第七話 湯気と風にそれぞれの思惑は揺れる
とりあえず、一節の終わりの部分。第一話のエンディングみたいな。
「これがあんたの略歴だ。目ぇ通しときな。それと入学許可証。ケツ拭く紙と間違えて捨てないように」
研究室で渡されたのは、丸められた羊皮紙だ。紐を引いて封を解くと、数行の文字列が並んでいた。
アンジェラ・ヴェレレン。イストヴァン侯爵領の山間の村出身。年齢十七。公的資格・役職・階級なし。
入学を認める旨の下に、身元保証人としてシーアのサインがある。
「苗字は侯爵領の適当な地名からとった。出身はマギーリの領地だから間違っちゃいないだろ。年齢は酒が飲めるようにしといてやったから感謝しな」
「十分だ、感謝する」
「口だけでなく行動で示してほしいもんだがね」
「晩酌にでも付き合ってやろうか?」
はっと紫煙を吐き出してシーアは嗤った。
「小娘に酌もらって喜ぶほど腐れちゃいないよ。どっかにいい男でもいないもんかね。……ともあれ、だ。この書類にサインをすれば、あんたはこの学園の生徒として認められる。生徒になるってことは学園の規則に従うってことだ。そこんところはよく覚えておくんだね」
「貴族様には逆らうな、と?」
「あんたの自尊心なんて言うタバコの灰より軽いものはどうだっていい。あんた一人が反抗するだけで、他の平民出身の生徒に迷惑がかかるってことを自覚するんだ」
たとえば、貴族からの支援がなくなれば、学園の経営がままならない。そうすれば私一人の問題ではなくなってしまう。組織に入るとはそういうことだと理解はしている。
「今回の件は、学生同士のいざこざって程度で収められる。だが、目を付けられたのは確かだ。あまり調子に乗らないこと」
「『親を支え、夫を立て、息子に仕えろ』ということか」
貴族の娘を諭すときに使われる古い言葉だ。シーアが眉根を寄せる。
「わざとなのか天然なのか知らないが、あんたはちょっと貴族の匂いが抜けていないね、お坊ちゃん――いや、お嬢ちゃん。サッフィーに平民としての作法を教えてもらっちゃどうだい」
「ここまでしてもらった恩は忘れない。ただ、私は、私であることを第一に行動する。それが私だからだ。そこだけは、覚えておいて欲しい」
「口だけでなく行動で示してほしいもんだねぇ」
呆れたように煙管を深く吸い、大きく吐く。顎先で、退室を指示された。
「……っ」
熱湯が傷に染み、燃える様な痛みが各所に広がる。
「痛みますか?」
湯気の中から気遣う声が飛ぶが、平気だと答える。
私は、平民の宿舎にある木の板の張られた浴場で、汚れた身体を清めている。洗濯は専門の者がいるようで、代わりの制服もすぐに用意してくれるとのことだった。食事は貧相だが、そのあたりの待遇は貴族と同じだという。
身体を清めるのに湯を使う習慣はなかったが、汗やほこりと共に疲労までが洗い流されるようだった。
湯の熱で肌が染まり、薄桃色になっている。きめ細かい肌は、撫でると滑るように水をはじく。腕に力を込めても、筋肉の盛り上がりがほとんど見えない。情けない細腕を見るのが辛く視線を落とすが、そうすると胸の脂肪の塊が視界を遮る。女性らしさの象徴ともいえる乳房は、男だった頃の脂肪を凝縮したように身体に比して大きい。押さえつけても縮むことはなく、弾力をもって押し返してくる。
乳房の先端が赤くなっていて、そこに痛みがあった。服に擦れたからだろう。今更ながら、胸当ての必要性を痛感させられる。
男として女を抱いたことはあっても、相手は娼婦で、十台中盤の娘に手を出したことはない。脂肪の中にまだ芯の残っているような発達途中の乳房だが、それでも形や感触は女の器官だった。腰に眼を落とすと、まばらに黒く細い毛が散る股間は貝のようにぴったりと閉じて真珠色の肌をしている。男を知らない生娘の割れ目を見て、正体の分からない罪悪感と羞恥心に襲われた私は磁力のように視線を引きつけるそこから眼を逸らした。
私は、私だ。アンジェロでもアンジェラでも、男でも女でも、私だ。シーアにも言ったことを思い浮かべて心に刻み込む。
壁に埋め込まれた魔石を回すと、蓮のように穴の開いた蛇口から、霧雨のような細かい湯が噴き出す。それで石鹸の泡を落としていると、背後に気配がある。案内ついでなのか、共に浴場に入ったサファイアが、こちらに寄ってきていた。
「あの、お背中、洗います」
