第八話 初授業
これだけは先に書いておきます。
『この作品に精神的BLはありません』。
以上。
「どうでしょう」
「窮屈さはあるが、まあ、自分で着けるよりは遥かに座りがいい」
翌朝。私はサファイアに教えを乞うていた。
それは、シーアに言われたような平民としての知恵ではなく、女としての技術。ブラジャーの付け方だ。
前面に胸部を包む硬いワイヤーの入った布地、肩ひもと背中の紐のついた物体は装備したことがない。自分で試行錯誤してみたが、胸を持ち上げるようにしながら背中を紐を結ぶというのは存外難しいものだった。どうもきつく、もしくは緩くなってしまい、餅は餅屋とサファイアに背中をあずけた次第だ。
前面にはやはり圧迫感がありカップの部分の端から肉がはみ出そうだった。窮屈ながらもそういうものかと思ってサファイアに向き直ると、彼女も同じところに眼をやって恥ずかしげに頬を染める。
「どうした」
「その、なんていうか、私用だから、サイズが……」
受注生産ではないため大雑把に三つほどのサイズに分かれるそうで、サファイアのブラジャーは最も小さいものらしい。私くらいの大きさだと中から大の間というから、なるほど圧迫感があるのは道理だった。
息をするのが苦しいというほどではないし、服に擦れて痛みのあった部分は隠れている。借り物に文句を言うほど狭量でもない。
「あとで、アンジェラさんに合うサイズのを買いに行きましょう」
「いつまでも借りているというのは悪いからな」
脂肪同士が無理に押しこまれているため、谷間のあたりが暑苦しい。少しでもマシにならないかと試行錯誤していると、サファイアが頬どころか耳までを朱色に染めて制服を押し付けてきた。
「あ、アンジェラさん、早く着替えてくださいっ」
「おっと、すまない」
夜は始めに来ていた白いローブで過ごしたが、早朝には張りのある制服が部屋の前に置かれていた。
「今日の初めの授業はデザイア寮の必修科目――シーア先生の授業ですね」
「どうなんだ、内容は」
昨日いっぱいで得たシーアのイメージから、煙管を揺らしながら教卓の上で昼寝でもしているのが楽に想像できた。
「基礎課程ですから、簡単ですよ。青の専門課程になると色々と危ないこともしているそうですけど……」
「せいぜい眠らないように注意しようか」
今更基礎を学ぶなど、と思うが、時間つぶし程度にはなるはずだ。青の魔術にはあまり触れたことがないので、そのあたりには期待できるかもしれない。
廊下を抜け、庭を進んで城の中庭に出る。サファイアは城の中に続く廊下を選び、おそらく城の中央に当たると思われる広間に出た。そこからは幾本もの階段や廊下が伸びており、往来する人間たちでごった返している。流れを形成する一粒となった私達は階段を上がり、架け橋を渡って尖塔の一つにたどり着く。
サファイアから借りた藁半紙と万年筆を持って連れていかれたのは、大きな円形の部屋だ。てっきりシーアの研究室のような雑多な場所かと思いきや、教室というのはつまり講堂のことだった。
円形の広間の中央に教師用の机があり、それを囲むように半円を作って椅子が置いてある。格子の入った窓には高級品のはずの透明なガラスが埋め込まれて、外の光を漏らさず室内へと透かしている。サファイアが教室の端の書棚から二冊の本を引っ張り出し、私に手渡す。
「これが教科書です」
平民一人ずつに配るより、共同で使えという方針なのだろう。端が擦り切れてはいるが、丁寧に扱われていると知れる痛み方をしていた。それを小脇に抱えて見ると、教室は前後で集団が分かれている。前方に貴族、後方に平民という集団だ。
サファイアに先導されて、教室の最後列に腰を下ろす。集団の中でも二三人ずつにわかれ、雑談の花が咲いている。
「この授業の生徒は大体何人くらいいるんだ?」
「教室の七割という感じですから、三十人ほどでしょうか」
ざっと見まわしてもエミリオの姿はない。ここにいるのは、デザイア寮の生徒だけのようだ。使っている魔術から推察すると、エミリオはスライ寮の気がする。
昨日のことを彼がどう思っているかは分からないが、私もどんな顔をしてあえばよいか分からない。中途半端な結果で決闘が終わってしまい、わだかまりのようなものは残っている。ただ、全力で戦ったことによる一種の満足感もある。私は心のどこかであの貴族然とした少年を認めてしまっているのかもしれない。勝ってはいないが負けてもいない、という状況は相手を認めつつ自分が劣るわけでもないと自負を保つことが出来ている。
