126.女神降臨
神聖帝国ガーランド。
その皇城は、喧騒に包まれていた。
「時間がない、今こそ大陸最強国家の意地を見せろ!」
「魔法師団の作戦が最優先だ! これは皇帝陛下の勅命である!!」
「白銀騎士団は結界防護の任に当たれ、反射の魔術師が発動させた魔術構築式に、何人たちとも近づけるな!」
「城下町から薬をかき集めろ、薬草の類も全部だ! ……バカ野郎! 回復魔法なんかもう二度と使えないんだよ!!」
怒号が飛び交う中で、自らが陣頭指揮を執っているのはラーゼリオン皇帝ベルガルド。
一通りの指示を出し終えたところで、傍らに立つ漆黒の魔法衣を纏う男に声をかけた。
「なんとか間に合うか? 救世の魔王よ」
「その呼び方は止めろと言ったはずだ、皇帝」
エフォートは吐き捨てながら、その手は複雑な構築式を描き続けていた。
複数の思考を同時に展開することも、今のエフォートには容易い。
ベルガルドは笑う。
「ふむ。では女神殺しの——」
「二つ名なんてどうでもいい。というか、お前たちはそれでいいのか?」
エフォートの問いに、皇帝は首を傾げる。
「何がだね」
「ここは神聖帝国。女神教の本拠地であり、貴様はそのトップだ。お前たちの信仰対象を討とうとする俺に、本気で協力するつもりか」
「せねば我らに未来はないだろう。すでに回復魔法の奇跡は失われ、女神の加護は消滅している。民を見捨てた神になど、もう用はないのだ」
「本心か?」
「それは貴様の連れの精霊剣士の力で、確認済みだろう?」
確かにエフォートは、一緒に帝国に転移してきたリリンによる精霊術の力で、皇帝ベルガルドの真意を読みとっている。
「……ここはガーランドだ。古精霊術の効果を擬装できても不思議じゃない」
「あの精霊剣士だけならいざ知らず、貴様の目を誤魔化せるはずがないだろう。何しろ貴様は、あの転生勇者モチヅキハルトに女神の目すら遮断する結界を張る、異能の魔術師だ」
「自称だ。実際に遮断できているかは分からない」
「見通されていたら、この世界が滅びる。それだけだ」
淡々と語るベルガルドに、魔術構築式に向けていた視線をエフォートは皇帝に向ける。
「皇帝、お前の望みはなんなんだ? いや……サフィを手に入れて、どうするつもりだったんだ」
「余は、あれほど聡明な女を見たことがない。ラーゼリオンに勇者が現れ魔王との戦いか始まれば、この大陸は混沌の只中に落ちよう。余の命も危ういかもしれぬ。だから、せめて息子に優秀な伴侶を与えてやりたかったのだ」
「な……意外な理由だな」
「そうかね」
「政略結婚の道具として、ラーゼリオンの秘術を手に入れる為、都合が良かっただけじゃないのか」
「ラーゼリオンの秘術。モチヅキたちの故郷ともまた異なる異世界の魔法技術……確かにこの大陸で帝国が覇を唱え続ける為には、喉から手が出るほどほしい代物だ。だが、そんなものよりも遥かに価値があり、得難いものがある。それがサフィーネ・フィル・ラーゼリオン、彼女のような高潔な理想を持ち、その為には己が身も顧みることのない強い意志を持つ指導者だ」
「……自分の息子を、そう育てればよかっただろう」
「英雄は二職を持たず、というだろう。余には帝国の支配者としての力量はあっても、親としての才は無かった。ずいぶんと腐った性根の男に育ってしまったよ。だからこそ、サフィーネ姫が欲しかったのだ」
「失敗した子育ての尻拭いなど、サフィにさせるつもりはない」
「無論だ。世界を救う女神殺しの魔術師の伴侶に、もうそのような役割を負わせる気はない。安心するがいい」
「伴ッ……い、いや、まあ……ならいい」
サフィーネを自分の伴侶と言われ動揺したエフォートだったが、そろそろ雑談に興じる時間も無くなってきた。
エフォートの手がせわしなく動き、合わせて第三者には不可視の魔力が複雑に編み上げられ、膨大な魔術構築式が編み上げられた。
「……繋がったぞ。これで、最低限の仕掛けは終えた。後は皇帝、お前たち次第だ」
「言うではないか。女神降臨の刹那にお前たちが殲滅させられれば、仕掛けも何もないぞ?」
ベルガルドの挑発的な物言いに、エフォートは臆せずに頷く。
そして、その切れ長で鋭い目つきで、遠くを見つめた。
「負けないさ。女神は前哨戦に過ぎない。その後に控えている、あの男との決戦でサフィを救い出すまではな」
***
開けた視界に最初に入ってきたのは、王城では見慣れていた長兄の顔だった。
「おはよう。ご機嫌はいかがかな? 愛しい妹よ」
「たった今、最悪になったわ」
だが姿形は長兄のものでも、サフィーネが知る兄とはまるで存在感が違った。
(望月晴人……ここまで化け物だったなんて)
サフィーネは自分の身体を大岩に繋ぎ拘束している、青く光る鎖を見た。
ラーゼリオンの王城で父が使うの見たことのある魔法、〈シールズ・チェイン〉だ。
(前世の記憶を取り戻し、シロウと同じチート能力を得て、ライト・ハイドから承継魔導図書群と同等の力を手にしたのね……!)
