第八話
リュシリエンヌは理解しざるを得なかった。
リュシリエンヌはリュシーのまがい物だということを。
読み取ったデータのなかで、リュシリエンヌは過去に何体も作られていた。
なぜ何体も作っているのかわからないが、リュシリエンヌは八体目にあたることも分かった。
数本あった水槽の一番古いものが、1体目から九体目を作り、他の水槽は最近導入されたことも分かった。
ジョスランの水槽だけは弄ることができなかったが。
では、リュシリエンヌの前のリュシーと呼ばれた人たちは今どこにいるというのだろう。
屋敷の中には影も形もみることのできない彼女たちは、今どこに。
ふと、この前の散歩での光景を思い出した。
『リュシー』
自分のことを呼んでいるのだとばかり思っていたが、よくよく思い出してみればそれは樹に向かって呟いていたのではないか。
ああ、なるほど。
だから樹を抱きしめるしキスもする。
あの樹の下には彼女たちが眠っているのだろう。
樹の成長の違いはそのまま、彼女たちの眠った年代の違いに違いない。
考えれば考えるほど導き出された答えが正解なのだと思えてしかたない。
気持ち、悪い。
リュシリエンヌは生まれて初めて嘔吐した。
だがそれでもリュシリエンヌはジョスランを愛することをやめられなかった。
彼の傍にいるのは他の誰でもない、今を生きているリュシリエンヌだけだからだ。
リュシリエンヌのそばで医学書をめくる横顔を見ることができるのは、少し困ったように眉を下げて笑う姿が見られるのは、滑らかに、時には大胆に動く指を堪能できるのはリュシリエンヌだけ。
愛おしいのです。
ジョスランが部屋に来るたびに、姿を見るたびに、湧き上がる苦しいほどの愛情をジョスランに向ける。
欲しいのはあなただけ。
だからあなたも私だけを欲しがって。
もっと、もっと。
ああ、ジョスラン……。
触れていた唇を離すと、欲情に煙った瞳とぶつかった。
「リュシー」
ぱしんと頬を殴られたような感覚に陥った。
私はリュシーではないのに。
どうして何度頼んでもリュシリエンヌと呼んでくれないの?
愛を確かめ合う行為の最中で最も呼ばれたくない名をジョスランは必ず口にする。
そのたびにリュシリエンヌは底知れぬ敗北感に襲われる。
ジョスランをどれほど愛していようと彼が見ているのは自分ではなくその先にいるリュシーだった誰かなのだから。
それでも愛すると決意した初めのうちは、耐えようと努力した。
何度も呼ばれる自分であって自分でない名前に憎悪を抱きながら涙を流した。
だがそれも頻度が上がるにつれ、涙を流す程度では流れきれないどす黒い感情がリュシリエンヌの中に蓄積されていくようになった。
ジョスランの顔を見るだけで鼓動が早まり幸福感で満たされたのはいつまでか。
今では幸福感がわきあがると同時に怨嗟の炎が身を包む。
私だけを見て。
私だけを愛して。
どれほど切に願っても、ジョスランは「リュシーだけだよ」と優しくほほ笑むだけ。
もう何回同じやり取りをしたのかわからない。
そのたびに積もっていくおどろおどろしいモノが、さもすれば口から溢れだしてしまいそうだった。
耐えられない。
どれほどジョスランを愛しているか、言葉で、表情で、態度で示しても、彼の愛情はリュシリエンヌの体を通り越して、いもしないリュシーへと向けられる。
私だけを、見て。
甘いひと時を過ごしたジョスランが部屋を去ろうとするその後ろ姿に唱えてみる。
私だけを。
ぱたんと軽やかな音を立てて閉まる扉が憎らしかった。
そして必然的に堤防は決壊する。
こんなことをしても結果は決まっているでしょう?と何度自分自身を思い止まらせようとしたことか。
たしかに分かっている。
なにせ同じ機会を狙って何度も繰り返してきたことなのだから。
それでもリュシリエンヌにはもうこの方法しか残されていないように思えてならなかった。
もう一度だけ。
そう、もう一度だけジョスランにお願をしよう。
私をリュシリエンヌと呼んで。
叶わないと分かっていても願わずにはいられない、呼ぶことが難しくもなんともないありきたりの名を呼んでほしいと、ただそれだけを。
「どうして?前にも言っただろう?リュシーというのは私にしか許されない君の愛称だよ。だからこそ私は本名よりもこの名で君を呼びたいんだよ」
月明りを背にして表情の見えないジョスランが男の割には細長い指をリュシリエンヌの頬に添わしながら諭すように言う。
このまま頬を指に軽く凭れさせようか、それとも笑って「そうね」とつぶやけばいいのか。
どちらもできるわけもなく、リュシリエンヌは声を出さずに涙を流した。
「なぜ泣くの?リュシーにしてもリュシリエンヌにしてもどちらも君のことだろう?どうして愛称で読んだらだめなんだい?……それとも私が愛称で呼んではいけないとでもいうのかい?」
ジョスランにしか許されない愛称を拒否しようものなら、リュシリエンヌは遠まわしにジョスランを愛していないといっているようなもの。
親指のはらで濡れた眦をぬぐい取る力が少しだけ強くなる。
月明りの影に隠れたはずの瞳からは恐ろしいまでの力が矢となってリュシリエンヌに突き刺さる。
ああ、もう。
見ることも、辛い。
リュシリエンヌは覆いかぶさってきた影に目を閉じた。