第三話 学園生活のはじまり
今回、短いです
裏拳で扉をたたくと、すぐに返答があった。
「私だ。入っていいか」
声だけで認識できるかと不安だったが、サファイアの明るい声はすぐ開けます、と返してくる。
「シーア先生とのお話、どうでした?」
それほど時間は経っていないというのにどこか懐かしさを覚えるのは、騎士見習い時代の寮を思い出すからだろうか。もはや戻れない青春の幻影を振り払い、窓の桟に手をかけて体重を預け、背に日光を浴びる。
「結論から言うと、ここで世話になることになった」
「学園に入学されるんですか?」
「あぁ。デザイア寮――この部屋に厄介になる。よろしく頼みたい」
私がそう言うと、サファイアの顔には満面の笑みが咲いた。
「本当ですか!? こちらこそ、よろしくお願いしますっ」
理由は分からないが、歓迎されているようだ。単に人懐っこさからだろうか。
「そう言えば、名前、訊いてませんでしたね」
「アンジェラと呼んでくれ、サファイア・エリクスドッター」
「私の名前……シーア先生から?」
首肯すると、サファイアは笑みを深め、右手を差し出してくる。
「よろしくお願いします、アンジェラさん」
誰かの手を取るのは、かなり久しぶりだ。背中の日の温かさより少しだけ低い温度の少女の手を軽く握り、離す。
「シーア先生から、学園のこともきいてますか?」
「寮が分かれていることと、貴族が幅を利かせていることくらいだ。詳しいことはサファイアが案内を持っていると聞いたが」
「あっ、これですね。学園案内」
ベッドの下の収納から引き出すのは、なめし皮の表紙で出来た立派な本だ。焼き付けられた字が霞むほどに古いものらしい。差し出されて受け取ると、今の私の腕力では少々重い。両手の上で開けば、サファイアが寄ってきて隣に立ち、頁をめくってくれた。香水でもつけているのか、日光の香りの中に柑橘系の香りが薄く混ざる。
「ええと、学園は全寮制で、五つの寮に分かれていることは聞いてますよね」
「デザイア、スライ、エルヴス、ゲィト、イクイップ――だったか」
「はい。それぞれ、青、赤、緑、黒、白のマナに関する言葉だそうです」
「つまり、このデザイア寮で学ぶのは青の魔術……ということか?」
「そうですね。寮長はその色の魔術の到達者ですから、師事するとなるとそれぞれの専門を教わる形になりますし。ただ、一応、生徒の学ぶ魔術に色の制限はありません。基礎的な部分はすべての色を一通り触れることになります。――アンジェラさんの得意な魔術は?」
「一応、赤と黒だったが……大したことが出来るわけではないがな」
人それぞれのマナの適正というのは、個人の性格などに反映されるという。赤は大地や火を操る魔術や形あるものを壊す魔術、黒は精神や生命力に関わる魔術を得意としているあたり、やはり私は素質からして誰かのために戦う騎士団には向かない人間だったと常々思う。
「デザイアは青の寮ですけれど、他の色の魔術に関する授業も受講できますよ。これを機会に、青の魔術を納めてもいいと思いますし」
「聞く限りではどの寮に入っても同じような授業が受けられるようだが――なら、なんでわざわざ寮が分かれているんだ」
それは、とサファイアは頬を掻いた。
「管理の都合とか、学園出身者の派閥とか……そういう事情があるようでして。私も得意なのはどちらかというと緑の魔術なんですけど、シーア先生の推薦だったのでデザイアになりましたし。ある程度は適正とかも見て決めてはいるようです」
サファイアが頁に指を掛けつつ顔を覗き込んでくる。
「それで、寮ごとに授業の時間割も決まっているんです。そうしないと人気の授業に人が集まりすぎたり、必修科目がおろそかになったりしますから」
指先が踊るようにめくった頁の先に、沢山の四角形が並んでいる。半分ほどの四角が文字で埋まっていた。
「これが、具体的な時間割の例ですね。午前中は決められた必修科目、午後は好きな選択科目を履修。一日だけ授業を入れずに休日や自己鍛錬の日にする人が多いそうです」
「必修はともかく、選択科目はどの程度受講する必要がある? たとえば全く受講しないということはできないんだろう?」
学園に入るのはあくまでも身を隠すためだ。出来ることならそういった面倒なことは避けたかった。
「卒業に必要な単位があるので、必修科目だけでは単位不足です。さらに、季節が一周する間の取得単位が10を切っていると退学勧告を受けるそうです」
「退学は困るな。シーア――シーア先生から何を言われるか分からん」
それなりにきちんとした学生生活を送らないと、それはそれで悪目立ちしてしまうかもしれない。指輪の力が完全に回復するまでどれほどの時間がかかるかは分からないが、学園での生活はある程度長期になると覚悟しておいた方がよさそうだった。
「とりあえずは、サファイアと同じ時間割で行動したいところだな。可能だろうか」
「ええと……私もまだ基礎課程なので、大体の授業はアンジェラさんも受講できると思います。でも、いいいんですか? アンジェラさんだってやりたいことが……」
「大した目標もない。そんなものより、サファイアと一緒に行動したい」
「え――」
大きな瞳が二三度瞬き、そのまま見開かれた。
しまった、なにを言っている、と私は自分を叱咤する。わざわざ魔術学園に途中編入しているというのに、そこで目標がないなどといっても不審がられるだけだ。目立ちたくないがために消極的な言動をしてしまっている。
せっかく魔術を学びなおす機会なのだから、より強力な魔術を行使するための勉強をしてもいいと思うべきだろうか。
「ああ、別に目標がないわけではないが、勝手がわからないうちはサファイアと――」
「わ、わたしもっ」
慌てて取り繕おうとすると、深海色の瞳が水面のような輝きと揺れのなかで私の顔を真っ直ぐ見つめてくる。
「アンジェラさんと一緒に授業を受けられたらなって思います。むしろ大歓迎です!」
「そ――そうか」
いまだかつて浴びせられたことのない直線的な好意を受けて、アンジェロ・マギーリともあろうものが、小娘一人に身じろいだ。どうも、このサファイアという少女は私の知っている人間とは少々違っている。一つ一つの言動が新鮮で、どう対処すればよいのか分からなくなってしまう。
ぱっと身を翻して、サファイアがベッドの下から1枚の羊皮紙を引きずり出す。寄越された彼女の時間割に眼を通すと、自由時間も多めにとられていて、それほど窮屈ではなさそうだ。
「今日の午後は授業を入れていないので、アンジェラさんとずっと一緒にいられますよ。学園の中の案内とかもしたいですし」
「学園の中は、早めに一度回っておきたい。何がどこにあるかを把握しておきたいからな」
「じゃあ、軽くお散歩に行きましょう」
万が一正体が発覚したときのためとは知らないサファイアは、私が閉じて渡した本をしまう。くぅ、と妙な音がどこかから響く。
発生源らしいサファイアの腹部辺りに視線をやると、頬を染めて恥ずかしさを笑みで誤魔化したサファイアが腹部を両手で隠しながら言った。
「……まず、食堂からじゃダメでしょうか」
次回、5月31日に投稿予定