不要だ、と言いかけるが、すでにサファイアは両手で布を広げている。控えめに押し付けられる布が肩甲骨から背骨、尾骨までを丹念に往復する。汚れを落とすのが目的だが、軽いマッサージのようでもあり、筋肉の緊張が和らいで、ほっと息をついた。
鏡の中に、二人の影が映っている。昼は一本のおさげで結っていた髪を解いたサファイアは、濡れて上気した肌が相まって色気を発し、少しだけ大人びて見える。
誰かに背中を預けているというのに、警戒心を持つことが出来ない。疲労もあるが、それだけサファイアに心を許してしまっている自分がいる。それは相手が無力だからだろうが、それ以上に自分に好意を持つものに対していつまでも警戒心を保つというのは難しいからだと私は考えた。
「綺麗な肌……すべすべしてる」
「だからどうした」
「あっ――すみません」
独り言だったのだろう。反応を見せると、サファイアが手を止めた。やはり、女として扱われることだけは、慣れそうもなかった。しかし、それでサファイアを叱責する気は起きなかった。認めたくはなくとも、客観的には私の身体はひ弱な少女の骨肉に置換されてしまっているのだ。多少の戦闘行為で後を引くほどの疲労を得て、嫌が応にもそのことを実感させられた。
「気にしなくていい。続けてくれ」
「はいっ」
随分と懐かれたものだ。サファイアを庇い決闘にまで発展してしまったことからの罪悪感からだろうか。しかし、それにしては出会った当初から妙に良くしてもらっている気がする。
「どうも、サファイアには好かれている気がするな」
「ふぇっ!? す、好きって」
他愛ないことだと思って訊くと、顔をみずとも言葉の震えだけでサファイアの動揺が伝わってきた。
「好きっていうか、憧れっていうか、その、アンジェラさんみたいな素敵な人、会ったことなくて」
「素敵だと? 私がか?」
人生で一番笑えない冗句だ。才能もなく、勇敢でも優しくもない。自分がどれほど魅力に欠けるかなど、私自身が一番よく知っている。
そういうと、サファイアは頬を膨らませた。
「そんなことありません。アンジェラさんは、初めてみた時から、綺麗で、格好良くて、しかも強いじゃないですか――心も身体も」
「容姿のことならば、好んで手に入れたものでもない。実力に関しては、求めたものに届いていない。心など……誰よりも弱いかもしれない」
私にとっては、それが事実だ。せめて、心が強ければ――騎士団に在って、それなりの地位にいられたかもしれない。力に酔って討滅されることもなかっただろう。そうやって過去を悔やむことが、弱い証だ。
私の哀愁を感じ取ったのか、それ以上は、サファイアは話を続けないでくれた。代わりというように私の髪を一房手に取り、愛おしげに撫でる。
「綺麗な髪です。でも、珍しい色。黒真珠みたい」
黒い髪は、確かに珍しい。染めれば出せる色ではあるが、この国では貴族に多い金髪が美しいとされていて、わざわざ黒く染める者もいない。人によっては不吉と感じるかもしれない。
「黒髪は嫌いか?」
「艶が出て、すごく素敵。アンジェラさん、肌が白いのでどちらも良く映えますよ」
髪の先から元をたどるように少しずつ顔を近づけてくるのが、気配でわかった。
「それにアンジェラさんって、いい匂いがします」
「石鹸の匂いだろう。サファイアからもする」
「ううん。もっと甘い、女の子の肌の匂い。不思議です。アンジェラさん、こんなに素敵な女の人なのに。私、なぜか男の人みたいに格好いいって思っちゃうんです。――あまり、男の人と話したことは、ないんですけれど」
すみません、と今日何度目か分からない謝罪に、私は少しだけ表情を緩めた。
「その評は、悪くない。そう思ってもらえればむしろ助かるくらいだ」
「で、でも、そう思うと、私、アンジェラさんのこと……」
息が詰まったように、幾度か口を開きかけては閉じ、何かを言おうとしている。そうやっていたあと、やがて何かに対してため息をついて、とにかく、と話題を変える。
「これからさき、よろしくお願いしますね」
「ああ、色々と面倒をかけるかもしれないが、よろしく頼む」
部屋でも同じやり取りをした気がするが、その時よりも物理的にも精神的にも距離が近づいている。少しだけ身体が熱くなったのは、背中に浴びせられた湯のせいか。
湯気を出すために開けられた窓から、星空と月が見えた。すでに日は傾いて、夕暮れも彼方に消えつつある。周りが芝生で囲まれていて光源がないので、部屋からも星がよく見えるだろう。
