出題編 11
リゼリー等と別れ、居候先の宿へと戻る。獣脂の瓶を詰めた麻袋が妙に重たい。遺体に触れ観察を行ったことで、知らずに疲労がたまってしまったのかもしれない。
鈴の音を響かせ戸をくぐれば、開け放たれた食堂の扉からタニアが姿を現した。
「遅かったですね、シンイチロウ。何かありました?」
にこにこと朗らかな笑みを浮かべ、タニアは言う。慈愛に満ちた表情。以前直接伝えもしたが、アーガントへとやって来て最初に出会ったのがこの娘であったのは、本当に幸運だった。俺の状況を理解し、助け、導いてくれる。
そしてそれだけに、見た物を見たままに伝えることに、躊躇を覚えてしまう。
「ダルクという狩人を知っているか?」
「ええ、勿論。小さな村ですから、住人は皆知り合いですよ」
それもそうだ。獣脂の瓶が詰まった麻袋を突き出し、タニアへと手渡す。ありがとうございますと嬉しそうに口にし、宿の娘は大事そうにそれを受け取った。
「死んだ」
「え……?」
「ダルクだ。先ほど南西の草原で遺体が見つかった」
第一発見者は俺とリゼリー。警察すら存在しないこの国に、第一発見者などという捜査概念があるか否かは分からないが。
「死んだって、だってわたし、昨日も話して……」
今にも泣き出しそうな顔で、タニアが言う。もしかしたら眼前のこの娘にも、詳しく話を聞かなければならないかもしれない。話をしたというのが何時頃のことかにもよるだろう。
「死んだのは昨晩だ。大凡だが二〇時以降二時以前。深夜の可能性が高い」
俺の言葉に、タニアは驚いてこそいるようだが、不審を感じた様子はない。二〇時、二時といった言葉を正しく理解しているように見える。少なくとも俺にとっては、都合の良い情報だ。
「事故、ですか……?」
「いや、どうも殺されたようだ。遺体の様子を確認してきた。残念だが、事故でああはならない」
めまいでも起こしたかのように、タニアが足下をふらつかせる。咄嗟に腕を伸ばし、その身体を支えた。
「す、すみません。でも殺されたって、一体誰が……どうして、そんなこと」
「分からない。だが調べる。捨て置くわけにもいかないんでな」
「シンイチロウ……」
タニアの身体を支えるようにして、共に食堂へと足を踏み入れる。随分とショックを受けたらしい彼女を椅子に腰掛けさせ、俺もまた隣の椅子へと腰を下ろした。
「俺を疑うか? タニア」
「え……? シンイチロウをですか? 何故?」
「そういう意味じゃない。君は言っていたろう? エスメラルダでは、開通者こそが不幸を齎すと信じられていると」
俺は探偵だ。現実として殺人事件に関わることなどそうそうありはしないが、少なくとも創作物の中の探偵は、殺人事件とセットにされるような存在だ。
探偵の開通者が現れ、数日も経たずに殺人事件が発生した。結びつけて考えられたとしても、さして不思議はないだろう。
「分かりません……。ですがわたしは、シンイチロウは良い人だと思います」
タニアの発言は、質問の答えとしては不適当だ。だが悪い気はしない。俺は笑い、ありがとうとそう告げた。
「幾つか確認したいことがあるんだが……ん?」
食堂の机の隅に、俺のスマートフォンが置かれているのが見て取れた。この場所では使い道もないため部屋のベッドの上に放り出してあったはずだが、タニアが持ってきたのだろうか。
俺の視線に気がついたのか、タニアは慌てたように食卓の上へと身を乗り出した。
「そうでした……。わたし、シンイチロウに謝らなくてはいけなくて……」
「これか?」
スマートフォンを取り上げ、右の親指で電源ボタンを押し込む。だが反応しない。電池残量はアーガントへとやって来たその日の時点で五〇パーセントほどだった。それから既に丸一日経過している。
電池切れは、当たり前のことであるように思えた。
「シンイチロウの着ていた衣服を洗濯しようと、二階の部屋へ入ったのです。ベッドの上に、衣服と一緒にその板が置いてあって、それでわたし、興味を引かれて、その……」
言いずらそうに、タニアが言葉を切る。