誰かの視線を感じて周囲を見回すと、私の視線の先で皆が眼をそむける。要するに、クラス中から横目で見られているのだ。転入生に対する好奇というより、どう触ればよいのか分からない腫物をみる目つきだった。
言いたいことがあれば言えばいいと私は思うが、あれだけシーアに釘を刺されたあとでは詰め寄るのも憚られる。気分は良くないが、直接的に危害を加えられるわけではないので無視するしかない。
「なんか、みんなから視線を感じません?」
「気にするな。用があったら話しかけてくればいい」
小声で不安げに囁いてくるサファイアに、これ見よがしにため息をついた。それだけで周囲の人間がざわつきを見せるのだから、恐れられたものだ。
手持無沙汰に教科書を捲ると、妙に挿絵が多いことに気付いた。文字がほとんどない頁もある。魔術というのは口述のみで習得することは難しく、何事も実践が必要だ。そういったことを反映しているのだろうか。
「絵がいっぱいあるから、字が読めなくても大丈夫ですよ」
「そういう理由か」
言われてみれば、教養として修める貴族はともかく、平民出身の生徒は文盲がいてもおかしくはない。ポケットで八つ折になった紙を引き出して時間割を見ると、サファイアの履修科目には読み書きの授業がある。
そもそも文盲で履修が出来るのかと思うが、サファイアいわく大半の生徒が簡単な文字の羅列ならどうにか読み解くことが出来るそうだ。
「アンジェラさん、字は読めます?」
「教養として、程度だな。詩や文を書いたりはしないが」
抑えて言っても、またサファイアはあの尊敬する様な視線を向けてくる。好意はともかく、謂れのない欽慕の念は逆に尻の座りが悪くなる。
目と違って耳には外部からの情報を遮断する手段がない。周りからの声は、嫌が応にも入ってくる。容姿だの、雰囲気だの、能力だの、そこから推測される私の人格だの。そんなものは一回話しかければ済むことだろうに。
「あの、みんな、転入生が珍しいだけですから。いまだけですよ」
私の憤懣を感じ取ったサファイアがなだめてくれたおかげで、どうにか近くの生徒の首根っこを捕まえてこちらから話しかけてやることはなかった。もしもシーアが教室に入ってくるのがもう少し遅かったら、どうなっていたかはわからないが。
「はい、お前ら。シーア大先生の有難い授業が始まるぞ。耳の穴に剣ぶっ刺して穴開けてでも聞き洩らすなよ」
まずは声が空中からこぼれ出た。全員の視線が教壇に集まるが、そこにシーアの姿はない。マナの流れを背後から感じて視線を投げると、壁に背を付けた体勢で、褐色の肌に浮き上がるような白のローブを纏ったシーアが煙管を吸っていた。一拍遅れて他の生徒たちもそれに気づき、驚きの吐息が漏れる。
「幻術は青の専売特許だ。そこにあるモノがすべてと思うな。お前らの目に見えるモノの数千倍の情報がこの世界には溢れている」
含蓄めいたことを言いながら、机の間を縫って教壇に進み出る。何もない教壇の上で手をかざすと、ふっと教本が浮かび上がった。その場にあるものを認識できなくする魔術が掛けられていたようだ。
「青の魔術は幻術だけじゃあない。知識を蓄えて保存する術式や、相手の考えていることを読み取る術式もある。物理的な現象においては水や氷といったものの操作を得意とし、その関連で温度すら操ることが出来る」
教壇にたどり着いたシーアが、ゆっくりと煙交じりの息を吐いた。もう一度煙管を口に付けると、一筆書きで描けるほど簡単な魔術陣が煙管の先に灯る。
ふ、と口から出た息は、今度は煙ではなく、真球の泡粒の連なりとなる。初歩的な魔術だが、予想外のタイミングでの実演に教室内が湧く。風のない教室内を漂い生徒たちの鼻先にとんだ大粒の泡が、次々と弾けていく。
「水と同じくらい、魔術というのは変幻自在だ。何が出来るのかをすべて知り尽くした奴なんていない。だからこそ、学園はお前らみたいな将来有望な連中を集めて教育を施している。それが理解出来たら、教科書12頁」
唐突に言われ、言葉と仕草でシーアに眼を奪われていた生徒たちが我に返って教科書を捲る。流れる様な授業の導入には感心するばかりだ。
