心に涙、臓に弔花
※この話は実際の話も交えて書いていますが、本当に実行していいことではありませんので実行しないでください。
※あくまでも現代において色々な意味で実行してはいけないことなので、本編はパラレル日本だと思ってください。
※前提として、本編世界では脳には行動的記憶が、心臓には感情的記憶が宿るなどといった哲学的なことがうっすらと浸透しています。博学な人は知っている、というような感じです。
恋人が死んだ。
元々余命宣告を受けていて、ここ数ヵ月はベッドの住人だった。最後の方には私の指すらも握ることが出来なくなって、ゆっくりゆっくりと彼は動くことが不可能になった。
それでも死に顔はとても安らかで、まるでこの世の全てを愛しているかのような、その世の中に含まれている私の存在だけを忘れてしまったかのような柔い笑顔を浮かべていた。私はその笑みを見ないようにおそるおそる、彼が好きだったシオンを供花として棺桶の中に入れた。
彼は一度も、私に笑いかけてはくれなかった。
『心に涙、臓に弔花』
私と彼には親がいなかった。彼は生まれたときから、私は小学生の頃に亡くした。私と彼は中学生からの付き合いで、あの頃はお互いについた傷を癒すかのようにいつも一緒にいた。
そんな私達だったから友人関係が恋人関係に発展するのは自然で、何の障害もなく関係を変化させることが出来たのだろう。友人という記号が、恋人という記号に変わっただけ。二人で過ごす時間の前には、さほど大きな変化ではなかった。
『ゆか、哀しいことはもう無いかい?』
『無いよ、何言ってるの。もう大学生だよ?』
彼の前ではどんなに虚勢を張っても見透かされていて、苦い思いをしていたことを思い出す。
私たちの間に、愛の言葉は存在しなかった。手を握るだけでお互いの言いたいことが何となく分かっていたからだ。それでも、今になって言葉にしなかったことを、彼の言葉を聞かなかったことをとても悔やんでいる。友人としての彼をよく知っているのに、恋人としての彼を何一つ知らないでいたから。
だからいま、こんなに戸惑っているのだろう。
「林さん、佐野さんからの遺言状が見つかりました。こちらを御覧頂けないでしょうか」
「…え?」
弁護士の方から差し出された見慣れない真っ白い紙に、彼の几帳面な文字が浮かんでいる。
そこには“僕の心臓を食べて欲しい”、ただそれだけが書いてあった。
◆
葬式が終わった今、私は胃痛がしそうなほど緊張した面持ちで病院にいる。
彼は前々から死後の自分の心臓を私に食して貰うように手配をしていたらしい。正直に言って、彼が何故こんなことをしたのかは分からない。
普通なら恋人に心臓を食べて貰おうだなんて考え付かないだろう。食べる方にはグロテスクすぎて勇気がいるし、見るだけで吐いてしまいそうだ。私はすでに泣いてしまいそうになっている。
彼はとりわけ精神的に病んでいたわけではなく、むしろそちらは頑丈ですらあり、私が数年に一度癇癪を起こした際には黙って私に叩かれたまま、私が落ち着いたそのときには優しく抱擁してくれさえもした。私は心身ともに彼に助けられていたのだ。
そんな彼が何故、私に“心臓”を託したのか。
きっと、私には分かりはしない。
「林由佳子さんですね。佐野真澄さんから承っております」
「…はい」
「この状態ではあまり長く保ちませんので、お早く冷却するなどで状態を維持させてください。そして忘れないように。佐野さんが林さんに贈られたのは、佐野さんにとって大切なものです」
表立って受け取ることは出来ないので、看護師さんに病院の裏口に近い談話室に通され、彼の主治医をしていた医師にソレを渡される。
彼にとって大切なもの、それはどういう意味だったのだろう。
小さな容器に入れられた彼の心臓は、布や紙に包まれていて見ることが出来ない。私の両手で抱えられる、温度のない冷たいもの。何となくぼんやりとソレを眺める。手から伝わる感触が、彼が死んでしまったことを私に印象づけている気がした。
『ねぇ、何でシオンの花が好きなの?』
『急にどうしたの。ゆか、いつもは聞かないじゃないか』
『な、何となくだよ…ねぇ、何で?』
『それはね、僕の…うーん、やっぱり秘密』
そういってくしゃりと笑う彼。それ以来ずっと、何故だか聞くことが出来なかった。あのとき、無理にでも聞いていればよかったと今では思う。彼に残されたものは何一つ残っていないから、それくらい聞いておけばよかった。
結婚の約束も、愛してるも、指輪も、子供も貰っていない。
