こうへん。
「で? どうよ、押しかけ女房は」
「……押しかけさせないねー」
来客者用スペースのソファに榛田と雨音は並んでいる。
後ろ向きにソファに膝立ちになって、良い高さにあるカウンターの上に両手で頬杖を突いて、鉄の仕事ぶりを観察していた。
「ていうか、ハルさんさ」
「ん? なぁに?」
「押しかけ女房より、通い妻って言ってくれない?」
「なんで?」
「そっちの方が新鮮な気がする」
「若いってこと? なんのこだわり?」
「……どうしてお家に通わせてもらえないかなぁ」
「んー……まぁ、未成年のお嬢さんだしね」
「左手でも使えないのは不便でしょ? 家事とか大丈夫なのかな」
「……シャツのボタンあるでしょ、袖ね。右側の袖のボタン」
「うん」
「アレ一個留めるのにめっちゃ時間かかってる」
「だーかーら、そういうことなんですよ」
掃除洗濯、料理の家事全般、母親にがっちり仕込まれているので、完璧とはいかないまでも一通りのことは出来る。つもりでいる。
不自由な分、手伝わせてほしいと何度も鉄に申し出ているのに、どう言おうと受けてくれない。
毎日のように鉄のいる部署に訪れて、食事の差し入れだけはやっと遠慮せずに受け取ってもらえるようになった。
「あの人もひとりが長いからね……少々の不自由ぐらい、どうってことないって思ってそう」
「彼女がいるんなら、そりゃ私も遠慮するけどさ」
「人に甘えるの下手くそだからね、あの人」
お昼を告げるのっぺりとしたチャイムが鳴る。
榛田が手を叩いて、お昼休憩いただきますと全体に響くような大声で宣言してフロアを後にする。
こうでもしないとダラダラして誰も休憩に入らず、そうなったら鉄はさらに仕事を続けようとし、結果、雨音が休憩の終わる時間に悲しそうな顔で差し入れを置いて帰ることになる。
何度かそれを目撃した部署の誰もが、積極的に休憩に入り、協力体制を布いている。
「ちわす、雨音師範代」
「こんちはー」
「今日のメニューはなんすか?」
「いいなぁー」
「な、俺もお弁当作ってもらえないですかね」
「俺も欲しい!」
わらわら寄ってくる署員たちに雨音は訓練場に居る時の声を出す。
「いいぞー、よし、並べ。順番に骨折ってやる」
寄って来ていた全員が大きな声で笑いながら、それぞれに休憩を取りに行った。
通路の方を見送って手を振っていると、知らないうちに向かい側に鉄が立っていた。
「お待たせしました」
「いえいえ、行きますか」
横にあるバッグを掴むと雨音は立ち上がり、ふたり並んで食堂に向かった。
食堂といっても食事が提供されている訳ではなく、飲み物の自動販売機とテーブルと椅子があるだけの場所で、逆に昼休憩にはひと気が無い。
ほとんどが外の店に出かけ、コンビニで済ませる者もお弁当持参派も、自分のデスクか小さな休憩室に集まって食べるのだと榛田から聞いていた。
「今日も天気が良いので、窓際にしましょう」
窓際はカウンターテーブルで、外に向いて座れるように椅子が並んでいる。
方角的に陽はささないが、外の植え込みの緑色がきれいに光をはね返している。
雨音はするすると大きなテーブルの間を縫って、いつもの席にバッグを乗せた。
さくさくと準備を始めた雨音の横に鉄が腰掛けると、さっとウエットティッシュが差し出される。
受け取って丁寧に拭ってる間に、目の前にお弁当が広げられた。
「今日はですねぇ。カルシウムもりもり、アジの梅煮です」
「……作られたんですか?」
「作ったのはお鍋です。私は材料を入れただけ」
ふふふと笑って鉄の手からティッシュを受け取ると、代わりに箸を差し出した。
「はい、どうぞ」
「……いただきます」
「召し上がれ」
雨音はてきぱきと料理を皿に取り分けたり、お茶を注いだり楽しそうにしている。
「どうですか?」
「美味しいです」
「こっちのお野菜もどうぞ」
「ありがとう」
にっと笑う雨音に鉄も笑い返す。
最初こそ遠慮もしたし、この至れり尽くせりな感じに困惑もしたものの、ようやく無理に気負ってしている訳ではないのだと思えるようになった。
一時期は家まで押しかけて来そうな勢いだったが、そこはさすがに確固たる態度で丁重に断った。
気持ちはありがたいが、そこに甘えるのは憚られる上に、出入りしている道場の若いお嬢さんに、おかしな噂でも立ってしまえば申し訳が無い。
