山の獣が牙を剥いた 1
谷の合間を鳥が鳴きながら飛んだ。
どこか物悲しい鳴き声に僕が空を見上げると、西の方から黒い雲が流れてきていた。鳥が教えてくれた雷雨まであまり時間がなさそうだ。
「どうした、トゥーリヤ。また変な夢でも見たのか?」
僕と共に狩りへ出ていた相棒のヘイズが笑いながら言った。両肩に仕留めた猪の背負っていて、彼は空の様子が分からない。
「いや……、早く帰ろう。しばらくぶりに家から出られなくなりそうだ」
「うへ、またか。お前さんの空見は滅多に外れんからなあ。獲物を仕留められて運が良かった」
山の中を谷に沿って走り始める。
僕はヘイズを先導して、枝や藪を手に持った鉈で払いながら進む。谷沿いの獣道は僕らの集落でもよく利用しているが、今日は欲張って少し奥まで来てしまっていたので、人が走るにはなかなか難しい道のままだ。
まだ子供の僕とは違って、ヘイズはもはや立派な大人の体格をしている。
少し上の方の枝も払うには腕を伸ばすだけでは足りず、何度と無く跳びはね、背負った猪の高さまでの道を開通させてやった。
「適当でいいぞ。多少は傷ついても問題ねえだろ」
「僕が気にするんだ。獲物を傷だらけにするのは恥ずかしい」
狩りにおいて、獲物の傷は少ないほど狩り手の腕が良いとされている。最上は獲物に存在を気付かれずに一度で仕留めることか。
素材を無駄なく使えるし、食味も断然良くなる。何より、集落で見栄が張れる。
もうすぐ集落を出るつもりでいるが、良い思い出を残して行きたいものだと思っている。
ヘイズもそれを知っているので、鼻を鳴らして、僕が払いそこねた枝を大きく屈んで避けた。
「……嫌な匂いがする。ヘイズ、先に行け」
僕は足を止めて、山の奥へ視線を向けた。
予感が僕の身体を戦いへと示す。山々の中で狩りをするにあたり、この誰にも説明できない唐突に察する予感は、ほとんどの場合において正しかった。
何かが起こる、という予感は僕に対しての危険を本能的に察知している、のだと思う。必ずしも死に晒されるというわけではないが、僕にとって対処が難しい場合が多い。
ここは山の中であり、こういった予感がする場面はさほど種類が無かった。
「無理そうならさっさと逃げろよ。音の実は持ってるな?」
「ああ。二回鳴らしたら助けてくれ」
「生きてたらな」
こういった感知の能力については、自然の中で生きる者は少なからず持っているし、分かっている。ヘイズはどちらかと言えば感覚による物ではなく、生き物由来の痕跡を探す術に長けている。正反対の僕らだからこそ二人で狩りをしているわけだ。
ヘイズは僕の予感を疑わず、障害物の少ない崖際へと躍り出ると、地面を滑るかのように音もなく駆けていった。
そして間もなく藪を掻き分けて山の奥からやってきたのは巨大な熊。
額に硬い瘤を持ち、鋼の如き毛皮を持つ、大の人間を二人並べてなお届かぬ大きさの巨獣である。
山の主と言っても過言ではない。
集落では【岩砕】と呼ばれ、恐れられている魔熊の一体だった。
やつは恐ろしく鼻が良い。ヘイズが背負っていった猪の血の匂いに惹かれてやってきたのだろう。
習性として、魔熊はあまり生き物を殺さない。他の生き物が仕留めた獲物を横から奇襲し、掻っ攫うのだ。獲物を置いて逃げるのであれば追わないが、ただし抵抗する敵には容赦がない。
近くの僕ではなく、鼻をひくつかせた【岩砕】はヘイズの駆けた方へと進路を向ける。
その鼻先に拾った石を投げる。丸く黒い鼻に当たったが、石は砕け、【岩砕】は少し気分を害したかのように僕を睨めつけた。
飛んでる鳥に当たれば一発で仕留める威力があるんだけど。僕は冷や汗を背筋に感じながら、進路を遮るように立った。
「行かせないよ」
四足で歩いていた【岩砕】が立ち上がり、
「――っとぉっ!?」
次の瞬間には僕の頭があったところを鋭い爪が刻んでいた。
十分な間合いがあったはずが、倒れ込むように跳んだ【岩砕】は恐るべき早さで僕を殺しにかかった。
とはいえ、僕も狩り手の端くれ。【岩砕】ほどではないが、魔熊の狩りには参加したことがある。その図体からは考えられない俊敏さ、全身を使った剛力は体感している。
さすがに予想の上を行く瞬発力に肝は冷えたが、五体満足で回避は成功した。
潜り込んだ【岩砕】の真下、比較的柔らかい腹に左拳を添える。
「これは、どうだっ!」
大地を踏み込み、余すことなく全ての力を宿した拳が肉体へと突き刺さる。
弾けるようにして【岩砕】が宙に浮き、踏み切り位置まで後退した。しかし、大したダメージはなさそうである。分厚い皮膚に守られている。
