出題編 2
「リゼリー・リム・リーグウェンだ。リズでいい。お前は? 人間か?」
獣を追い払った人影は、またも女のそれだった。タニアと名乗った女と俺とが落ち着くのを待ってくれていたようで、つまり口を開いたのは随分と時間が経ってからだった。
「鴇慎一郎だ。人間かどうかは答えられない。そもそも質問の意味が分からないんでな」
背の高い女だった。一七〇センチ程度はあるだろうか。タニアとは異なる褐色の肌が陽光に煌めき、エキゾチックな雰囲気を醸し出していた。
「うちの宿のお客様です。森へは一緒にクポの実を採りに。ですが迷ってしまって……」
タニアが言って、唐突に俺の手を握った。話を合わせるよう命じられていると解釈し、俺は大仰に頷いてみせる。リゼリーと名乗った女は頭を軽く搔き、それから大げさにため息を漏らしてみせた。
「こんな場所まで来るからだ。クポの実なら川辺で採れる。魔物除けの果実を採りに行って、魔物に襲われていては世話がない」
「ごめんなさいリズ。獣脂を持っていたのですが、先ほど沢で落としてしまって……。貴女が来てくれなかったらと思うと、ぞっとします」
「全くだ。今後は用心してくれ。肝心なときに持っていないのでは、わたしが毎月獣脂を卸している意味がない」
ため息交じりに説教じみたことを口にすると、リゼリーは懐から小さな瓶を取り出す。タニアに手渡し、小さく笑んだ。
「狩りの途中だから、悪いがわたしはこのまま奥へ向かう。帰るだけなら、それで足りるだろう」
「ありがとう。お代は?」
「いらないよ。お得意様だからな。それより気をつけて帰ってくれよ? タニアも、それからトキシ……。ん? どこで切るんだ?」
「慎一郎が名前。鴇が名字だ。君達風に言うのならば、恐らくはシンイチロウ・トキだ」「そうか。ではシンイチロウ。タニアをよろしく頼む」
「ああ。来てくれて助かった。礼を言うよ、リズ」
褐色の肌。後頭部で纏められた艶めく銀髪。切れ長の大きな瞳に、高く通った鼻筋。見る者の目を引きつけてやまない端麗な容姿を持つ長身の女は、軽く手を振り去って行く。右手に握りしめた木製の弓は、先刻矢を放った際に用いたものだろう。
木々の向こうへと消えていく背を見送り、俺は口を開いた。
「さっきの獣が戻ってくる可能性は?」
「ありますが、もう大丈夫です。リズから獣脂を受け取りましたから。刺激臭がするでしょう? ハーバルキャットの毛皮から採れる獣脂は、魔物除けに絶大な効果を発揮します」
「それは重畳だ。それで、村ヘは案内してもらえるのかな? 道すがら聞きたいことも多くある。今度は、正常に意思疎通が図れそうだしな」
「ええ。そう思います」
笑んだタニアと肩を並べ、生い茂る草木を掻き分けるようにしながら足を進める。話によれば村までは徒歩にて二〇分ほど。リゼリーはこんな場所まで、と表したが、俺の倒れていた場所は森の奥深くというほどでもなかったようだ。
ぱきりぱきりと枝の折れる音を耳にしながら、タニアの言動の変化について考える。
数十分前最初に顔を合わせたとき、タニアは俺にこう言った。
獣脂をお持ちではありませんか?
獣脂が何であるか、俺が理解していて当然といった、それは態度だった。
だが獣を排し、リゼリーからその獣脂の詰まった瓶を受け取り、タニアの態度には変化が生じた。娘は獣脂が如何なるものであるか、簡単にではあるが俺に説明してみせた。
重要なのはそこだ。態度の変化は、タニアの認識の変化を表している。彼女は気づいたのだ。俺が何も知らないことに。彼女らの常識と俺の常識との間には、いかんともしがたい乖離があるということに。
「酷い匂いだな。こぼれたりはしないのか?」
タニアが右手に持つ小瓶には、粘度の高そうな、白濁した液体が収められている。金属製の蓋には小さな穴がいくつも開けられており、鼻孔に突き刺さる刺激臭は、どうやらその穴から発せられているようだった。
「平気ですよ。穴を下に向けて振ったりさえしなければ」
「そうか。先ほどブラックオークなる獣に対しリズが放ったのも……」
「ええ。獣脂です。彼女は獣脂の販売業を生業としています。ハーバルキャットを弓で狩り毛皮を剥ぎ、採取した獣脂を売って生計を立てているんです」
「それでお得意様か。君がやっているという宿で、獣脂を定期的に買っているわけだな? 彼女から」
「ええ。クポの実という果実があります。その果汁にも似た効果があるのですが、獣脂の方が魔物除けとしての効果は上なんです。その分値が張りますが……」
「そうか。まあ、重要な品であることは理解したよ。あんな獣が生活圏を徘徊しているんじゃ、手を打たないことには散歩もできない」
不思議な感覚だった。
獣脂。クポの実。ブラックオークにハーバルキャット。片仮名の名を持つ二人の女に、中空に描かれた発光する魔方陣。何もかもが、俺には理解の及ばない物品であり事象だった。魔方陣から飛び出た火の玉などは、最たるものだ。