睨みつけてくるサフィーネを、ハルトは鼻で笑う。
「ふっ、最悪か。どうしてかな?」
「兄の顔で、品の無い笑みを見せられたからよ」、
魂の転生。
前世の記憶が甦るということ。
そんなものはサフィーネにとって、想像するしかない体験だ。
だが、前世の記憶を保ったままで転生したらしいシロウ・モチヅキとは異なり、兄にはハーミット・フィル・ラーゼリオンとして二十年以上、この世界に生きてきた人生があったのだ。
前世を思い出したところで、あの強靭な意志と自意識を持つハーミットが、自らの人格をハルトに奪われるなど、サフィーネには信じられなかった。
「つれないことを言うねえ。私とは懇意にしておいた方がいいよ? 君の愛しいエフォート君がいなくなれば、サフィーネが理想とする奴隷制のない平等な社会を実現できるかは、神の力を得ることになる、この兄次第になのだから」
だが実際に、目の前にいる男は断じてハーミットではありえない。
サフィーネにはそう確信できた。
「神の力、ね。……そんなもので平等社会を得たとして、なんの意味もないわ。女神の奇跡による回復魔法みたいに、その意志ひとつで簡単に奪われてしまう。だから、自分たちの力で確固たるものにしなくちゃいけないのよ。そんな事も理解できないあなたは、もう兄なんかじゃない。あなたを頼ることなんか絶対にないわ」
「……へえ。女神の奇跡が失われたと、どうして知っているんだい?」
ハルトは興味深そうに笑いながら、兄ではないという言葉を無視して問いかける。
「気を失っていた君には、いやそうじゃなくとも、一介の王女に過ぎない君に、女神の奇跡の消失を感じる能力はないはずだ」
「簡単よ。あなたはフォートがいなくなったらと言った。つまり、まだ彼は生きている。だったら今頃もう、ミンミンは解放されているに決まっているわ。魔王の力を得て、女神に叛旗を翻したフォート。彼に力を貸す回復のスペシャリストミンミンの力を、女神が放置しておくはずがないもの」
「なるほどね……大した洞察力と、エフォート君への信頼だ。まるで物語の主人公とヒロインのようだね。だけど」
ハルトはすっと目を細めると、僅かに魔力を解放する。
頭の中に直接手を突っ込まれたかのような不快感を覚えて、サフィーネは眉を顰めた。
「くっ……!? 何を!?」
「現実は、物語のように甘くはない。……エフォート君が結界でこちらの目を遮断しているからね。女神と彼の決戦を覗き見させてもらう為に、サフィーネ。君たちの心の繋がりを利用させてもらおう」
「そ、そんなことが……!?」
尋常ではない不快感に吐きそうになりながら、サフィーネは絶句する。
ハルトは高らかに笑った。
「あはははっ……それだけじゃない。君はあの反射の魔術師に対する最大のカードだ、もっともっと、利用させてもらうからね。さて、まずは一緒に、人対神の決戦を高みの見物といこうか」
「……モチヅキハルトぉぉぉぉ!!!」
サフィーネの叫びもむなしく、彼女の意識はハルトによって彼方へと飛ばされた。
(——! こ、ここはっ!?)
