山の獣が牙を剥いた 2
「何十年かに一度、おんしのような者が出る」
視覚を失ったはずの眼で、長老は僕を見つめていた。絶対に見えていないはずだが、心の奥底まで覗き込まれたような気がして、少しだけ居心地が悪い。
「この村で産まれ、老い、そして死んでいく。わしらぁには、村と、谷と、山しか要らんでな……」
灰の上で炭がパチッと弾けた。
「んだが、空の向こうを知りたがるもんが出る」
囲炉裏を囲む顔が赤く染まり、長老の話を静かに聞いている。
「そういうもんに限って、飛び抜けたもんを持っとるが……まさかのぅ……わしが子供ん頃から生きとる【岩砕】を狩るとは……」
長老は背後に飾られている【岩砕】の毛皮を見上げた。足を床に付けていても天井を覆うほどの体躯は、炭火の光量ではまさに今襲わんとせんばかりの威容を誇る。
「あまりにも早熟じゃが……すでに村一番の狩り手なんは間違いない。おんしを止められるもんはおらんのう」
「……ありがとうございます」
遠回しな出立の許可に、僕は頭を下げた。集落を出ていくことにわずかばかりの罪悪感はある。
「気を咎める必要はない……。もうじき死ぬ村におんしらを留めるのもかわいそうじゃて」
集落を出る理由はいくつかあったが、最たるものは長老の言葉にあった。
この集落に子供は二人しかいない。
僕とヘイズだけだ。あとは年嵩の人間ばかりだ。その数もさほど多くない。
空の向こう、山を越えた先には外の世界が広がっている、とは口伝で教えられるが、この広大な山を越えてやってきた人間はいない。
閉じられた集落であり、いずれ消えていく。そのいずれ、は僕らが見ることになるはずだ。
「さて、トゥーリヤ……村を出るおんしに、村の長として渡すもんが二つある。名と技術じゃ」
「名と技術……ですか」
「さよう。こんな村じゃが、一応は名があるでな。外ではイヨ村のトゥーリヤを名乗るとよい」
周辺に集落は一つしかないので名を耳にする機会は全く無い。村、の一言で通じるからだ。
名も無き集落だと思っていたが、実はそうでもなかったみたいだ。
「聞き慣れない響きの名ですね」
「うむ。わしらの先祖は山を越えて空の向こうより遥かから訪れた、と聞いておる。そして、自然溢れるこの地に隠れ棲むように村を築いた」
僕の怪訝な顔を察しているのか、長老はゆるやかに頷いた。
「わしらに伝わる体術……イヨ流と言うが、当時は一騎当千の猛者を幾人も育て上げたそうじゃ。権力者に目を付けられたぁがために逃げたらしいのう」
「はあ……」
僕の修めた体術がそんな大層なものだとは。
集落で修めていない人がいないのであまり実感がない。
「おんしが修めたのはイヨ流の基礎……そいで、イヨ流には他の術理にあるような奥義や秘伝なんはなーんも無い。おんしはすでにイヨ流の全てを知っとる」
「……先程は技術を渡す、と……」
疑問を提示すると、長老は声低く笑った。
「間違っとらんぞ、おんしにはわしの大事な技術を伝授しよう。このわしの、健康の秘訣を、のう」
「健康の秘訣?」
確かに長老は目が見えない他は至って健康な爺さんだ。何年生きているのかは知らないが、常々元気な爺さんだと思っていた。まだ狩りに行くからな。
そんな超健康にはどうやら裏があった、ということでいいのだろうか。
戸惑いを隠せずにいる僕に長老は答えた。
「伊予深森流、呼吸術」
「イヨシンシン流……」
「わしがかつて旅に出た時に修めた、基本にして奥義」
基本にして奥義、というあまりにも強い言葉に圧されて何も言えずにいた。
そして誤魔化すように漏れたのは、肝心の術理についてではなく。
「……長老も、外に出たことがあったのですね」
「かかか……、若かりし頃にのう。当時は戦乱の世でな、争いに疲れて嫁を連れて帰ってきたんじゃよ」
懐かしむように長老は自身の顎を撫でた。長老の奥さんはもうこの世にいない。僕が産まれた頃にはすでに亡くなっていたそうだ。
「イヨの体術は基礎にして基本ゆえな。外で生きていくのなら、時代に合わせておんしが育てい。とはいえ、術理とは積み重ねる物……おんしにはわしの育てた術理を積もう」
その先はおんしが考え、育てい。
長老はそう言って立ち上がり、僕を外へと促す。
数日降り続いた雷雨は通り過ぎ、碧と銀の双子月が柔らかに闇を照らしていた。
僕は一夜をかけて、長老から伊予深森流・呼吸術について教えを受け、そして身に付けた。もちろん完璧にではなく初歩を踏み出した程度。
その先については、またやはり旅の中で育てていくのだ。
山間から朝日が漏れるのを見ながら、僕は家の扉を閉めた。
おそらくは、二度と帰ってこない。