私の手元にあるのは、彼の心臓ただひとつ。
◆
彼の心臓を食べるにあたって、自分では調理をすることが出来ないということに気づいた。というのも、彼の主治医だった医師が渡した封筒の中に同封された資料を見た瞬間に思い至ったことだった。
封筒の中に入っていたのは、食材を持ち込んで調理してくれるレストランの地図だ。予約も支払いも前もって彼がしていたらしい。何処までも抜け目がないところは、学生時代の頃から変わりがない。
車に乗ってすぐ開封したので、このまま帰宅せずそのレストランに向かうことにした。私の家に彼の心臓を置いたのでは、いつまで経っても遺言に従う気にはなれないことがわかっていた。
『ねぇ、ゆか。もし僕が死んだら喪中にはエリック・サティのグノシエンヌ第一番を延々と聴いていてくれないかな』
『なに、いきなり。不吉なこと言うのやめてよね…グノシエンヌ第一番って、何か怪しいような、探偵ものに出てきそうなやつだっけ?』
『そう、そう。ゆかはグノシエンヌ第一番をそう呼んでいたね』
『だって、怪しいじゃない。どうせ私には音楽の感性なんてないもん…なんでそれなの?』
『あるドラマでね、別れの曲には相応しいって言ってたから。僕もそうだと思ってね』
『…絶対流さない。ジャン・ポール・マルティーニの愛の喜びはを車の中で、しかも大音量で聴いてやるから』
『ははは!これはこれは!』
僕はとても愛されているね、そうポツリと溢した言葉がやけに耳についた。何気なく交わした言葉だったはずなのに未だに覚えていた私は、あの日彼が持っていたCDの中の一枚を車の中で流していた。
エリック・サティのグノシエンヌ第一番。
こうやって延々とグノシエンヌ第一番だけを聴いていると、あのときの彼の言葉の意味が、何となく理解出来る。
彼は言葉を使わない。だけど彼は、確実に私を包んでくれていた。
地図を頼りに町外れにあるこじんまりとした二階建ての、少し大きなウッドハウスへと辿り着く。
「林由佳子様ですね。佐野真澄様からご予約を承っております」
病院でも聞いたような言葉をぼんやりとした頭で聞き流す。彼が死んでから、もうずっとぼんやりしている気がする。
何を見ても、聞いても、食べても、全てに色がないように思えて、世界がつまらないような気さえする。私が生きていた世界はこんなものだったろうか。分からない。何も、分からない。
「当店では、たまにこういった予約を入れる方が居られるんです。残された方に最後のプレゼントとして。調理する方はたまったもんじゃないですけれどね」
「…ええ」
「他県では亡くなった方の骨を親族で食してその方を愛しんで惜しむという風習があるそうで、葬儀後なんかに当店の二階を貸し切って二次会のようなものを開かれてしまったりというのはよくあることなんですよ。お客様がただ人肉食癖があって、などと言うなら私どもはお断りするのですが、何分死者を尊ぶと言われたら話はかわりますので」
「…そうですか」
「はい。本当は、特に佐野様のご予約のようなことは行わないと決めていたのですが、佐野様の熱意に負けてしまいました。今回だけ、今回だけです」
それから私は半ば貸切状態のレストランの二階へと通された。
ここでもグノシエンヌ第一番が流れていた。
◆
目の前に、上品な皿の上に乗った彼の心臓には見えない肉の塊が置かれる。きっと彼がそうして欲しいと頼んだのだろう。心臓の形をしていたら、私が食べないだろうことを見越して。
お皿を置いてくださったオーナーさんは私に微笑みかけると、音をたてないように一階へ通じる階段を降りていった。
瞼を閉じる。
私の頭の中では、雨が降っていた。しとしと、しとしと。絶え間なく続く雨。
もう私に、あの雨の中で傘を差し出してくれる彼はいない。
彼は先に帰ってしまった。
『ゆか、ゆか。大丈夫だよ、由佳子。お前を傷つけるものは僕が全部食べたよ』
『…るさい、うるさい!わた、わたしは、私は!ちがう、違うっ!不幸なんかじゃない要らない子じゃない!ますみくんが、ますみが必要って言ってくれた!違うもんっ、違う!』
『うん、うん。ゆかはいい子。僕の大事な由佳子。ゆかはあの人たちとは違うよ。僕がうんと大事にするからね。ほら、おいで。安心おし。僕がずっと抱き締めてあげる』
『ますみぃ…っ』
左手でフォークを、右手でナイフを持つ。金細工のそれを持つ両手が震える。これで私は、彼とさよならをしなければならない。肺から喉へと、何かが競り上がってくる感覚がする。
『…ゆか』
『なあに』
『退院したら渡したいものがあったんだ』