「先日までに、青の魔術陣の基本たる三角形の指示式は教えたはずだ。マナの生成と物質化は出来るものとして進めていくぞ。12頁の魔術陣だが、これは基本形たる液体の水を生成し球体として維持する魔術だ。基本量から大きくすることも小さくすることも出来ないため、それを為すには何本かの補助式によるマナの誘導が必要で……」
魔術陣を拡大し、シーアが解説を進めていく。しばらくの間、彼女の良く通る声と紙を万年筆の先が滑る音だけが響いている。
サファイアが言っていたように、内容としてはごく基本的なもので、青に限らずすべての魔術を行使するうえでの根幹のようなものだ。一ケタの数字同士を足すのと同じで、一々理論を形成しなくても頭の中に回答が入力されている。
ただ、シーアの話は現象の実体化を踏み越えて制御技術まで話を取り入れているため、単なる慣例的な基礎固めというよりも上級魔術への足掛かりを作っているような形だ。ここできちんと先を見た理論構築が出来ていれば、少しばかり高度な術式を求められても応用でこなせるはずだ。
生徒たちもそれを感じているのか、次々と構造を変化させるシーアの魔術陣の書き取りに余念がない。おかげで私も、あの纏わりつくような視線を感じずに周囲を観察することが出来る。
貴族と平民では、制服だけでなく紙やペンにまで差がある。平民の使っているものは皆同じ飾り気のない無個性なもので、支給品だとわかる。手元の紙に走らせると、引っかかったり均等にインクが出なかったりと粗製であることが知れた。
個性のない制服と支給品にまみれた平民は、集団として個々が埋没してしまっている。それに対して貴族は皆華やかだ。アクセサリーや髪の結い方、制服の細かい改造で彩られている。
ただ、それも数秒見れば慣れる程度のものでしかない。結局のところは、目を見張るように突出した者などそういないということか。
立ち居振る舞いだけで周囲を圧倒し場の中心となっていた兄たちを思い出し、万年筆を握る手に力を込める。彼らから見れば、私はまさしく有象無象程度でしかなかった。
私は今、最後尾に座って彼らを観察している。しかし、さらに後ろから私を観察する者がいたなら、私程度はこの集団の中にやはり埋没してしまうのではないだろうか。それもまた、私が私でいられなくなるということだ。
「よし、残りの時間は実践だ。一人ひとり試験をする。直径が私の煙管と同じ水球を作り出すことが出来れば本日は終了。各自練習したのち、自信のある者から来い」
心を曇らせる過去をかき交ぜて、シーアの言葉が横から飛び込んでくる。教壇を触れずに動かして空間をつくっていた。
訓練された兵士のように――もしくは生誕日のプレゼントを開けるのを待ちわびていた子供のように、一斉に万年筆を置いてそれぞれの獲物を取り出す。
「アンジェラさん、私の魔術、見てくれませんか?」
サファイアが腰から樫を削った短い杖を抜いた。熱心に書き込まれた魔術陣の写しを見て、理解が正しいことを確認した私は頷いた。
「いきます」
ゆっくりと力強く、杖の先に光の線が描かれていく。まず浮かび上がるのは三角形。重要なのは大きさではなく角度だ。完全な正三角形で、マナは不純物のない水を具現化する。
さらに三角形を囲むように逆三角形を作る三本の線が走り、その構造を固めていく。指示式が拡散しようとする水の方向性を内部に押しとどめ、何本もの補助線が中心への引力を均等にそろえていく。そのままでは床に落ちて散らばってしまおうとする水を、空中に浮かせながら加工していた。
「こっち、あ、もう少し奥……」
青い瞳を見開いて杖を握りしめ、目の前でゆっくりと回る水の球体を操作するサファイア。調整のために細かい線が引かれていき魔術陣が複雑化していくが、やがて固定化の線が引かれ、魔術が確定する。
「よし、これで」
私とサファイアの間に浮かぶ、透明な球体。一見水晶玉にも見えるが、ゆっくりと表面が波打っていることで球形の液体だとわかる。目測だが、直径はシーアの煙管とほぼ同等。よほど厳しくなければ合格点だろう。
「いいんじゃないか。とっとと出るぞ」
お手並み拝見とばかりに横目を向けてくる生徒たちの視線が煩わしい。早くこの場を出たいと思うが、杖を振って球体を掻き消したサファイアに袖を引かれる。
「駄目ですよ。貴族の方が全員終わるまでは、私たちがテストを受けるわけにいけません」
