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推理は魔導に相似する  作者: 伊吹契
第1章 エルフの村の殺人
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出題編 1

 重い瞼をゆっくりと持ち上げる。

 視界を埋め尽くしたのは新緑に溢れた春の園。煌きを纏った陽光が木々の隙間を縫うように降り注ぎ、一帯に広がる背の低い草花を涼やかな白へと染め上げている。

 右の頬にくすぐったい様な刺激を感じ、ゆらりと腕を持ち上げる。指先でそっと触れれば、中指のあたりに鋭い痛み。慌てて上体を起こし、痛みの発生源へと視線をやった。


 蟻だった。


 一匹の蟻が、右手中指の先端に顔を貼り付けるようにしてぶら下がっている。

 米粒ほどの見慣れたサイズ。滑らかな逆三角形の見慣れた頭部。小さな胴体から生える六本の見慣れた脚に、ふらふらと中空に揺れる見慣れた腹部。矮小な体躯からは想像のつかない力強さで以って、顎から生えた二本の長い触手を指先皮膚の内側へと差し込んでいる。


「うわっ……」


 背筋を痺れるような悪寒が這い上がり、右手を振って蟻を落としにかかる。小さな痛みとともに中指の腹から触手が抜け落ち、蟻と思しき奇妙な虫は宙を舞った。

 生い茂る草花の群れの中に蟻が消えたのを確認し、一つ息をつく。

 額から鼻筋へと流れ落ちてくる汗の滴。その冷たさに閉口しながら、改めて周囲を見回す。濃厚な木々の香りと、降り注ぐ疎らな陽光。目を覚ましたその場所は、どうやらどこかの森のようであった。


「どうなっている……?」


 呟き、自身を取り囲むように生い茂る木々の向こうを確認しようと目を凝らす。

 地面を覆い尽くす草花に対し垂直に、あるいは斜めに、無数の木々はそびえ立ち重なり合い、そしてどこまでも続いている。

 わずかに開けたこの場所は、さながら木々によって形作られた牢獄のよう。頭を振り、また一つ息を吐いた。


「くそっ……」


 時刻を確認しようと左手首に目をやり、間髪を容れずそう吐き捨てる。

 愛用の腕時計がない。やや草臥れた革ベルトがよく肌になじむ機械式時計。今朝方事務所を出る際、そういえば机に置かれているのを見かけた気がする。夜寝る前に外し、翌朝付けるのを忘れてそのまま出掛けてしまう。数ヶ月に一度やる、つまらない失敗だ。


「事務所……。そうだ。確か俺は張り込みに……。(まゆずみ)が回してきた案件だ」


 声に出して確認しながら、妙におぼろげな記憶を掘り返す。どことも知れない森の中に、何故自分が倒れ伏していたのか。

 これからどちらに向かって歩き、どのくらい早く森を脱さなければならないのか。いつまでも森の中に居続けることで、一体どのような危険が迫るのか。

 現状に対する正しい理解なしに、次々と浮かぶ疑問に対する答えなど、得られるはずもない。

 倒れた際に打ちでもしたのか、やや熱を持つ後頭部に手をやりながら、俺はゆっくりと思考を巡らせ始める。

 順を追って少しずつ、今朝から今に至るまでの自身の行動を思い返していく。


 午前九時。自身が所長を務める探偵事務所を出、御徒町(おかちまち)の駅へと向かった。

 鉄道を乗り継ぎ川崎に到着したのが一〇時頃。調査対象者の勤務するオフィスビルの前に陣取り、スマートフォンの画面に映し出した対象者の画像へ時折目を落としながら、ビル入り口を伺い続けた。

 濃紺のスーツを身に纏った壮年の男が俺の前を通り過ぎたのが確か一〇時半。一五メートル程度距離を開け、ややすり減った靴の踵をひたすらに見つめながらその後を追った。


 ありふれた尾行だった。ありふれた素行調査だった。気持ちが高ぶるようなこともなければ、何某かの危機にさらされるようなこともない。当たり前にこなす仕事の一つに過ぎず、つまりは(とき)慎一郎(しんいちろう)の、それは日常に過ぎなかった。

 階段を上った壮年の男が駅構内に足を踏み入れるのを確認し、少しばかり距離を詰めた。

 コンコースを歩き改札を抜け、それから。


「それから、どうした……?」


 また呟き、汗ばんだ額に手をやる。改札を抜けて以降の自身の行動が思い出せない。ホームに向かい男と同じ電車に乗り込んだはずだが、どうにも記憶が不明瞭だ。

 思い返そうと脳裏に浮かべた映像には靄がかかり、覗き込もうとすれば停止し霧散してしまう。

 足に張り付くような細身のデニムパンツ。ポケットに手を入れ、使い慣れたスマートフォンを取り出す。残りの電池量は五〇パーセントほど。深い森の中にいるためか、電波が掴めない。


