第四話
あの日を境にジョスランが変わった。
リュシリエンヌの記憶がなくなったことを知ってからのジョスランは紳士に徹していたはずだったが、あの白花の樹の下でリュシリエンヌの心が見えたのだろう、少しずつ、けれどあからさまに触れてくるようになった。
長椅子に座れば、それまでの距離感を一気に詰め、お互いの腰や肩が当たることを当然としたし、始終手に手を重ねるようにもなった。
口に運んだケーキがぽろぽろと零れ落ちた先がスカートの上だろうが摘まむように取り除くし、口元にソースが付いたならば親指の腹で拭い取って舐めとる始末。
どこか触られるたびにそこに熱が集まる。
幸せだと、歓喜に沸き立つ。
だんだんと遠慮のなくなるジョスランに潤んだ瞳を向ける毎日となった。
時折、恐ろしいほどの不安に駆られることもある。
リュシリエンヌにはわかっていた。
ジョスランはリュシリエンヌを愛おしいと言いながら、リュシリエンヌを見ていない。
目覚めてからの『リュシリエンヌ』という意識ではなく、記憶をなくす前の『リュシー』という存在をリュシリエンヌの中に探し出そうとしていることを知らないわけではなかったが、以前はそれほど明確には示さなかった態度が散歩を境にだんだんとあからさまになってきたように思えて仕方がない。
初めは些細なことだった。
患者からもらったよと手渡されたスミレの砂糖漬け。
見たことも食べたこともないそれを、リュシーは大好きだろうと唇の間に押し込まれた。
ざらざらと不愉快な砂糖の食感と強烈な匂いに、好きになれないと首を振ったときの驚きの顔が。
本を読んでいるとき、ふと顔をあげるとリュシリエンヌをじっと見ているジョスランと目と目があったとしても声をかけられることなく、何かを探りだすような強い視線を外そうとしないことが。
後ろから抱き締められている時の力が強すぎて甘い地獄を味わされ、もう少し緩めてほしいと願っても「この方が好きだったよね」と過去形で話されることが。
記憶をなくしたとはいえ元を正せばジョスランの妻である自分という存在にジョスランが妻を探しても仕方がないのだろうと思うが、リュシーの好みを押しつけられることはリュシリエンヌという自我を認めてはいないのではないかと疑いたくもなる。
いや、疑いたくなるのではない、もう疑っているのだ。
日に日に甘くなるジョスランにリュシリエンヌは喜びながらも、心の奥底では疑心暗鬼に捕らわれるようになっていった。
そして、疑いは増えていく。
ジョスランが難しそうな医学書を開き、その横でリュシリエンヌが字の練習をしつつ他愛のない会話を楽しんでいたときに、急にジョスランの声が精彩を無くしこもり始めることがある。
ああ、またなのね。
こんな風になるときは、決まって大きく開いた窓の向こう側にある白く咲き乱れる花をじっと見つめている。
リュシリエンヌには向けられたことのない苦しいまでの愛おしさを滲ませた瞳が、かすかに震える唇が、リュシリエンヌの心を抉る。
なぜ。どうして。
リュシーに向けるのならまだわかるその愛情を、どうして樹などに向けるのか。
花や草木を愛でるにしても、愛でかたが違うのではないか。
一片でもいい、一滴でもいい、その愛情を与えて欲しい。
焦がれすぎて胸をかきむしりたくなる衝動を無理やりに抑え、リュシリエンヌは努めて平静な声をジョスランにかける。
「ジョスラン……」
「うん?……ああ、終わったの?どれ、見せてごらん」
ジョスランは何事もなかったように窓から目をすいと外して、微笑みながら手を差しだした。
おずおずと手渡した練習帳には美しいとは言い難い歪な文字が並んでいるが、ジョスランはリュシリエンヌの流れる髪に何度も手を滑らせて「上達したね」と褒めてくれる。
嬉しかった。
けれども、嘘だとも思った。
髪を梳く手にあの樹に向けるほどの愛情を感じられない。
その瞳はリュシリエンヌを写さずリュシーを探す。
こんなに近くにいるというのにどこまでも遠いジョスランを想い慕う自分が途方もない間抜けに思えた。
どうすればいいというの。
心に重石が積み重なるばかりだった。