あの忌々しい一件以来、私の人生は性別と同じように反転してしまったように思えた。それまでは、光を浴びて起きることもなく、誰かと共に夕暮れを迎えることもなかった。
あくまでも、学園での生活は仮初めのもの。力が戻るまでの隠遁生活だ。そうやって自らを律しなければ、普通の人間としての心地よい生活になれ、失うのが惜しくなってしまう。それはとうに自分から捨てたものだ。今更惜しむことなど許されない。
私は悪鬼だ。自らの所業と力を忘れてしまえば、私は私でいられなくなる。過去を捨てることも、否定することも自身の喪失となる。
「どうかしました?」
「ああ、いや、明日のことを考えていた。魔術の授業とはいかなるものだろうか、と」
感傷を隠して誤魔化すと、私の背中を流すサファイアの声が耳元に零れ落ちた。
「基礎課程なので、そんなに難しいことはしないと思いますよ。それに、私も頑張ってお手伝いしますから」
不思議とサファイアの声を聴くと力が抜ける。
「とりあえず、今日は疲れた。軽い夕食を取って、早く床に就くぞ」
「こんな時間に、何をしている」
「ブラィンド先生。別に怪しいことではありませんよ」
スライ寮に近い中庭で、月明かりに照らされた中庭で鉄の塊を弄っていた人影を見て、シーアが声を掛けた。冷たい光の中で顔を上げたのは、エミリオだった。
「『走り手』の調子がおかしいので、検証しているところです。ダメージは回復しているはずなのに、動かない」
少年の顔には焦りと不安があった。シーアは気にも留めず、無遠慮に煙管を吸い込んで月明かりを紫煙でさえぎる。
「すこし見せてもらってもいいかい?」
「それは」
シーアには彼の逡巡が手に取るようにわかる。シュタツハルト秘蔵の術式は、簡単に触らせて良いものではない。しかし、シーアほどの魔術師ならば、不具合の原因を探ることが出来るかもしれない。
さらには自分の魔術を自分で把握できないことに対する焦りや、助成を乞うことへのプライドの反発もある。
返答までに、シーアは口先で三つの煙の輪を吐き出していた。
「……いいですよ。シュタツハルトの魔術、たとえ先生と言えど容易に再現できるものではありませんから」
「じゃあ、遠慮なく」
ひょいと突き出した煙管の先に、無造作に描き出された魔術陣を見て、エミリオが眼を張った。
「その魔術は? 青の分析系術式のようですが」
「アタシの自慢の小技で、『禁忌の錬金術』っつー魔術さ」
何でもないというようにシーアが描いた魔術陣は、エミリオが見たことがないほどに繊細かつ緻密だった。魔術陣とは、魔術の行使に必要な情報の集約されたものだ。現象や効果範囲といった情報を何本もの線の組み合わせで表現する。シーアが宙に描いたそれは、まるで宗教画のように精緻な情報の集まりだった。
エミリオの技量では、その内容を読み取ることが出来ない。外見で何となく分析の魔術だと判断するのが精いっぱいだった。
寒空の下でほのかに輝く魔術陣がシーアの片眼鏡に投影され、ゆっくりと回転する。ふっとシーアが息を吐いた。
「はん、なぁるほどね」
「なにかわかりました?」
「ああ、だいたいな」
煙管を口元に戻して、口先でそれを上下に振りながら、褐色の指で『走り手』を指す。
「あの『電弧の走り手』の構造は大体わかった。基本は赤の操作術式だが、操っているのは金属の塊自体ではなく、その内部に神経のように走る細やかな鉄の粒だ。そうだろう?」
「はい」
学園の教諭としての口調となったシーアに、大人しくエミリオは首肯した。
「赤の魔術は主に炎と金属について干渉する。それをさらに究めれば、金属間に流れる磁力の操作にも繋がる。『電弧の走り手』という魔術は、金属の中に巡らされた鉄を磁力によって動かす魔術ってわけだ。鉄は神経であり、筋肉でもある。これなら金属全体を力づくで動かさずとも、簡単な指示とわずかなマナの消費で、通常の操作魔術より遥かに精緻な動きが可能だ」
エミリオは無言でシーアの講義に耳を傾けている。その反応で自らの解析が正答であるということを理解して、シーアは続ける。
「魔術の応用で、表面の金属も一枚板を曲げたように見えるが、細やかな金属が磁力によって集積したものだ。『破砕』等の対単一構造防御用の魔術を受け付けず、傷の修復も楽に行うことが出来る。そして滑らかな可動性を実現するために、内部の鉄は流体とすら表現できるほどに細かい粒で構成されている」
さて、と一息つき。