「駄目か……」


 マップアプリを立ち上げる。だが駄目だ。電波はなくともGPS機構が動けば位置情報を取得できるものと期待したが、マップを読み込むのにそもそも通信が必要らしい。そしてそうなると、最早とれる手段がない。

 森の中で遭難状態。方位すら分からずにただ歩く。愚行も愚行だが、立ち止まりいたずらに時間を浪費するよりはマシだろう。

 諦観とともに一歩を踏み出す。かさりかさりと草花が踏まれへしゃげる音が耳朶を撫で、額からは暑くもないというのに汗が噴き出て止まらない。

 背後に何者かの気配を感じたのは、自身が伏していたその場所から一〇メートルほど進んだ折だった。


「あの……」


 中空を飛来し背を打ったその声に、驚きとともに胸中には喜びが満ちる。

 人に出会えた。情報源を見つけられた。ここが何県のいずこに割拠する森であるのかも分かるだろうし、進むべき道筋も見つけられることだろう。期待とともに振り向けば、ほっそりとした腕の先に小さな籠を抱えた、小柄な女が立っている。


「人間の方ですか? 獣脂(じゅうし)をお持ちではありませんか? 先ほど沢で足を滑らせた際に、落としてしまって……」


 女の台詞に、胸の内で膨れ上がった期待感が、急速に萎んでいくような、不可思議な感覚を覚えた。

 二〇代前半程度と思われる、見目麗しい茶髪の女。厚みのある布地を使って作られた、古風なワンピースを身に纏っている。肩甲骨のあたりで切り揃えられたロングヘアは美しく艶やかで、木漏れ日を受け輝いている。

 本来であれば喜ぶべき邂逅。自身の置かれた状況を考えれば、僥倖と呼ぶべき奇跡のような出会い。だが落ち着かない。女の口にした内容が、僅かほども理解できない。


「鴇慎一郎と申します。御徒町で探偵事務所を。失礼ですが貴女は……?」


 女の発言は無視し、数歩戻ってそう告げる。経験上、初めて顔を合わせた人物に探偵の身分を明かすのは悪い手ではない。興味を持ってもらえることも多くある。特に、若い女が相手の場合は。


「失礼しました。あの、タニア・メルタニアです。村で、えっと、宿を……」

「村? 近くに村があるのですか?」


 尋ね返し、そうしながら女の様子を観察する。彫りの深い顔立ち。肌は白く、大きな瞳はやや青みがかっている。外国人のようだが、随分と流暢な日本語を話す。


「ええ……。あの、村のお客様では……?」

「いえ、違います。少し道に迷ってしまいまして、できることなら、その村まで案内を願いたいのですが……」


 村とやらまで辿り着けば、御徒町まで戻る手段も容易に見つかることだろう。電波も掴めることだろうし、病院があればまずはそこに寄って診察を受けるのも悪くない。恐らくは数時間のそれとはいえ、酒も入っていないのに記憶が不明瞭なのはよろしくない。

 気づけば森の中で倒れていたなど特異に過ぎる状況ではあるが、経緯をはっきりとさせるのは後回しだ。何よりも、今は自身の安全を確保しなければならない。

 女は笑んで、ほっそりとした指先で軽く左の頬を掻いてみせた。


「勿論です。わたしも村まで戻るところでしたので。それで、獣脂は……?」

「すみません。獣脂とは? いえ、単語そのものは理解できます。獣の脂を指す言葉でしょう。しかしこの状況で、一体何に使われるのです?」


 もどかしい。意思疎通が図れているようで図れていない。女は不思議そうに首を傾げ、マモノ除けにと、そう答える。


「マモノとは? いえ、いずれにせよ私は持っていません。申し訳ありませんが……」


 デニムの右ポケットから再びスマートフォンを、羽織ったジャケットの内ポケットから財布を、それぞれに取り出し、女の眼前に翳す。女は僅かに瞳を見開くと、それから小さく、身体を震わせた。


「持ち物はこれだけです。そもそも、ここはどこなのですか? 関東近郊であろうとは思うのですが、正確な場所が少し……」


 少し道に迷った。先ほどの自身の発言と、やや矛盾する台詞であるとは理解していた。それでも尋ねたのは、大きな不安が脳裏をよぎったためであった。自身の現状把握に、何か致命的な誤りがあるような、極めて感覚的な憂慮であった。