「貴族よりも先に課題を終えることはならん、ということか……」
簡単な課題だ。それほど時間はかからないだろう。手持ち無沙汰に机に顎を付けて嘆息する。
頭上が陰った。視線を上げると、栗色の髪の男子生徒が一つ前の座席に横座りになっている。
「よう、あんた、編入生だろ。あのシュタツハルトとやりあったっていう」
「何か用か」
今の私やサファイアと同じくらいの年ごろの少年だ。興味がないと視線で伝えるが、返答を受けたことで十分なのか、子供と大人の中間の凛々しさの中に愛嬌のある顔が唇を割って笑みを見せる。
「貴族に喧嘩を売る平民の女の子っていうから、どんな怪物かと思ってな。ところがどっこい、普通の女の子じゃないか」
「愚弄する気なら、斬るぞ」
出会った時のエミリオとは違い、少年の笑みの中に私を見下すものはなかった。くぎを刺す程度のつもりで言ったが、私の動向を見っている周囲の生徒が息をのむ。
例外は、眼前の少年だけだった。
「こえーな。でも、俺もただで斬られる気はないぜ」
その言葉には、自信が籠められている。すこし興味を持って、相手の姿を見直した。ネクタイを締めない首元を緩めた、着崩した平民用の制服。椅子の背を掴む指は節が目立ち、日常的に剣を握っている者の特徴がある。ベルトに佩いた長剣の柄にも使い込んだ跡がある。
「剣を使うのか」
「一応、騎士志望だからな」
「なら、こんなところで現を抜かしていないで剣の鍛錬でもしていろ」
「剣技だけで騎士になれるほど、世の中甘くないんだよ。学園はいわば下積みってとこさ。今時、剣だけじゃ地方の兵士がせいぜいだが、魔法が使えれば貴族お抱えの騎士団や王立の騎士団にも入り込める。実際に俺の従姉弟の兄さんはそうやって騎士になったんだ」
騎士と呼ばれる職業は、街の警邏を行うような兵士とは違い、訓練の行き届いた常駐兵力として常に鍛錬を行い戦争に備える、いわば職業軍人だ。腕自慢が食い扶持を稼ぐために勤めるような街の一般兵士とは格が違う。剣技だけでなく教養や礼儀を備え、身元の保証された者だけがその職に就くことが出来る。
下級貴族ならば多くても護衛に数人といったところだが、侯爵となれば百人からなる精鋭、王侯ともなれば私兵として抱える騎士の数は五百を超える。それとは別に王立騎士団があり、こちらは国庫から一定の金銭を支給され国内の大事や他国との戦争に備えている。下級貴族付きの騎士程度なら地方の魔物討伐で名を上げた者が拾われることも多いが、上流の騎士となるには下級貴族の子弟や王立の学園出身といった出自がなければ能力以前の問題で弾かれる。
結果として本当に実力のある者よりも名前だけの貴族の方が高名な騎士団に所属しているという実態は、振り返ってみればなんとも下らない。軍事力としての存在意義より、名前の方に重点が置かれてしまっている。
「平民から騎士に上がったのなら、優秀だな」
いまとなっては袂を分けた世界の話だ。だから、ただの感想として私は言葉を漏らす。騎士団を構成するほどの大所帯を抱えているなら、主はそれなりの貴族のはずだ。平民の出自で貴族の目に留まるというのは、それなりの名声がなければ成し得ないことだった。
「ああ。俺の自慢の兄さんだった」
だった、という過去形と、口調の寂しさに、その人物がすでに亡き人間だと悟らされる。だが、唐突に言われてもなんの感想も浮かばなかった。
「……そうか」
「ああ、身内話には興味ないよな。わるい」
私の簡素な返答に、少年は話題を転換した。
「いきなり妙な話をしてわるかったな。――俺はアルフレッド・ダンヴァーズだ」
「アンジェラ・ヴェレレン」
握手を求められ、手を差し出す。指先が触れあい、大きな掌に触れる。
「――っ」
「どうした?」
何でもない、と平静を装う。だが、背中に嫌な汗をかいていた。
力強い男の手。それが触れた瞬間、言いようのない嫌悪感が背中を駆け抜けたのだ。脳裏に閃光のように一瞬で駆け抜けるのは、私が女になった夜のこと。目の前の少年とは似ても似つかない夜盗の野太い声と獣臭が鼻孔に張り付いている。
私という存在が蹂躙されかけたことが、それほど身体に残っているのだろうか。蟲を素手で握りつぶすような生理的嫌悪感を噛み潰して、軽い握手を交わす。
「それで、いきなり声を掛けた理由だが、あんたとは仲良くしたいと思っててな」
幸い、アルフレッドには悟られなかったようだ。うっすらと汗をかいた掌を握って隠す。
