第三話
かちゃ、と金属の擦れる音は幸せの音だ。
留め金が外されて開く扉の先には必ず愛おしいジョスランが笑顔で立っているからだ。
だが今日はジョスランが現れるよりも先に椅子が扉の向こうから姿を現した。
驚いて目が丸くなっているリュシリエンヌを知らぬふりして、カラカラと軽い音をたてながらジョスランが椅子を押して部屋を横切ってくる。
そしてリュシリエンヌの前でとまると、今度は歌を歌いながらくるくると椅子を回し始めた。
少しだけ調子外れの歌に部屋いっぱいを舞台に踊る椅子。
リュシリエンヌは目覚めてからはじめて笑い声をあげた。
「ジョスラン。それは、なあに?」
部屋の中をくるくると回り踊らせていた椅子をぴたっと止めて、ジョスランはリュシリエンヌに仰々しくお辞儀をした。
「さて、我が麗しのお姫様。とくとご覧くださいませ。この椅子は車椅子と申しまして貴女様を外の世界へ連れ出してくれる魔法の椅子でございます。この車椅子ひとつで窓から見える景色のどこへでもお連れすることができるのです。さあ、お姫様。まずはどちらへと参りましょうか」
言うや否やジョスランはすすすと車椅子をベッドまで近づけると、リュシリエンヌの腰と足に手を差し込んで軽々と持ち上げて車いすに座らせた。
落ちないようにベルトを閉め、ひざかけを置き、どこからかつばの広い帽子を取り出して角度を気にしながら被せる。
慣れた手つきにドキドキと胸をときめかせるのは恋心を自覚したせいだ。
近すぎる体温、肌をくすぐる吐息。
昨日までと変わらない日常が、手の中にある幸せがこんなにも愛おしい。
リュシリエンヌはジョスランさえいれば自分の記憶が戻らなくてもいいと思い始めていた。
目覚めてから初めての外出ということもあって、選ばれた場所は窓から眺めていた樹の下だった。
ジョスランが愛でる樹を間近で見ることができるとこの時は素直に喜んだ。
カラカラとリズムを刻む車輪は、そのまま、リュシリエンヌの心のように軽やかだ。
浮き立つ気持ちは抑えられない。
部屋以外の初めての世界は建物も草木も、流れる空気すら全てが目新しく、小さな子供の様にきょろきょろと見渡してしまう。
だがはやり圧巻なのはジョスランの愛でる樹々だろう。
遠くからみると白くけぶったふうにも思える花は手のひらほどの白い花弁が幾重も重なってぼってりとした印象を与えるが、一輪ですらその存在感を放っているというのに枝をしならせるほどの量を咲き誇らせている。
それが九本、小川の土手沿いに整然と植えられている。
屋敷に近ければ近くなるほど大きくなる樹はまるで遠近法の透視図法のように思えて、リュシリエンヌを笑わせた。
くすくすとしばらく笑っていたリュシリエンヌだったが、普段であればリュシリエンヌの小さなため息ひとつ聞き逃さないジョスランからの反応がないことに気がついて、どうしたのだろうと首をかしげた。
ジョスランは、部屋で見るときの彼以上に優しい眼差しで九本の樹を見つめていた。
ちくりと小さな針が淡い恋心に突き刺さる。
いつまでもジョスランが目線を外そうとしないので他に何かあるのかと訝しんだリュシリエンヌはもう一度その樹を眺めることにした。
するとどうだろう。
不思議なことにこの樹々に奇妙な親近感がわきあがり、それと同時に樹から発せられる相容れない拒絶を感じ、顔をこわばらせた。
樹にそんな感情を持つだなんておかしいことはわかっていても、全身で感じてしまうのだから仕方がない。
眉を潜めながら見つめた満開の樹は圧倒的な存在感でリュシリエンヌに迫ってくる。
美しく咲き誇る花。
痛み枯れていくことを知らない花。
部屋から眺めているときには美しい風景の一部だとしか思っていなかったそれは、近くで見れば見るほど迫力を増してちっぽけなリュシリエンヌを飲み込もうとしているかのように思えた。
だが、近づくにつれ奇妙な違和感に捕らわれる。
何かが、おかしい。
樹に近づけば近づくほど違和感がどんどんと膨らんでいき、そして樹の下までやってきた時、その正体に気がついた。
白い花は屋敷に向かって咲いていた。
太陽に向かって咲き続けるひまわりでもあるまいに、九本ある樹の花すべてが太陽は屋敷だとばかりに咲いているのだ。
屋敷とは反対側になる枝には一つの花も付けてはいない。
屋敷側の花を咲かせ続けることで、川側の枝にまわす栄養がないとでもいうかのように。
これを異様と言わずして何という。
だというのにリュシリエンヌの後ろに立つジョスランは優しい吐息を吐きだして言うのだ。
「綺麗だよ」
熱の籠るつぶやきを漏らすとそのまま車椅子を移動させ、一つ一つの樹の幹に愛おしそうに口づけをする。
すると風が吹いているわけでもないのに枝がしなり、花を揺らす。
同じことの繰り返しを九回した後、ジョスランは樹々から少し離れた場所に敷物を敷き、戸惑うリュシリエンヌを椅子から下ろすと自分もその横に腰を下ろした。
「やはりここから見る眺めが一番美しいね」
「……そう、ですね」
もはや楽しいはずの外出は色を失った。
樹に嫉妬しているなど、誰に言ったとしても信じてはもらえない。
異様に咲く花の樹をまる大切な人だとばかりに愛情を示すジョスランを、直視することができない。
もし目を細めて樹を眺めているジョスランを見てしまったら、馬鹿らしい嫉妬の黒い炎が心の臓あたりでくすぶり始めるのを抑えることができなかっただろう。
塞ぎ込むリュシリエンヌにジョスランが気付いたのはどれほどたったころだったか。
何を言っても生返事しか返さないリュシリエンヌにようやくその惚けた顔を向けた。
ひざかけの上に固く握った拳を震わせて顔を上げようともしない姿に眉をひそめながら、それでも強く握られた指が白く色を落としていることに気がつくと、その手を持ち上げて頑なな拳を優しくさすりながらゆっくりと開かせていった。
「どうしたの。指先に血が無くなるほど固く握りこんで」
ああ、冷たいね、温めようね、とリュシリエンヌの手を口元まで持っていくとはあ、と息を吹きかけ手をこすり合わせる。
何度も同じ作業を飽くことなく繰り返すジョスランは、献身的な夫そのものだった。
ああ、戻ってきてくれた、私のもとに。
ずっと隣にいるというのに覗うことすら躊躇われたジョスランは消え去って、いつも通りの優しい夫が心配をしてくれている。
キスを落とされたのは、じんわりと涙が浮かび始めた眦だった。
恥ずかしさとキスをされた喜びで赤く染まる頬に、ジョスランは満足げにほほ笑んだ。
「少し温かくなった、かな?」
「あ、あ、あ、あのっ!」
「うん?」
親指の腹で何度も何度も赤くなった頬をさすられて、リュシリエンヌの心臓は早く刻み過ぎる鼓動についていけそうにない。
夫婦なのだから、愛情表現は当たり前。
そう言い聞かせても、つい昨日までの少し距離を置いてくれていたジョスランとは打って変わっての態度にドギマギとする。
「リュシー。そろそろ風が冷たくなってきた。……帰ろう、屋敷に」
最後に樹をちらと見たジョスランの横顔が、哀しげに見えたのはなぜか。
熱に浮かされたリュシリエンヌはそんな小さな出来事などすぐ忘れ去ってしまった。