次の瞬間、サフィーネの意識は別の場所に浮かんでいた。
目の前に広がっているのは、神聖帝国ガーランドの皇城。
そしてその上空に、黄金の光が集まっている。
(空が——割れる!!)
光溢れる空の裂け目から、それは緩やかに地上へとゆっくり降りてきた。
〈——跪いて、懺悔なさい。矮小なる身で創造主に反旗を翻した、己らが罪を〉
その偉容を人の言葉で形容することは、困難を極めた。
だが、世界に巨大な影響力を及ぼすために受肉したそれは、物質として確かに顕現している。
身の丈は、大陸中でもっとも高層で巨大な建築物と言われるガーランド皇城の十数倍はあろうかという程。
姿形は、人族の若い女性の形をベースに、その背には九十九枚の純白の羽根が生えている。
腕は左右合わせて三十四本、脚は無く、腰から下は白蛇の尾が螺旋を描き宙に畝っている。
胸には豊かな双丘が晒されているが、黄金の光に包まれて確かな形は目視できない。
貌はその名を名乗るに相応しき美貌。蠱惑にして清廉。可憐にして淫靡。
頭髪は黄金色に激しく燃える炎だ。飛び散る火の粉のひとつひとつが、煌めく流星のごとく舞い散っている。
——女神が、降臨した。
***
「第三から第十八魔導師団! 霊装起動!!」
「時限式魔術構築式、発動します!」
「連結魔晶の封印解除、確認!」
「ウロボロス回路への魔力伝達、正常域で進行中!」
ガーランド皇城上空への女神降臨と同時に、作戦は開始された。
もともとベルガルドが対ラーゼリオン戦用に仕掛けていた物に、エフォートが文字通り魔改造を施した魔法兵装が次々と起動する。
「魔力供給臨界ッ!」
「三番から十八番! すべて撃てます!!」
「よし! そのまま合図を待て!」
皇城のもっとも高い塔の上に、その男は立った。
「……本来ならその姿を見ただけで平伏し、反抗心など失せるところだろうがな。さすがは反射の魔術師、見事な結界だ」
〈ベルガルド。よもや汝までもが逆らうとは、愚かなものよ。反射の坊やを我に差し出せば、治癒の奇跡も返してやったものを〉
帝国中の空に、女神の声は響いた。
エフォートによる防御結界がなければ、声だけで力なき生命はその精神に多大な影響を受けてしまうだろう。
〈今からでも遅くはないぞ? 我の前にかの魔術師の心臓を差し出せば、赦してやろうぞ。我は寛大であるからな〉
「これは異なことを。かように荘厳なる降臨をあそばせながら、たかが魔術師一人の命だけで帰るとおっしゃるか。大陸をあげて信仰を捧げた存在が、このように安易なものであったとは。信じたくはないな」
神聖帝国の皇帝は、平然と吐き捨てる。
「余を、いやこの世界に住まう者たちを、舐めるな。神とて生きるために利用していたに過ぎぬ。利益をもたらさず戯れに愚者に世界の支配権を渡すというのであれば、一戦も辞さぬ覚悟よ」
〈……よくぞ言うた、ガーランド皇帝ベルガルド。そのような誇り高き意志を持つ者なればこそ、我が信徒たちを統べる国として、我は帝国を認めた。……けれど〉
女神の背から、九十九枚の羽根が一斉に大きく広がった。
〈我はもう……それに飽きたかしらァァ!〉
「——レオニング!」
「まかせろ!!」
皇帝の叫びに応え、帝国魔法師団を従えた反射の魔術師が叫ぶ。
「最終安全構築式、解除!」
皇城を囲むように配置されていた魔法兵装、二十五の光輝く砲塔がその姿を現した。
すべての砲口には既に、溜めに溜めた魔力が満ち満ちている。
「喰らうがいい……魔王が受けた魔法の、十五乗の威力だ」
一つ一つの砲塔の周りには、それぞれ複数の魔術構築式が描かれている。
見るものが見れば、それらはすべて〈カラミティ・ボルト〉を始めとした戦略級魔法であることが分かるだろう。それらの力が融合していく。
「放てッ!! 〈千兆重魔法原子崩壊呪〉!!」
女神との戦いが始まった。先手を打ったのは、反射の魔術師。
世界創造に等しきエネルギーが、上空の女神本体に向けて放たれた。