第八話 吸血狼
月影に輝く紅い毛並み。
草原に佇むその怪物は、ワンボックスカーほどの巨躯を誇る狼であった。口元に生えそろった牙は剣を思わせるほど鋭く、人間などあっというまに八つ裂きにしてしまうだろう。逞しい四肢は力強く大地を踏みしめており、碌に鍛えられていない僕の細い手足など比べ物にならない。
狼の頭の上には『吸血狼』とネームが表示されていた。そのHPバーは今週一週間で僕が見たどんなモンスターよりも長く、ゴブリンの軽く十倍はある。明らかに特殊な条件で出現するエリアボスか何かだ。名前からすると、条件はモンスターを大量に狩ることあたりだろうか。いずれにしろ、とても今の僕やキュウに倒せるモンスターではない。
「キュウ、動ける!?」
「なんとか! でも、戦うのは無理や!」
「チッ!」
思わず舌打ちをしてしまった。
周囲は広い草原で逃げ込めそうな場所はなく、街まで行くにしてもかなりの距離がある。さらに夜が間近であるせいか、近くに応援を頼めそうなプレイヤーの姿も見えない。かといって、二人で戦うのはまず無理だ。キュウはほとんど戦闘不能の状態であるし、僕にしても所詮はレベル3の弱小プレイヤーだ。こんな化け物を倒す能力なんて、持ち合わせていない。
「アイテムは!?」
「光球とポーションぐらいや!」
「光球……」
光球というのは、強烈な光と爆発音を出してモンスターの注意を惹きつけるアイテムだ。狩りの時や今のように不意に強力なモンスターと出会ってしまった時に用いるものである。ただしダメージは一切入らないため、純粋に気を逸らすだけのものだ。さらに効果時間は短く、あまりあてにはならないらしい。
――やるしかない!
逃げる方策がない以上、どうにか立ち向かうしかない。無理やりに気持ちを奮い立たせると、震える手で刀を握りしめる。この怪物を相手に、レベル5にも満たない僕やプリーストのキュウの攻撃がどこまで通用するのか。いや、そもそもダメージを与えることができるのか。脳内は絶望的な予想でいっぱいだったが、僕とキュウが生き延びる可能性があるとすれば、こいつに有効なダメージを与え、動きが鈍った隙に逃げ出すことしかない。もしくは――どちらかが囮になるかだ。
「キュウ、君は逃げろ! 僕が……足止めする!」
「せやかて…………死ぬで!」
「僕は死なない!」
吸血狼の身体は仮想の存在であるにもかかわらず、押しつぶされるようなプレッシャーを放っていた。その剣を思わせる白銀の牙と殺気の籠った紅の瞳を見ているだけで、背中の産毛が逆立つ。全身が恐怖で凍りついて、本来なら今すぐ背中を向けて逃げ出してしまいたいほどだ。けれど僕の口は、不思議なほど滑らかにキュウに対して指示を出し、自らが囮になると言ってしまっていた。心の中にあるちっぽけな勇気と虚栄心。さらに今まで散々に打ち砕かれて、欠片すら残っていないと思っていた僕のプライドが――重いはずの口を動かしたかのようだ。
「……わかった。だけど援護だけはさせてもらう!」
キュウは軽くうなずくと、勢いよく走りだした。そうして僕の後方十メートルほどの位置につけると、タクトを構える。彼女はそれ以上動こうとはせず、僕と吸血狼の方をじっと睨んでいた。
「キュウ、逃げるんだ!」
「嫌や! 援護だけはするっていったやろ! それに、シュートが死なないんやったら逃げる必要はない!」
「…………わかったよ! その代わり、いざというときはお願い!」
「わかっとる!」
「グアァ!!」
キュウの声が聞こえてくると同時に、洗礼のごとく放たれる爪の一撃。大振りだが異様に動きの速いそれを、僕は間一髪で回避した。大地がえぐり取られ、草原に四本の溝が深々と刻まれる。こんなの、当たったら体が裂けちゃうぞ! 背中から血の気が引いて、ぞわりとした感触が全身を駆け巡る。
<窮鼠の意地・発動>
響く合成音声。
身体がわずかに軽くなった。良くはわからないが、ステータスアップ系スキルの発動条件を満たしたようだ。全身の感覚が研ぎ澄まされ、筋肉が限界以上の速度で躍動する。吸血狼の動きは非常に素早く研ぎ澄まされていたが、予備動作がかなり大きかった。それを見切り、攻撃を当たるギリギリで避けていく。
三十秒ほどが過ぎた。
なかなか攻撃が当たらないことに苛立ったのか、吸血狼がひときわ大きく爪を振り上げる。その刹那、狼の腹が見えた。白く柔らかそうに見えるその腹は、筋肉質であったが他の部位のように分厚い毛皮を纏ってはいなかった。今がチャンスだ。これを逃せば、終わる――!