「私の『禁忌の錬金術』は、物質を通常とは違った視線で解析する。我々は通常、物質を一塊として把握している。しかし、世界はもっと小さな『何か』の粒が集約されて形作られているのではないか――それを分析するための魔術だ」
「つまり――どういうことです」
「たとえば、水だ。カップに注がれた水は、我々の目では『カップ内の水』というくくりで解析される。魔術でそれを生み出すときは、カップ一杯分の水という指示式を組み込むことになる。だが、私の魔術の解析によると、この『カップ内の水』が、もっと細やかな『何か』の集まりとして映る」
「それは、たとえば水滴の集まりとか」
「違う。もっと細やかな、それ以上分断できない、本当に小さな粒だ。その『何か』の集まりが、『水』なんだ」
そこで、と術式を解除された煙管の先が薄い煙を上げる。
「あの『走り手』の内部を精査すると、二種類の『鉄』を発見した。同じ『鉄』を構成する『何か』だが、片方は元からあったものではなく、それが変化したものだ」
「変化ですか? それは、どのような」
「恐らくだが、原因として浮かぶのはアンジェラの放った魔術――『酸の短剣』。あれが『鉄』に変化をもたらし、磁力を受け付けなくした」
「酸による腐食――というですか」
「構造の変化だな。『鉄』であることは変わりないが、通常のモノとは違い、磁性を失っている」
ふっと口から煙を円にして掃き出し、煙管の先で拡散させる。
「私にわかるのはそれくらいだ。あとはあんたがどうにかしな」
「そうですね。そうすると、一度解体して直す必要がありそうです。……ところで、先生。『電弧の走り手』の魔術は、確かに先生のおっしゃる通りの魔術です。しかし、この魔術の本質はそんな小手先の技ではない、というところまで分かっています?」
試す目つきでシーアを見るエミリオに、シーアからの視線も同じ形で返される。
「通常の使役系魔術は、その場で材料を変質させて操る。しかし、これだけの複雑かつ特殊な金属の塊を瞬時に構成するのはかなり難易度が高い。それを成すというよりも、どこかにしまっておいて取り出すほうが、まだ現実的かもしれないねぇ」
「つまり?」
「皆まで言わせる気かい。現代でもはっきりとした魔術陣は開発されていない、それどころか理論すら構築中の古の術式である『空間操作』の魔術が使われてるってことだろ。あんたのさっきのセリフからして、あの金属人形はこの場で作り直せる類のモノでもないようだしね」
「流石――ですね。そこまで推察されているとは」
「問題はその術式をシュタツハルトがどうやって作り出したかだが――流石にそれは推測不可だし、教える気もないだろう?」
「ええ。シュタツハルトの恥部というべきところですから、僕の口からお教えするのは憚られるのですよ」
「貴族の暗部なんて、覗き込むほど馬鹿でも勇敢でもないよ」
話から目を背けるように夜空に視線をやるシーアを見て、エミリオが肩をすくめる。
「そういえば、先生はなぜここに? ここはデザイア寮からは離れていますし、見回りというわけでもないでしょう」
「ただの星占いだ。妙な荷物を抱えちまったから、この先どんな面倒があるかを予見しようとな」
「……あの、アンジェラという平民ですか」
エミリオが金属の表面を撫でて、遠いところを見る目をつくる。瞳には怒りではなく純粋な興味が渦巻いている。
「何者ですか? どこかの貴族の落とし胤かなにかとか」
「ただの拾い物だ。世間のことは何も知らない愚か者だから、今日の無礼は許してやってほしい」
「ここに来たのは、そちらが本命ですか。大変ですね、教師というのも」
「生徒がしでかすと、教師の責任も問われる。それで研究費が減るのに比べれば、尻拭いなど安いものだ」
言葉とは裏腹に、ガリ、と煙管を噛む音がした。エミリオが苦笑を漏らす。
「僕はもう、気にしてはいませんよ。……いや、むしろ気になるくらいです」
「身分違いの恋か」
「平民相手に、惚れたというわけではない……のですけどね。ああやって誰かと対等に話したのは久しぶりです。剣まで交えた相手はいなかった。平民、しかも女の子が、頑なな意思の強さと魔術戦闘の腕、それに美貌を備えている。気にならないほうがおかしいでしょう。先生が占わなくとも、無難に落ち着くことが期待できないのは予想できます」
「あいつは間違いなく厄介なことをやらかす。多少の覚悟はしていたが、予想以上だ」
紫煙に乗ったシーアの声が、夜風に吹かれて空に散った。
次回、作者都合にて6月10日の夕方から夜間に投稿予定です。