俺の衣服を洗濯するとの申し出は、今朝の段階でタニアから受けていた。故に、部屋に入ることは宿を出る前に了承していた。特段に彼女が悪いことをしたようには思えない。
「持ち上げたら光り出して、表面に不思議な文字が浮かび上がって、わたし少し触ってしまったのです。そうしたら、その、壊れてしまって……」
「電池切れだ。壊れた訳じゃない」
どうもタニアが俺が借り受けている部屋に入った段階で、スマートフォンのバッテリーはまだ残っていたらしい。運悪く、タニアが手にしたちょうどそのときに、バッテリー切れを起こしたのだろう。
泣きそうな顔で謝罪するタニアに、状況を説明する。
電気について以前簡単に触れておいたことが功を奏し、説明は円滑に終わった。安堵したのかタニアは息をつき、しかしまたうなだれる。知り合いの死を思い出したのだろう。忙しいことだが、無理もない。
「二階の部屋にいる。リズあたりが訪ねてくるかもしれない。そのときは呼んでくれ」
タニアの肩へ一度触れ、俺は食堂を出る。宿泊の受付を行うと見られる木製のカウンター。その前を通過し、廊下の奥にある階段を上る。
宿の二階には部屋が四つ。タニアの自室は受付カウンターの奥にあるため、二階の部屋は全て客室だ。
直線一本の二階廊下を進み、最奥の一室へ。中へと入り、スマートフォンを食堂に忘れてきたことに気がつく。まあ構わない。バッテリーが残っていない以上、使い道のない代物だ。
「さて……」
ベッドと書き物机、そして小さな木棚。調度品のほとんど存在しない六畳ほどの客室。その中央へと足を進め、ズボンのポケットの中を指先で探る。
リゼリーから受け取った魔行石。三つあるうちの、破損していない二つを取り出した。
実は一つ、試しておきたいことがあったが故だった。
リゼリーの居宅で魔行石を手折ったとき、俺の脳裏には幾つかのイメージが浮かび上がった。白い光を纏った絵画のような情景は、白行の呪印がその行使を可能とする魔法を表していたように思う。
当時のイメージを信じるならば、俺の手により顕現される奇蹟は五つ。現状に於いて、状況解決に役立つと予想されるものはそのうち二つだ。
魔行石の一本を右手に握りしめる。不要な一本はベッドへと投げ捨てる。
やり方は分かっている。タニアとリゼリーがそれぞれ火と風の魔法を行使する姿を目にしているがためだ。
右の親指に力を込める。水晶に相似した手の中の石が、小気味良い音を伴ってぽきりと折れる。
両の瞼を強く閉じ、一つ大きく息を吐き出した。
「探偵は喫した。悪意の中に敗北を」
石を握る右手にしびれが奔る。指先に熱が溢れ、血の滾るようなその感覚は、時間を掛けて全身へと伝播する。
「新緑に眠れ。指を染めよ。祈りの幕はじき下りる」
自身の唇から発せられる音が、ぶれるような響きを纏う。微かな耳鳴りと浮遊感。悪寒にも似た感覚が、次いで背筋を走り抜けた。
「繋げ。アドフェリシティト」
目を開く。青白い粒子が、我が身を包み込むように中空に舞い、回転し始める。
また息を吐く。粒子は徐々に徐々にその動きを緩やかにし、やがて突風に吹き散らかされでもしたかのように、姿を消した。
「……っ」
脱力感に襲われ、上半身が折れ掛かる。両の膝に手をつき、頽れそうになる身体を支えた。
呼吸を整え、周囲を見回す。何かが起きた様子はない。粒子は消え、魔行石は輝きを失い、ただ俺だけが部屋の中にある。
何かが間違っていたのだろうか。そんな風に考えた。
俺のようなただの男に、魔法などという奇蹟の顕現は荷が重かったのだろうか。そんな風にも考えた。だが。
「シンイチロウっ」
とたとたと廊下を駆ける音が聞こえ、部屋の扉が勢いよく開かれた。
戸口に立っていたのはこの宿の女主人。手には食堂に置き忘れた俺のスマートフォンを握りしめている。
「あの、シンイチロウの黒い板、直ったみたいですっ。文字が出て、それと、中から女性の声がっ」
喜びと苛立ち。より大きかったのはどちらだろうか。
奇蹟は、形を成したようだった。