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作者: 木月
掲載日:2008/09/28

――扉が閉まります。ご注意下さい。

 大丈夫。このアナウンスがかかってから三秒くらいは、電車が出発することはないから。SOFT BALL。そう印字された鞄をバコバコ鳴らせながら、僕は階段を駆け降りる。

 電車に飛び込んだ次の瞬間、プシュウという音と共にドアは閉まった。ドアに挟まれなかったことにほっとし、息をつく。

「あ、小西君じゃない?」

 肩を叩かれる。僕はその細い手を肩へと辿った。

「……岡本先輩?」

「こんなところで奇遇だね」

「一瞬、誰かと思いました」

 目の前にいる岡本先輩は、高校生の時の彼女とはまるで別人のようだった。あ、違うか。ユニフォームではなく洋服を着る彼女だから、だろうか。

「うわぁ、小西君。びちゃびちゃだね。水が滴ってるよ」

「あぁ、雨にやられちゃって」

 岡本先輩は鞄の中をまさぐっている。その持ち物も身振りも格好も、女の人みたいだった。いや、女の人だけどさ。

「これ使いなよ」

 先輩の手にはハンドタオルがあった。

「いいですよ。悪いから」

「いいの。遠慮しなくたって」

 彼女は無理矢理、僕の手にタオルを握らせた。縁をレースで彩られたハンドタオル。

「ありがとうございます」

 手に着いた雨粒のせいで濡れてしまったタオルを、先輩に返すわけにもいかなくて、僕は使わせて貰うことにした。レースの着いたハンドタオル。それで顔を拭う。

「小さいけどね」

 タオルのことだろう。

「貸してくれただけで嬉しいです」

「そういえば、小西君は彼女できた?」

「え?」

「競争してたじゃない。どっちが先に彼女、彼氏ができるか」

「ああ」


「みんな、恋してるか」

 ことの発端は部活の仲間から出たこの一言だった。高校の教室は恋一色で、やっぱり部活も恋一色だったのだ。

 恋してるか。その言葉に部活の仲間は沸いた。オーとかヒューとかいう声が轟いた。

 俺の彼女、中学一貫の女子校だから彼氏俺が人生初なんだって。俺、もしかしたら……。わたしの彼氏、超優しいの。こないだユーホーキャッチャーのぬいぐるみ、取ってくれたんだよ。簡単に取っちゃうの。すごいよね。あちこちからそんな声がする。

「小西君、彼女いないでしょ」

 声の主は岡本先輩だった。彼女いないでしょ。図星、だった。彼女いないでしょ。岡本先輩の声が頭にエコーする。

「そういう先輩はどうなんですか」

 認めたくなかったから、不機嫌な声で聞き返した。

「いないんだよね、それが」

「えっ、いないんですか」

「そうなの」

 どうもみんなわたしの魅力がわからないみたいね。笑いながら先輩は言う。僕をバカにするつもりでいるのかと思っていたから、些か驚いた。

「小西君、どっちが先に彼氏、彼女できるか競争しようよ。それの方が燃えるし」

「いいですね、それ」

「景品も付けようよ」

「いいですね。燃えますね」

「景品、何がいいかな」

 景品。僕と先輩が共に欲しいもの。何があるだろう。

 僕のローファーと先輩のローファーは、並んで歩く。

「掃除券とかどうですか」

 提案してみた。

「何、掃除券って」

「えーと、俺達部活の後いつもひとりずつグラウンドの掃除させられるじゃないですか。僕が負けたら、先輩はグラウンド掃除を一回逃れられるんです」

「あっ、それ嬉しい。顧問の田中、無駄にチェック厳しいしね」

「じゃあ、決まりですか」

「勿論」

 じゃあ、早く彼氏作らなきゃ。岡本先輩は笑った。


「それでできた? 彼女」

 岡本先輩が僕の顔を覗き込む。岡本先輩、化粧してる。当たり前だよな。驚くことなんてない。

「できてません」

 僕は正直に答えることにした。その答えを聞いて、先輩は大笑いした。

「そう言う先輩はどうなんですか」

 ふふふふふふふ。わざとらしく先輩は笑う。

「できたんだな、実は」

「先輩、嘘ついてますよね」

「嘘じゃないよ」

「だって笑ってますよ」

「違う。これは勝利の微笑みだよ」

「じゃあ先輩の勝ちっていうことですか」

「そうなるね」

 岡本先輩は笑った。

「じゃあ、先輩にあげますよ。掃除券」

「いらないよ、もう」

 先輩は、笑った。

 目の前の先輩はもう高校生ではなかった。勿論部活もやっていないし、顧問の田中に怒鳴られることなどあるはずもない。

「わたしが貰っても意味ないもの」

 わたしも高校生だったなぁ。先輩が呟く。先輩、まだ卒業して一年も経ってないじゃないですか。僕ならまだ高校生です。僕の頭をぐるぐる回る言葉達は、決して外には向かえなかった。どうして?

「小西君だったらよかったのに」

 この勝負に勝ったのが?

「小西君ならまだ意味のあることだよね」

「先輩、卒業したのにグラウンド掃除しに来るんですか」

「そう。懸命な卒業生でしょう」

 がたんごとんがたんごとん。電車が揺れる。僕はこのままでありたくて、このままでありたくなかった。早く駅に着いて欲しくて、まだ駅に着いて欲しくない。

 やがて僕が降りる駅が近づいてきた。電車のドアが開く。望んでいた。拒んでいた。

「俺、ここで降ります」

「あ、うん。さようなら」

 先輩は微笑みながら、手を振った。

「さようなら」

 別れの挨拶は先輩の顔を見て。それは叶わなかった。

 雨は止んでいた。電車が走り去って行った方向を見ると、虹まで出ていた。上り電車は東京へ向かう。先輩はどこで下車するのだろうか。

 虹。あの虹が結ぶのは何と何だろう。先輩と東京? 先輩とその彼氏? 先輩と彼女の大学? それとも先輩と――。

 僕は先輩のハンドタオルを握り締めていた。レースで飾られた女ものの。先輩に返すのを忘れてしまった。だが今考えたら、このまま返すのも酷だ。僕の汗が染み付いてしまった。洗って返さなきゃな。先輩と次に会えるのはいつだろうか。

 先輩と連絡を取ろうと思い、鞄の中から携帯電話を出す。携帯電話の電話帳を開いて、岡本先輩の名前を探す。見付からない。気付いた。僕は先輩の連絡先を知らない。

 僕の側を他校の女子高生がふたり、通っていく。あ、虹だよ。本当だ。ばっちり七色だね。そんな会話を残す。

 女子高生に促されて空を見た。虹がある。だが、僕には虹の色の境目が滲んでみえた。あの虹は本当に七色なんだろうか。


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