多めに作ってある料理は、ひとつの入れ物に詰め直されて、夕食の足しにと待たされる。
このような差し入れが始まって、もう二週間が過ぎようとしていた。
食後にコーヒーを飲みながら始業のぎりぎりまでゆっくりと過ごす。
「リハビリはもう始まってますか?」
「時期的にはそうでしょうけど」
「え?! 病院行ってないんですか?」
「ええ……なかなか時間が取れなくて」
「ダメですよ、仕事のせいで体をきちんと治さないとか、本末転倒です」
「……おっしゃる通りです」
「こっちに向いて、手を出して下さい」
鉄に向かって座り直すと、雨音は両手を差し出した。
「朱音が……この前会ったでしょ、兄の、朱音って言うんですけど。腕を折った時に、私がリハビリの手伝いしたんです」
手首を片手で固定して、もう片方で指を折り曲げるように優しく握った。
「……痛くないですか? 響く感じは無い?」
「……はい」
「こうやって、時々動かさないと……イメトレもして下さいね」
「イメトレ……」
「手首や指を動かすのをイメージするだけでも、筋力は保たれるんです」
「ほう……」
「まあ、騙されたと思って。プラ……?なんとか効果です」
「プラセボ?」
「ああ、それそれ」
「……それを言ってしまえば意味が無いのでは?」
「あはは、そうですねぇ……」
話を続けながらも、雨音は鉄の指をゆっくりと開いたり閉じたりを繰り返していた。
鉄は時々揺れるように瞬いている雨音の睫毛の先に見入って、はと気が付いて慌てて目を逸らす。
急に動いた鉄の気配に、雨音が顔を上げて少しだけ首を傾げた。
「鉄さん……ネクタイ……」
雨音がふにゃりと眉毛を下げる。
「解かずに、緩めたり締めたりしてるでしょ……」
ネクタイを締めるにも相当の時間がかかるので、雨音の言う通り、一度括ったものをそのまま使っていた。なんならここ最近 同じものばかりで過ごしている。
「……こういうのですよ」
「こういうの?」
「言って下さい。これぐらいのこと」
するするとネクタイが解かれていくのを、何も言えずただ大人しくされるがままになっている。
むしろどう言って何をすべきなのか、何も思いつかず、頭はひとつも働いていない。
「……あらら、すごいシワになってますね……私、高校がブレザーだったんで、ネクタイ締められるんですよ……久しぶりー」
シャツの襟を立てると、しゅしゅと耳に気持ちの良い衣擦れの音が聞こえる。
長さを調節して右に左に持ち変えられるネクタイを見下ろす。
「ん? あれ?……人に結ぶのって難しいですね……こっち巻き? 合ってる?」
「……合ってます」
「えっと……鉄さんは二回巻き派? あっちもこっちも巻き派?」
「その派閥の名前は知りませんが、二回巻いています」
「んー、りょーかーい……」
きゅっと締めて襟を丁寧に元に戻すと、ぽんぽんと手のひらで胸の辺りを叩く。
できたと満足げに笑っている雨音を直視できずに、鉄は目線を逸らせて、聞こえるか聞こえないか分からない程度のボリュームでお礼を告げる。
「……なぁ、あれ、どうよ」
「付き合ってないとか、ウソだろ」
あまりの良い雰囲気に、食堂に入るのを躊躇っていたギャラリーが、出入り口で気配を殺している。そっち方面でてんで使いものにならない上司にこっそりため息を吐いた。
時間を取って改めて病院で診断を受ける。
固定のギプスを外されレントゲンで確認されて、もう骨に異常はないとそのまま帰された。
念のためと着けられたサポーターも必要無いと思えるほど痛みは無い。
自由に動いて開放感がある手首を見ながら、膨れ上がってくるもやもやとした気分に、どうしたものかと両手で顔を拭う。
もやもやの原因には、問う必要もないほと心当たりが満載だった。
腕が治ってしまえば、彼女を繋ぎとめておくものは無くなる。
それなりに心苦しかった自分の思いからもそうだが、何より、ケガをさせた負い目から彼女を解放してやれる。
それと同時に、楽しみにしていた時間も失ってしまう。
申し訳ないと思いながらも、毎日が楽しみで、その間は実際 楽しかった。
それは素直に正直に、惜しいのひと言しかない。
「お! ギプス外れたんですね、もういいんですか?」
遅れて出勤した途端、目敏く榛田が声を掛けてきた。
「会議はどうだった?」
「あーまぁ、いつもと変わんないですね。実りのあるような話はひとつも……」
