山羊
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ある秋の出来事だった。冬へと佇まいをかえていく木々は、肌寒い木枯らしにからからになった葉を揺らされて、おのおのざわめいている。冬が来た、と騒ぐものもいれば、いや、まだだと声を潜めるものもいた。
草原の黄みがかった土を覆う草むらは、茶色く低い体を釣り竿のようにしならせ、風の向く方を見ている。北風だ。山羊は冬毛に覆われた体をぶるりと大きく震わせ、風を払うように首を振った。やれやれと思いながら草を食む。この辺りはもうだいぶ草が少なくなってきた。そろそろ移動しなければならないだろう。そんなことを考えながら、山羊はのそのそと重い体を引きずって歩いていった。
元いた草原が消失点と重なるころ、山羊は一本の大きな木を見つけた。大樹の足下は木陰になっている。山羊は木陰に腰を降ろすと、ふと上から何やら物音がすることに気がついた。座ったばかりだが、何とも気になる。山羊は好奇心に身を任せ立ち上がった。
木から少し離れて大樹を見上げる。黒い影が木の枝に留まっているのが見えた。烏だ。木の実を啄んでいる。山羊はこんなにも近くで烏を見るのは初めてだった。好奇心に胸が高鳴る。同時に、何をしているのだろうと不思議に思った。
「どこへ行くんですか」
山羊が訪ねた。
「ちょっとね」
烏は早口で答える。なんだか不機嫌そうだ。
「ちょっと、どこへ行くんですか」
山羊は烏の様子に気づいていないようだ。
烏はいらいらしながら嘴を開閉している。
「あんたにゃ関係のないところへさ」
烏は落下するように木から降りると、飛び跳ねるようにして山羊へと近づいた。その様は、真っ暗な闇が迫ってくるようだ。
「海ですか」
「違うな」
「空ですか」
「惜しいが違う」
「分かった。宇宙ですね」
「残念、もっと上さ」
烏は羽で空を示した。
「あの世だよ。黄泉の国とか、天国とか。そういうところに、おれは向かっているのだ」
「なんで?」
「なんでも」
「どうして?」
「どうしても」
「生きているのに?」
「生きているからさ。生きているから向かうんだ。そこしか行き場がないからな」
烏は翼を広げた。まっくらだ。何にもない。
「考えてもみろよ。おれたちの足下には岩と溶岩しかないって、分かってるだろ。でも、上は違うんだ。宇宙の果てに天国がないって、誰が言い切れるんだ」
「あるとも言い切れないでしょう」
「生憎、悪魔を照明するほど真面目じゃあないんだよな」
山羊は数度瞬いた。カメラのシャッターだった。
「話を戻そう。おれたち、この下にはなんもないって知ってる。ってことは、この地上こそが地獄なんだな。羽を持ってるおれたちは、きっと天使の生まれ変わりさ。人間はおれたちを見てうらやましいと思う。そんでもって、ロケットだの、衛星だのまで造っちまった。みんな天国を目指してるんだよ。重い罪を背負ってな」
「神から奪った知恵で、神の許へ行くというのですか」
「それが罰ってわけなんだな。ま、せいぜい生きろよ」
そう言って黒い旅人は空へ飛んでいった。
山羊はもう瞬かなかった。
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