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第二話


 リュシリエンヌは二年ほど前に生死にかかわるほど酷い怪我を負った。

 一命をとりとめたリュシリエンヌだったが、怪我が治っても意識を取り戻すことがなかった。

 所謂植物人間という状態で二年、ジョスランが仕事の合間をぬって部屋にやってきては動かさない手足の筋肉が固まらないように運動をさせていてくれたらしい。

 使われなかった関節が柔らかなのはジョスランの献身のおかげだった。

 リュシリエンヌが目覚めた後、衰えた筋力を取り戻す運動を補助したのももちろんジョスランだった。

 記憶がないことに加え何一つ自分でできないリュシリエンヌがともすれば自己憐憫の波に攫われようとすることを未然に防ぎ、訓練に不満を漏らそうが手を動かすことをやめず、絶えず声を掛けつづけて指導をする。

 理想的な医師だった。

 リュシリエンヌは真綿でくるまれたような温かな庇護の下で少しずつ己を取り戻す力を蓄えていった。

 スプーンを介助してもらわずに持てるようになった。

 カンファターを自分でめくり上げられるようにもなった。

 体は起してもらわなければならないが、随分と長く座ることもできるようになった。

 少しずつ、少しずつ。

 出来ることが増えるたび、ジョスランは自分のことのように喜んでくれた。


 夫でもあるジョスランは、折りにつけ手を握り、肩を寄せ、額や頬、唇にキスをした。

 だがリュシリエンヌの記憶が混乱していたのではなく幼児期からなくなっていることに気が付くと、過剰なスキンシップを一切やめ、家族愛以上の行為しか見せなくなった。

 本当に、本当にほっとしたのよ、とリュシリエンヌは後にジョスランに笑って云ったほどだ。

 明らかにその人の庇護下にあるというのに好意もなにもない相手から撫でられたりキスをされることがどれほど苦しいことか、けれど強く言うこともできない立場がリュシリエンヌの心に傷をつけ始めていたのだ。

 その潔さにリュシリエンヌは深く感謝した。

 

 記憶を補おうとジョスランが持ち出したのは数冊の古いアルバムだった。

 最新型3D投影機ではなく一枚一枚手でめくる必要のある古風な紙のアルバムは存在自体珍しいが、アルバムに貼るための三角コーナーシールに挟まれたセピア色の写真はリュシリエンヌの生誕から二年前までの日常を写し出していた。

 見知らぬ景色、触れた記憶のない雪、優しそうな瞳を赤子に向ける母の姿、それに寄り添う父親。頬をなぶる強い風を受けて海岸に立つ子供は写真を撮っている誰かに全幅の信頼を置いているのだろう、屈託のない笑顔を向けている。花が舞い散る校門では少女が誇らしげに立っていた。

 一言二言言葉を添えて貼り付けられている写真はどれも愛情に溢れているものばかりだった。

 リュシリエンヌは自分がどれほど愛されていた存在だったのかを知ると同時に、大怪我を負ったとはいえ忘れてしまったことへの罪悪感に襲われた。

 幸福に満ちた写真の中の彼女がどうしても自身のこととは思えない。

「幼いころの写真がほとんどのせいだろう。おいおい思い出すだろうから安心して」 

 不安で瞳を揺らすリュシリエンヌにジョスランは「焦ることはないから」と付け加えた。

 そして万が一思い出すことができなかったとしても、君を愛していることには変わりないから心配しないでと額に小さなキスをする。

 真っ赤になったリュシリエンヌにジョスランが気づかなかったのは、見終わったアルバムを新しいものに交換しようと席を立ったからにすぎない。

 もしこの時ジョスランがリュシリエンヌをまじまじと見ていたとしたら、その潤んだ瞳の中に小さな炎が灯っていたことに気がついただろう。


 そう、いつの間にか意識し始めていた。

 夫だと名乗った見知らぬを、いつの間にか。 

 夫婦だったころの記憶を取り戻したわけではない。

 空っぽだった心の中に小さな恋心が芽吹いた、ということだ。

 

 動けないリュシリエンヌに優しく添えられる温かな手、慈愛に満ちた眼差しが暗闇の中で途方に暮れるリュシリエンヌに光をくれた。

 薄い唇が紡ぐ言葉に心躍らせるようになったのはいつのころからか。

 窓から眺める、白くぼったりとした花を愛おしそうに愛でる視線を自分に向けてほしいと願い始めたのは。

 顎のあたりで切られた黒髪が俯くたびにさらさらと揺れ動き、頬に、口にと張り付く、それを指先で取り除いてあげたいという衝動に駆られ始めたのは。

 見舞いになど誰も訪れない病室で、思考する時間だけは無限に与えられた状態で、


 ジョスランしかいないこの限られた世界で、恋をするなというほうが難しい。


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