足を進め、息を吐き。また足を進め、踏み折られた枝を目にし。
恐らくは最初にすべきだったその質問が俺の口をついて出たのは、森の中を一〇分も歩いた後だった。尋ねれば手ひどい傷を受けそうで、大きな衝撃に襲われそうで、情けなくも問い掛けることをためらい続けた結果だった。
「タニア。ここはどこだ?」
足を止め、釣られて立ち止まった女の顔をまじまじと見つめた。タニアは少し困ったような表情を浮かべ、また指先で頬を掻くようにした。
「エスメラルダ南部の森です。すぐ北にはシェルフウッドの村が、そこから更に二〇エクテールほど北上すれば、ルイ・グウェンの街があります」
「片仮名が多すぎるな。一度では覚え切れそうもない」
絶望感と虚脱感。身もだえするような感覚に襲われながら、俺は応じる。
この場所は日本にはない。俺のよく知る東亜の島国にはない。それだけはどうも、確かなことのようだった。
「エクテールというのは長さの単位か? シェルフウッドは村名で、ルイ・グウェンは町名か。エスメラルダは? 国、もしくは地方の名で合っているか?」
「国の名です。建国の女王の名が、そのまま国名になったと聞いています。街と言いましたが、ルイ・グウェンは厳密には都市です。大きいですから」
「そうか。それにしても……」
「聞いたことのない名、ばかりですか?」
「ああ。察しがよくて助かるよ」
タニアから視線を外し、考える。
彼女の言葉が真実のそれであるのならば、俺は何者かの手によって、気づかないうちに国外のどこかへと連れてこられたことになる。
だが本当にそうなのだろうか。仮に我が身にそういった事態が降りかかったと考えると、矛盾点も生じてくる。言うまでもなく、タニアやリズが、日本語を話しているということだ。
加えて言うのなら、例の火の玉についても説明はつかない。
「話していませんよ」
「ん? 何の話だ?」
「言葉です。わたしやリズが、貴方の国の共通言語を話していることを不思議に思っているのでしょう?」
「ああ……。そうだが……」
本当に察しがいい。俺のような者の扱いに慣れているのだろうか。だが、そうだとすれば僥倖だ。この先俺がどうすべきか、彼女にはその指針を示すことができる可能性がある。
「この大陸の共通言語は、ニニア語と言います。わたしもリズも、二二ア語を話します。ですが貴方には、わたし達が貴方の国の共通言語を話しているように聞こえているのでしょう?」
「すまない。言っている意味がよく分からない。君達は確かに日本語を話して……」
「魔法の力です。貴方の身体に刻まれた呪印が、わたし達の話すニニア語をその日本語に変換して貴方に聞かせています。逆も同様です。貴方の口にする日本語は、ニニア語に変換されてわたしの耳に届いています」
「まさか……」
理解が及ばなかった。魔法とは何だ。いや、魔法という言葉自体は知っている。だが魔法など、あくまで架空の事象に過ぎないはずだ。
「ここは、貴方の住み暮らす世界とは、全く別の世界です。大陸の名はアーガント。日本もアメリカもスリナムも、この世界には存在しません」
微笑みを絶やさず、しかしタニアは畳み掛けるように言葉を重ねる。
魔法。異世界。ニニア語。そしてアーガント。彼女は一体何を話しているのか。俺が、アーガントなる大陸を擁する異世界に、迷い込んだとでも言いたいのだろうか。
「すぐに理解していただくのは、難しいと思います。納得していただくのはもっと。ですが真実です」
ため息をまた漏らし、俺はタニアの顔と、光差す木々の向こうを交互に見つめる。あと少し歩き森を抜ければ、そこにはタニア等の暮らすシェルフウッドなる村があるという。そして信じがたいこどだが、そこではニニア語なる言葉が話され、魔法が事象として存在するという。
「タニア、君がどういうつもりでそんな話を聞かせるのか分からないが……」
「信じられないのは当然です。シンイチロウ。まずは村を見ていただき、それから落ち着いてわたしと話を……」
俺の台詞を遮り、言葉を重ねるタニア。何の気なしにその口元を眺め、そして気づく。
「君は……」
合っていない。
タニアの口の動きと、耳朶を撫でる美しい日本語の音が、全くと言っていいほど合っていない。大きなずれが生じ、ときにはタニアが口を閉じたその後に、音が聞こえることすらある。
魔法の力による言語変換。
数分前のタニアの発言が脳裏に浮かび上がり、俺は言葉を失う。
「さあ。そろそろ参りましょう開通者様。シェルフウッドへご案内します。幸いわたしは宿を経営しています。柔らかなベッドで、身体を休められるとよいでしょう」
歯切れよく言い放ち、タニアは再び歩き出す。数歩進んで立ち止まり、振り返ると笑って言った。
「異世界へようこそ」