「騎士になるには、剣術も魔術も一定の力量が必要だ。あんたと鍛錬すれば、少しは俺もマシになれるんじゃないかと思うんだよ」
「稽古をつけてほしいと?」
「胸を借りるって意味もあるが、自惚れでなく、俺もそれなりだと思ってるからな。お互いに技術を磨くってのは悪い話じゃないだろ」
「興味はないな」
剣術にしても魔術にしても、腕を上げる必要性は感じている。指輪の力を失った分の補填や取り戻したときに復讐を果たすためだ。しかし、一生徒でしかない少年との鍛錬で得られるものなどない。せいぜい剣の勘を鈍らせない程度だろう。
「師も友も、私より向いた者など学園にはいくらでもいるはずだ。そちらをあたってくれ」
「平民で貴族と対等に戦える奴なんて、生徒の中にはそういないって」
「対等に戦っただけで、勝ってはいない。生徒でなくても、教師にはいくらでも実力者はいる」
「そうかもしれないけど……なんていうか、腕だけでなくて、色々と見習いたいところはあるんだよ」
「私の何を知っているつもりだ」
引き下がらない相手に呆れたように嘆息すると、アルフレッドは恥ずかしげに声を落として言った。
「あの試合、俺も見てたんだ。なんか、戦ってるアンジェラをみたら、カッコいいっつーか、俺もこんな風に戦えたらなと思ったりしてさ」
思わぬ返答に、私は口の端を上げて肩をすくめる。
「あの無様な戦いを、か。ああやって手も足も出ずに弄られるのが趣味か?」
私自身への皮肉も込めた言葉だが、アルフレッドはまるで己が愚弄されたかのように拳を作って頬を染めた。
「でも、最後はあと一息のところまで追いつめてただろ。剣の腕だけなら、むしろ圧倒してた」
「勝ち切れていない時点で負けに等しい。結局、得たものはない」
つまらなそうに吐き捨てると、ようやくアルフレッドも引き下がった。身体に込めた力を抜いて、あきれたような視線を向けてくる。
「ひねくれ者だな。普通は少しくらい得意になったりしないか?」
「あの程度の相手に、あの程度の戦いしかできない。それが誇れるほどのものか」
「自信があるんだか無いんだか分からない奴だな」
何が面白いのか、くくと喉を鳴らし、アルフレッドは腰を上げる。
「いつも夕方に寮の前の庭で剣を振ってる。気になったら声を掛けてくれよ」
「気になったらな」
気のない返事だが、満足げにアルフレッドは手を振って去っていく。会話が何事もなく終わったことで、周囲の生徒たちがそれぞれ嘆息するのが聞こえた。
私にとっては意味のない会話だったが、つまらない奴だと思ってもらえれば好奇の視線も減るだろう。それに貴族と戦ったことを誇らしげに語れば、無駄に敵を増やすことにもなりかねない。
ふっと息をつくと、気遣うような小声でサファイアが問いかけてくる。
「大丈夫ですか?」
「なにがだ」
「アルフさんと握手する時、少し嫌そうな顔をしてませんでした?」
鋭い観察力に意表を突かれて、作ったままの拳を思わず強く握りしめる。そこに驚愕を隠して、さぁな、と一言で誤魔化した。
「もしかして、男の人が苦手だったりします?」
「男だの女だのだけで、苦手も得意もあるか」
不機嫌な声を作ると、サファイアは目を伏せた。
「すみません。私は、男の人としゃべる時にいつも緊張してしまうんです。もしかしたらアンジェラさんもって。……そういえば、アンジェラさんはアルフさんと普通に話してましたもんね」
「あちらが話しかけてきたのに合わせただけだがな。あの少年、何者だ?」
悪い人間とは思わなかった。しかし、何の目的があって私に近づいてきたのか。ただ稽古の相手を探しているにしては、ずいぶんと食い下がられた気がする。
「うーん、私もあまり話したことはないんですけど。でも、悪い人じゃないですよ」
サファイアの感想も、私と同じものだ。現状、何らかの害意をもって接してきたわけではなさそうだというだけでも十分とするべきか。
アルフレッドの姿を探すと、シーアの前で試験を受けているところだった。すでに貴族連中の番は終わっているらしい。剣の先に危なげなく水球を作り出すアルフレッドにシーアが合格を告げていた。
剣を収めて教室を後にするアルフレッドの黒い瞳と視線が交わった気がするが、それを確認する前に、少年の顔は扉の外に消えていた。
次回、6月12日に更新予定です。