『何で過去形なのよ』
『どうやらねぇ、場所を忘れてしまって。僕ってばうっかりさんだなぁ』
『ほんとよ…早く、退院すれば忘れたって探せるじゃない。退院、しようよ…』
『そうだねぇ…ゆか、実は僕サティのCDを二枚持っていてね』
『だから不吉なことを言うのはやめてって、』
『もう一枚のCDはある場所に置いてあるんだ。僕が病院から出てしまったら、一緒に取りに行ってくれないかい?』
『…わかった』
肉にフォークを刺し、ナイフを入れて一口大に切る。
これを口の中に入れないといけない、それが彼の最後の願いだ。そう考えるともう駄目だった。
ずっと堪えていたものが、喉の奥からひくり、と沸き上がる。それを無理矢理押し込めるかのように彼の肉を口にする。
「うっ…ん、」
吐き出してしまいそうな衝動を押さえるために、グラスの水を一気に煽る。ごくり、ごくり。少しずつ時間をかけて、その肉を喉に押し込める。
『ゆか、シオンというのはね』
ごくり。最後の水を飲み終えた途端、何故だか彼の声が聞こえてくるかのようだった。
久し振りの彼の声。ぼんやりとしていた視界に色が付いていく。また一口大に切った彼の心臓を食べる。全身の血が沸騰しているかのように熱い。
『シオンは君の誕生花なんだよ。君は興味ないだろうけれどね。何処にいても、僕はきっとずっと君を愛しているとも』
『ゆかの為に口調を変えたのを知っているかな。あの頃の僕の口調は君をいじめる彼らの口調と同じだったから、これでも心配していたんだ』
「っ、ま、ますみくん…、」
もう居ないはずの彼の声が脳裏に響く。色の戻った世界が、また涙でボヤけていく。
彼が居なくなって初めて流した涙だった。
『愛の喜びはを本当に流すつもりなのかなぁ。まあそこも可愛いけれど』
『本当はね、指輪は作ってあるんだ。だけど僕は恥ずかしがり屋だからね』
『ゆか。ゆかは知っているかな。内臓記憶というものがあるらしい。まあ移植する場合だけどね。それでも僕は君に、一生心を捧げるつもりなんだ。重たいけれどこれが僕の純愛さ。君は僕を忘れていい。幸せになるべき女の子なんだよ』
「なん、なんでますみくん、なんでぇっ」
ポタポタと止めどなく流れる涙。嗚咽が止まらなくなるほどのそれに、カシャン、と持っていた金細工たちを床に落としてしまう。
彼が言葉を使わないことを私は知っていた。彼が実は恥ずかしがり屋であり、ロマンチストであることも。だから私は、彼に手を握ってもらうだけで、二人で手を握り合うだけでよかった。
それが私達だったから。
『ゆかが後追いしそうで怖いなぁ。僕は死んだら、君の子供を上から眺めるって決めているんだけれど』
『指が動かない…手を握って安心させてあげられない。初めて不安になった。彼女は大丈夫だろうか』
「帰ってきてよぉっ、わたしまだ、ここにいるもんっ!」
涙でどろどろになった顔をぐしゃぐしゃに歪めて、両手でその顔を隠す。私はまだ、ここにいる。彼はもうここにはいない。手を握ってくれる人は還ってしまった。
その事実を認めてしまいたくなかった。
だって私は、彼に。
彼に置いていかないで、なんて聞き分けのないことを言えやしなかったのだから。
『初めて死ぬのが怖くなった。彼女をおいて逝くのが。ゆか、僕は怖いよ。離れたくない』
『最後まで愛してると言えなかった。ゆか、来世は僕が君を幸せにすると誓うから。どうか、』
「ばかばかばかばか!ぉ、おい、おいていかないでぇっ私、ます、みじゃないと、し、しあわせになれないよぉっ、うぇ、っ、なんでぇっ」
『幸せになって』
そうして私は、静かなそこで延々と泣き続けた。
◆
泣き終わった私が一階に降りてオーナーさんに会いに行くと、オーナーさんは真澄くんから受け取っていたらしい小さな小箱と手紙、そして見慣れたエリック・サティのCDを渡してくださった。
小箱と手紙の中身を見てまた私が号泣してしまったのは、まあ、当たり前だろう。
真澄くんは馬鹿だ。確かに私と一緒に探したことになるんだろうな。でも全然、全然ロマンチックじゃなかったよ。
心の中で今はもう居ない彼にダメ出しをする。
明日からの予定はもう決めた。
サティのCDは二枚とも売り払って、私が前に真澄くんから貰ったCDに収録されている“愛の喜びは”を大音量でかける。そして所持金いっぱいのシオンの花束を作って、小箱の中身を開けて、真澄くんのお墓に行く。
そうして今度は私が、真澄くんを安心させるのだ。
真澄くんが居なくたって私は幸せになれるんだよ、と。
【END】