少しばかり感傷的になって、離れがたくもある。
今まで過ごしてきた記憶に浸っていると、背中に声が掛かった。
「よっ、晴れて良かったな」
「ヘイズか。こんな朝早くに珍しい」
「おれだってな、相方の旅立ちを見送るくらいの器量はあるさ」
振り返ると、ヘイズが照れくさそうに立っていた。僕が起こしに行くまで寝ている、狩り手として致命的な寝起きの悪さを誇る彼がこうして見送りに来てくれたのは嬉しかった。
起きられるなら日頃からそうしてほしい、と思ったが、ヘイズの目の下は真っ黒になって落ち窪んでいる。
僕は苦笑して、
「徹夜の礼くらいはしておこうか」
「おお、寝たら起きられんのは分かりきってたからよ。酒をやりすぎて危なかったがな」
わはは、と笑うヘイズはやっぱり眠いのかどことなくぼうっとしている。
「やべえな……安心したらめちゃくちゃ瞼が重くなってきやがった……。ほれ、こいつをやるよ」
額を揉んで、ヘイズが放った物を受け取る。
革紐で編まれた首飾り、に見えた。長さが指ほどもある白い牙が結び付けられている。
「この牙……【岩砕】のやつか」
「そいつを半分に割ってな」
ほら、とヘイズは首元から同じ首飾りを引きずり出した。
確かに丸みのある側と平らな側がある。
「おんなじ牙から作ったからな、何年経とうが、こいつを合わせりゃおれとお前だって分かんだろ。特にトゥーリヤはこれから背も伸びるだろうしな」
「……ああ、そうだな」
思えば、この兄貴分にはもらってばかりの気がした。狩りのいろはを習ったのはヘイズだったし、歳が近いのはヘイズしかいなかったから随分と助けてもらった。
「ありがとうな」
感謝の言葉がするりと口から溢れた。
「いつになく素直じゃねえか。出立を前に想うことでもあったか」
「そりゃね」
僕は肩を竦めて見せる。それからさりげなさを装って尋ねた。
「ヘイズは出ないのか?」
彼は少しだけ苦い顔をして、
「まだお袋が生きてっからな。十年もしたら嫁を探しに行くかもしれんし、そんときは良い娘を紹介してくれよな」
僕の両親は幼い頃に亡くなっているし、ヘイズの父親も山で狩られる側となった。しかし、ヘイズにはまだ残っているものがあった。
「そうか……。そうだよな。変なことを訊いて悪かったよ」
一緒に旅が出来たら楽しいだろうな、と思ったことは教えない。きっと「寂しいのか?」とからかうに違いなかった。
「紹介は期待するなよ。僕だって見つけられるか全く不明なんだから」
「相方を助けようという気概はないのかね?」
「大体、どうやって僕を見つけるつもりなんだよ」
ヘイズはきょとんとして、それから含み笑いをしながら答えた。
「トゥーリヤ。お前はな、きっと何かデカいことをする。だから外の世界でも名が上がって、おれが嫁を探しに行く頃には誰に訊いても教えてくれるようになる」
「何を根拠にそんなことを……」
「長老より長く生きてる魔熊を一人で狩っちまったじゃねえか。偉業だぜ?」
そう言われると否定できない。普通の魔熊より二周りくらいデカかったし。
しかし、たとえ有名になれるとしても名を上げるつもりはないのだ。
「ここだけの話だけどな、ヘイズ……。僕は働くのが嫌いだ」
「はぁ? 毎日狩りに出てたのはおれらだけだぞ、お前が叩き起こしに来るからよぉ……」
「それは仕方がない。狩り手になってしまった以上は狩りに行かないと……」
使命感だか責任感だかが強いのか、そわそわしてしまって山に行かないと落ち着かなかった。だが、これからはそんな使命感とやらに悩まされることはない。
なぜなら僕はもう狩り手を終えたからだ!
「僕はこれから働かずとも生活出来ないか、それを探す旅に出る。いいか、働かないんだ。そんなやつの名が上がるわけなかろう」
自信満々に言うと、ヘイズは呆気にとられてぽかんと口を開けていた。
彼は頭をぽりぽりと掻いて、
「まあ、お前にはお前の考えがあるんだろうな。……上手くいったらおれにも教えてくれ」
「上手くいったらヘイズには見つけられないだろうさ」
僕は肩に背負った頭陀袋を揺すって、改めてバランスを取り直した。
「そろそろ行くよ」
「おお……元気でやれよ」
ヘイズが掲げた拳に、僕はガツンと固く握った拳をぶつけ、跳ねて開いた掌を叩いた。
谷の底まで響くような、音玉よりも強く、心地よい音が弾ける。
こうして僕は暖かな想いを胸に、新天地へと旅立った。
グステニア大陸北東、大森林の奥より人里にトゥーリヤが現れたのは、彼が齢十二を数える頃であった。
言葉が通じず、金銭も持っていなかったので、旅立って早々に雌伏の時を迎えた。