代打を頼んでいた榛田は何が楽しいのか、にこにこと機嫌が良い。
「……隊長はどうなんですか? 実らす気はないんですか?」
「……何がだ」
「……またそういう……いいのかなぁ、もったいないなぁ」
椅子に座ったまま足で床を蹴ってデスクに向かう鉄に付いて行く。
「……仕事しろ」
「無いですよ」
「堂々と嘘を吐くな」
「えぇー? じゃあ、今日で雨音ちゃんここに来なくなるんですか? あ、まだサポーターしてるから引っ張れるか」
しつこく話し掛けてくる榛田を無視して、デスクに積み上がっている紙の束に目を通す。
「最近 訓練以外で話す機会が増えたんで、色々探ってみたんですけど、あれ結構ガードが堅いですよね……いやいや、雨音ちゃんは違うんですよ? 周りが男ばっかりだから、雨音ちゃんは男のあしらいが上手いんですよね。
ヤバいのは師範とネル君ですよ。
男どもを撥ね返す質実ともに鉄壁の父親に、イケメンで文武両道ハイスペックなお兄ちゃん。
男の見本がそんなんだから、そりゃ雨音ちゃんも恋ってナニ? ってなりますよね……しかもふたりともめちゃめちゃ雨音ちゃん可愛がってるし」
「……よく喋るな」
「は?! 感想それ?」
「誤字が酷すぎる、直せ」
気持ち乱暴に渡された書類の束を鉄に押し返す。
「これ俺じゃありません」
「お前じゃないから間違いに気が付きやすいだろう、お前が直せ」
「うーわ、なんすか、八つ当たり?」
「仕事、戻れ」
「単語しか言わないし……俺もう知りませんからね」
ぷんぷんとわざとらしく口にしながら、床を蹴って榛田は自分の席に戻っていく。
時計を見上げると、昼の休憩までもう一時間を切ったところだった。
雨音は腕時計の時間を確認して、足を早めた。
いつもより早く学校を出たのに、電車が遅れていたので別のルートを選択して余計な時間がかかってしまった。
お昼休憩には間に合いそうだったが、それでも早く到着したいと、そう変わりもしないのにまた時計を見た。
今日のお弁当は気に入ってもらえるだろうか、美味しいと言ってもらえるだろうか。
最初の頃、鉄さんは申し訳ないとしか言わなかった。迷惑で邪魔だったのかもしれないけど、今はそんな雰囲気は感じない。
ここしばらく嬉しそうにお礼を言ってくれる。
し、その顔を見るとこっちまで嬉しくなってくる。
仕事中はしかめっ面で難しそうな顔をしているのに、どこにスイッチがあるのか、変なところで顔が真っ赤になるのが、なんだか可愛いと思ってしまう。
お父さんと朱音は思い切り嫌な顔をしてるし、私の気持ちなんてお構い無しに文句を言ってるけど、私は今のこの状況は嫌じゃない。
ていうか、楽しいし。鉄さんに会いたいし。
そこまで考えて、雨音は大股で歩いていた足が止まる。
「……そうか。会いたいのか」
薄っすらと霞んでいる水色の空を見上げて、なるほどとつぶやいた。
楽しくお昼を過ごそうと思っていたのに、会ってすぐに差し入れは今日で最後だと言われた。
思い切り舌打ちして、今度こそ完璧に骨を折ってやろうかと叫ぶ。もちろん心の中だけで。
好きなのかもと思ったその日に失恋したような気分になってテンションがガタ落ちた。
まぁ、勝手に思って勝手に落ち込んでるだけですけど。分かってますけど、そんなこと。
いつもみたいに楽しい感じではなく、静かにゆっくりと食事する。
気を緩めると何かが出そうだった。文句とか、涙とか、そんなやつが。
ああ、心の中にいるもうひとりの自分がうるさい。分かったったら。
「鉄さん、夜って、何か用事がありますか?」
「……なんでしょう」
「治ったんだったら、訓練場でちょっと稽古しませんか?」
「稽古?」
「あ、大丈夫……左側は蹴りませんから」
冗談ぽく笑って言うと、鉄さんは構いませんよと笑って答えてくれた。
このくらいのことで心を折るなと喚いている心の中の自分に、もう会えない訳じゃないと勇気をもらった。
もう一歩、踏み込んで、近付く勇気。
待ち合わせの時間より前に訓練場に行く。
誰も居ない訓練場で準備運動を始めた。
体を前屈させて、そのままゆっくり開脚して床に座る。
足音に気が付いて出入り口の方を見ると、鉄さんと目が合う。
「今晩は」
「こんばんは……」
みんなが訓練の時に着ているのと同じ黒の上下なのに、なんか違う気がする。
まぁ、私もトレーニング三種の神器シャツ、短パン、タイツだけど。
