸マントを裂いて結んでおく。
結ぶ前にぺらぺらとめくってみたが、数字ばかりが並んでいて、それが何を意味するのか僕には理解出来なかった。
こういうものはマルイチに任せるに限る。
早々に諦めた僕は軍本部の練兵場を通り正門に向かった。それを邪魔する兵士はすでに全員眠っている。明日の朝にはすっきり目覚めるはずだ。
――予感するよりも早く、殺意が背筋を撫でる。
本能が身体を動かした。
咄嗟に避けた半歩の刹那、彼方より閃いた線とすれ違う。
僕の眼でも捉えきれなかった何者か。
振り返るとすでに、長槍を手に構えていた。
目にも留まらぬ突撃、そして避けられた直後に体勢を整える身体操作の練度。
「はあ……面倒な……」
漏らした溜め息が口の端に引っ掛かって熱い。
襤褸マントを羽撃かせ、腰を落とし構えを取る。誰かを相手に構えるのは随分久しぶりだ。
欲を言えば僕も武器が欲しい。
「この狼藉……何の目的があって公都に騒乱を持ち込む。何者だ」
視界の隅に転がっている兵士の剣を気をやりかけ、落ち着いた声音で問い掛けられた。初手で必殺を目論んだとは思えない冷静さ。
そこで初めて僕は、彼女を意識に乗せた。
頭の後ろ側が疼く。
小柄な僕よりもなお華奢な体躯。防具は軽装で腕と足を保護する籠手と脛当てのみ。隠しているのかもしれないが、身体よりも大きいことが分かる丈余りの服装に鉄板などは見当たらない。
夕陽の色をした髪は馬の尾みたいに纏められている。長い毛先は鋭く整えられて、眼潰しには最適な形をしていた。
そして表情を映さぬ端正な相貌は、この町に来てから最も綺麗だと思えた。
濁りのない澄んだ瞳は大都市において貴重な存在だ。たとえ善良な人間だとしても、その身にまとわりつくしがらみが濁りを生み出すこともある。
彼女の瞳は山の鮮やかな紅葉を連想させる美しい色をしていた。
「僕は被害者だよ。身に覚えのない罪で殺されそうになった」
「どちらが被害者に見えるかは歴然だが?」
「手加減はしたよ。誰も死んでないでしょ」
「公爵軍を壊滅させたことには変わりない。目的を答えろ」
「そう、この軍が弱すぎて気が付いたら全滅してたんだけどさ。君こそ、どこのどなた? ここの人じゃあないよね」
終わりのない問い掛けになることを察した僕は、矛先を変えた。
エラドリデル公爵が治めるこの都市には、公爵が運用する常備軍がある。なお、現在、本部の人間は軒並み地面を舐めているが。
彼らは共通して胸甲を兵装として取り入れている。胸甲には公爵家の家紋が象られており、それが身分証明ともなっていた。
当然ながら胸甲を装着していない対面の女は僕と同様に身元不明者というわけだ。
僕の問い掛けに、彼女は油断なく懐に手をやった。
取り出された握り拳の中から、鎖が下に伸びる。先端に銀のカメオが繋がっていた。
「私はレイナディア帝国第二皇女エリナエール様の直属侍女アステラ。姫様から調査の命を受けている今、私には不審の塊であるあなたに対し殺害許可が降りる。この距離なら先程のように【瞬雷】は外さない。生命が惜しくば投降しろ」
カメオには女性の似姿が浮き上がっている。
おそらくはそれが第二皇女なのだろうが……、
「あいにく僕はお姫さまとやらを見たことがなくてね。おまけに田舎者で、常識も付け焼き刃だからそれがどんな意味を持っているかも知らないんだ、悪いね」
彼女は一度だけ眉を跳ね、カメオを大事に仕舞い込む。槍に両手を添える。
「価値の分からぬ者に最上の物品を提示したところで無意味か。では、その無教養を悔いて死んでゆけ」
「おっと、その前に一つ良いかな」
僕は遠当てで機先を制し、飛び出しかけたアステラの出足をくじく。
「君の突撃技……【瞬雷】って言うのかな」
話しながらゆっくりと円を描くように歩く。そんな僕から距離を適正に保つべく、彼女もまた静かに円を描き始める。
「確かにすごい加速だ。初見でこの距離なら僕も対応は難しい」
兵士の腰から外れて転がっていた長剣を拾い、離れたところに紙束を放る。瓦礫の陰に落ちたのを見届けて、足を止める。
これで彼女の術理を観る準備は整った。
緩んだ頬を引き締めながら、僕は気軽に伸ばした左の指先をちょいと曲げる。
「別の技が見たいな。それはもう飽きた」
床が爆発すると同時、アステラの姿が霞のように消えた。
【瞬雷】、まさしく雷の如き早さ。
――だが、これは一度見た。
瞬時に振り上げた剣で胸元にまで迫っていた穂先を弾く。
結果が信じられないでいるアステラと視線が交差する。初めて感情を顔に出したアステラに、僕は思わずニヤリと笑っていた。
バランスを無理やりに崩された彼女が至近距離で死に体を晒す。
伊予流・改【旋拳】。
鼻が触れるほどの超至近距離であろうと関係がない。
全身の回転を拳に集約し気合を捻り込む【旋拳】に適正な距離は、密着せんほどに近付いた敵の懐だ。
腹が柔らかくない生き物は少数派。僕の拳がアステラの脇腹を撃ち抜いた。