これは参ってしまう。鹿くらいならばこの一撃で動けなくなるのだが。
【岩砕】が本気になったことにも参ってしまう。それなりに痛かったのか、完全に殺る気の眼をしている。
「まあ、狩り手としては逃げる気にはならないね」
右手の鉈をくるりと回し、間合いを取るようにして前へと構える。
やつは自分を狩る側だと思っているが、僕からすればやつは獲物だ。慢心ではなく、それが狩り手としての矜持である。
僕が、やつを狩ると決めた時から、僕の獲物だ。
ここで逃せば、いずれ近いうちに【岩砕】は集落へとやってくるだろう。集落には戦えない者も多くいる。近付けることは許容出来なかった。
そろり、と熊足が出方を探りながら、静かに僕との距離を詰める。考えなしの飛び掛かりが嬉しかったが、あの一回で学ばれたらしい。
一撃必殺を狙いたい。長期戦は体力の差が大きく、また武装的にも不利だ。
僕は【岩砕】の急所を狙わなければならないが、やつは身体のどこかを僕にぶつけたら終わりという理不尽な戦いとなっている。鋼よりも硬いと言われる毛皮で削られたら、僕の身体はあっという間に無くなってしまう。
首を斬る。
お腹側の毛皮は殴っても痛い程度の硬さだ。内側から鉈で喉を割く。
空いている左手で道具袋から音玉をそっと取り出す。強い衝撃を与えると割れて強い音を出す木の実だ。それを集落で加工して、大きく鳴り、割れやすくなっている。
【岩砕】の動き出す気配に合わせ、よく見えるよう山なりに音玉を放る。
視線が釣られた直後、鉈で切り割った。
パァンッ、と高い音が耳を撃つ。まともに聞いては耳が破れる。僕は切ると同時に下を向いて緩和したが、それでも耳鳴りが残った。
直撃したであろう【岩砕】はどうか。
顔を上げた僕の眼に入ったのは、お構いなしに突進してくる赤茶色の瘤だ。
「おうあっ! 効いてないっ」
咄嗟に瘤を抑えた左手が軋む。
力で対抗することを諦め、腕を曲げて身体の下に瘤を潜り込ませる。勢いを利用し、宙へと身を投げた僕は空中で回転し、【岩砕】が通り過ぎたその場に降り立つ。ちょっと回りすぎて躓くが、些細なことだ。
僕を突き飛ばした【岩砕】はそのまま僕の胴よりも太い樹木を粉砕し、少し離れてから止まった。振り返る眼に苛立ちが混じっている。
雨が降り始めた。
ぽつり、と頬に感じたすぐ後に大粒の雨が山を覆い尽くす。
水の天幕を破って【岩砕】が再びの突進、今度は危なげなく右へとかわす。【岩砕】は止まることなく木々を薙ぎ倒しながら大きく回って、勢いのまま戻ってきた。
非常に困る展開と言える。
四足で突進をされると、当然ながらお腹は地面を向いているのでとても喉に鉈を当てられる気はしなかった。
「おわっ!」
あっという間にぬかるんだ足元がずるりと滑る。木の根を踏んで横に跳ぶ。水飛沫を上げて【岩砕】が通過する。通った後に倒れた木々が蓋をする。
足元の状態は大して不調に繋がらないようだ。
「そりゃそうか……。日頃から雨降ったらこうなるしな」
額を袖で拭うと、雨と一緒に冷たい汗が一瞬だけ取り払われる。
少しでも気を抜いたらやられる緊張感に、身体が冷えっぱなしだった。このまま寝たら風邪を引くこと間違いない。
しかし、身体が感じる冷たさに対し、漏れる吐息は炎のように熱い。
どこか高揚している自分がいた。
「お前を仕留めて行く」
「グラアァッッッ!!」
やれるものならやってみろ、と吠える【岩砕】が後ろ足に力を込める。
僕は大きく飛び退り、やつが薙ぎ倒し、折れ重なった木々の残骸に身を踊らせる。
倒木ごと轢き潰す。そんな意志が透けて見える突進。
やつからすれば一番の安定行動で、一番信頼が置ける攻撃手段だ。破られるまで、それに頼るのは当然であり――僕が対応策を考えるのもまた当然の話だった。
僕は重なった倒木の突端に駆け登り、
「フンッッッ!」
【岩砕】の突進に合わせ、全体重に脚力を掛け、幹を踏み抜く!
下の倒木を支えにして先端が跳ね上がった。四方に伸びた枝が【岩砕】の勢いを殺しつつ、下からやつの身体を掬い上げる。
真正面からぶつけたら負けるのは間違いないが、直線行動には別の方向から力を加えてやれば、瞬く間に力が分散する。
【岩砕】は咄嗟に浮いた前足を振りかぶり、後ろ足のみで跳躍。倒木を乗り越えて、襲いかかる。
僕はニヤリと口の端を曲げた。
「見せたな、喉を」
焦がれてやまない柔らかな、喉。
空を裂く前足をくるりと躱し、回転した勢いを鉈に乗せて叩きつけた。