いつものスーツじゃない鉄さんに、うわぁ、と思わず声が漏れた。
アップして来たんだろう、いつでも来い感がすごい。
溢れている気迫に呑まれそうになる。
あの腕に組まれたら離れるのが難しそう。
「あれ、サポーターは?」
「ああ、もう良いので外しました」
「今、持ってますか? 付けてもらわないと、普通に手が出そう……」
「遠慮なくどうぞ。本当に大丈夫なので」
「ええぇぇ……?」
「試してみましょう」
よろしくお願いしますとお互いに礼をして、最初は軽く流す感じで始まった。
向き合ってすぐにわかった。
やっぱり捕まったらヤバい感じしかしない、さすが近接格闘の優勝者。
向こうから仕掛けてくるのを待つか、誘ってこっちから行くか。
逃げるのも飽きてき
「うわぁ!」
思いがけずに鉄さんが向かって来たので、とっさに手を突いて跳び越えた。跳び箱の要領で。
危ない、舌 噛むかと思った。
鉄さんは笑っている。
「跳びますか、そこで」
「……びっくりしました」
「驚いたのはこっちです……身が軽いな」
「ふふふー。バク宙できますよ、見ます? あと側宙もできます……役に立たないけど」
訓練の息抜きにはみんな喜んで見てくれるので、いつもの男子体操、床!!
テッテレーって感じで両腕を上げると、鉄さんは手を叩いてくれた。
これは、なかなか嬉しい。
「充分役に立つでしょう」
「そうですかねぇ?」
仕切り直して、もう一度向き合う。
さっきより和らいだ感じがした空気に、油断したのでは無い、決して無い。
組み合った腕が決まる前に、返して組み返す、その前に外されて、を何度も繰り返していたら、足元をすくわれそうになった。跳ぼうとしたけど間に合わずに床に倒される。
腕も脚もがっちり固められたので動く気がしない。
なんとか動かせる指先でタップすると力が緩んだから、私も力を抜いた。
首に乗っていた腕が少し持ち上がって、呼吸が楽になる。
……重いので、どいていただきたい。
え、参りましたってば。
はい、ていうか、顔近い。
分かりますか鉄さん、私の睫毛が鉄さんのほっぺたにぱさぱさ当たってますよね。
ほら、ぱさぱさーって。
ちょっとでもこっち向いたら、キスですよ。
カターン、と硬いものが硬い所に落ちる音の後に、聞きなれた声。
「たはーっっ!! ごめんね、ホントごめんなさい! 邪魔するつもりは無いから、ホント、続きをどうぞー……」
というハルさんの声がどんどん遠くなって行って、最後の方は聞こえない。
凄い勢いで息を吸い込んだ鉄さんが、勢いよく起き上がった。
「……すみません」
「え?いえいえ」
鉄さんは体を退けて両手で顔を覆っている。
確かに最後のあそこだけ見たら、鉄さんに押し倒されている雨音さんの図だろうけど、人様に見られてはいけない様な恥ずかしいことをしていた訳ではない。
「おかしな誤解が無いように、榛田には後で……」
「誤解? 誤解なんて別に……」
体を起こすと足首に痛みが走った。
思わず握ってまた床に転がる。
「ど?! どうしましたか!」
「……足が……痛いですねぇ」
鉄さんに払われた方の足だった。
いつの間にか少し腫れている。
とはいえ、これは折れている感じでもないので、ひと安心。
「……冷やして、これからすぐに病院に」
「……鉄さん!」
言質を取っておこう。
「はい、痛みますか?」
「責任取って、夫になって下さい!」
ぶはと吹き出した鉄さんはそのまま笑い出した。
「とりあえず、一ヶ月で良いですよ?」
勇気を出して踏み込んで近付いた一歩は、
病院で捻挫だと診断された。
鉄壁の父とハイスペックな兄との戦いに、鉄の善戦と雨音の暗躍が実を結び、自称が取れて、正真正銘の夫と妻になるのは、少し先の話。
お読み頂きまして、ありがとうございました!!
『六翼の鷹と姫の翼』50話到達☆勝手に感謝祭!!でした!!
引き続きウチの六翼ちゃんをよろしくお願いします!
まだ読まれた事がない方は是非お寄り下さいませ。あまりの違いにAnother Worldてか、もう別の話じゃね?! となることうけあいです。
アメちゃんがこんなにもアグレッシブ。
幼少期のあれこれや、役目なんてなければ、きっと普通の女の子なんです。
それ以外は安定の性格。
お楽しみ頂けたでしょうか。
そうであっなら、幸いでございます。