「アメリカという国を……」


 籠の持ち手を握りしめ、女が勢い込んで口を開いた。前のめりの姿勢で、俺の顔を食い入るように見つめながら。


「アメリカという国をご存じですか? それから、えっと、スリナムという国をっ」

「ええ、勿論です。スリナムは確か、南米の小国でしたか。ですが何故?」


 訳が分からなかった。スリナムは兎も角、アメリカ合衆国の存在を知らない成人男性などそうはいないことだろう。女は頷き、自身に何か言い聞かせでもするかのように、大きく息を吐いた。


「こんなことを言っても、信じられないかもしれませんが……」


 女が再び口を開き、何かを語り出そうとしたその瞬間だった。かさりと大きな音が女と向かい合う俺の背後から響き、次いで周囲の空気を震わせるような、低い低いうなり声が静かに俺の耳朶を打った。


「下がってくださいっ」


 女が叫び、俺は背後に目をやる。見たことのない不可思議な獣が一匹、木々の隙間から伏してこちらを伺っていた。


「狼……いや……」


 全身を漆黒の毛で覆った、四足歩行の獣。体躯は成体の虎ほどあるだろうか。深紅の瞳に、よく発達した下顎から突き出た長い牙。前足付け根の筋肉は異様と思われるほどに太く、大きく隆起している。


「ブラックオーク。四足歩行ですが、あれでもオークの一種です」

「オーク……?」

「わたしの後ろに。既に獲物と定められています。こちらが複数なので、多少警戒しているようですが……」


 言って、女は俺の前へと歩み出る。小さな背に一瞬手を伸ばしかけ、すぐに諦めた。

 情けない話ではあるが、男だ女だなどと言っている場合でもない。大型の獣にとってみれば、武器を持たない人間など、食料以外の何物でもない。多少体力に優れるからと言って、俺に女を守る術などありはしないだろう。

 ならば、何某かの対応策を持っているらしい女に、ここは任せるのが最善手だ。

 五メートルほどの距離で獣と向かい合った女は、視線を前方へと固定したまま、左手にぶら下げた籠の中を右手の指先にて静かにまさぐる。緊張からか恐怖からか、膝丈のワンピースから突き出た白い両足が、微かに震えているように見えた。


「逃げることは……?」


 背後から問い掛ければ、無理ですとの答えが即座に戻る。まあそうだろう。それができるのならばとっくに並んで駆けている。


「ほんの少しの間だけ、時間を稼ぎます。魔物が怯んだら、すぐに逃げてください」


 言った女が、籠から水晶のようなものを二つ取り出す。大きさはいずれも人差し指程度。透き通った、美しい青色をしている。


「行きますっ……」


 女が指先に力を込めた。二本の水晶がぽきりと折れ、周囲に青白い光の粒が舞う。不可思議で、酷く幻想的な光景だった。


火竜(かりゅう)の息吹。有限の調べ。対なる詠唱」


 籠を投げ捨て、両手を前方へまっすぐに突き出した女が、光の粒の中静かに言葉を紡ぐ。獣は何かを感じ取ったのか一層姿勢を低くし、こちらをねめつけるように眼光を煌めかせている。


煉獄(れんごく)に潜みし異形の同胞(はらから)よ。いざ駆け上り、勇んで往かん」


 突き出し重ね合わせた女の両手が、赤く紅く光り輝く。地面に対し垂直に、直径五〇センチほどの魔方陣じみた円が現出し、女の手を中心に回転し始める。ひゅるりひゅるりと、風を切るような音が激しく鼓膜を揺さぶった。


「焼き払えっ。ファイアボールっ」


 女の手のひらに張り付いた魔方陣の中心から小さな火柱が吹き上がった。バレーボール大の火球が姿を現し、中空をまっすぐに滑って獣へと迫る。着弾と共に、耳をつんざくような悲鳴が響き渡った。


「今ですっ。急いでこの場をっ……」


 離れましょう。続けようとした言葉は、恐らくそんなところであったろう。叫びながらも怯むことのなかった獣が地を蹴り、女へと迫る。

 訳が分からなかった。全ては一瞬のことで、だからどうにも理解が追いつかなかった。


 どこからか飛来した矢が獣の右目を穿ち、バランスを崩した獣と女との間に割り込んできた人影が、何かを宙に放った。女の首へと牙を突き立てること叶わず、しかし力強く着地した獣は全身に粘着質な液体を浴び、先ほどとは比較にならないほどの大きな悲鳴を上げ、数歩後ずさった。

 悔しそうな唸り声が森の空気を震わせ、やがて獣は俺達に背を向けてどこかへと去った。誰かが漏らした大きなため息が、耳垢を通り抜け三半規管に絡みついた。


「今のは……」


 言葉が上手く紡げなかった。

 自身の立つこの森が関東近郊にあるなどというずれた認識は、既に瓦解して久しかった。

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