「そりゃあァ!」
<居合切り・発動>
勢いよく踏みこむ。光を纏った切っ先は、吸い込まれるように狼の腹を切った。だが――
「ちいッ!!」
見た目からは想像できないほど、吸血狼の腹は堅かった。さながら分厚いゴムか何かでできているようだ。初期装備の刀は、それに小さな切り傷も付けることができずに、勢いよく弾き返されてしまう。その反動に押された僕は、仰け反るようにして狼から距離をとった。慌てて視線を上にあげると、やはりHPバーはほとんど減っていない。弱点をついても、駄目か!
――VRMMOと言えど、やっぱレベル制ゲームってことか……!!
レベル制のゲームにおいて、低レベルキャラが高レベルキャラに勝つことは当然ながら非常に難しい。中には、低レベルキャラでも高レベルキャラをプレイヤーの技量スキル次第で倒せることを売りにしたタイトルもそれなりにはあるが、「好条件が整えば」と言う但し書きが付くものがほとんどだ。そうでなければ、そもそもレベル制の意味自体がないのだから。
「キュウ、だ――ふぐァ!!」
キュウ、駄目だ逃げろ。そう言おうとした瞬間、狼の腕が伸びた。予備動作のほとんどない、今までとは違う動きだ。それを交わし損ねてしまった僕の脇腹を、巨大な爪がえぐり取っていく。たちまちHPバーがイエローゾーンにまで減少し、衝撃が身体を襲う。僕の身体はたちまち放物線を描くようにして吹っ飛び、草原の大地に叩きつけられた。
「キュウ……! 速く逃げて……!」
僕と言う障害物がなくなったことで、吸血狼は一気にキュウの方へと駆けだした。しかし、キュウは逃げ出さない。彼女は黒い球を手に、迫りくる吸血狼の額のあたりを睨みつけていた。そして次の瞬間、大きく振りかぶって黒い球を吸血狼に投げつける。
「グギャア!!」
炸裂した光、轟く爆音。
三尺玉でも打ち上げたような光球の威力に、僕の視界が真っ白に染まる。一瞬の静寂。しかし三秒ほどもすると視力が回復し、世界が色を取り戻す。すると――
「キュウ……!?」
視力を奪われた吸血狼によってがむしゃらに振るわれた爪。それが偶然にも、キュウの身体に当たったようだった。
細くて華奢な身体が放物線を描いて飛んでいき、草原の大地へと叩きつけられる。その首筋からは血が溢れていた。草原の緑を紅が見る見るうちに染め上げていく。心臓が脈打つたびに溢れ出るそれは、生命の泉を思わせた。
――同じだ、あの時と。
楓姉さんが死んだ時も、今と全く同じだった。
首元から血を溢れさせて、その血液が彼女の白い身体を次第に赤く染め上げて行って。その血の熱さを感じながら、僕は茫然と立ち尽くしていた。そう、今のように何もできずに。
「ああ、うああ……!」
「大丈夫や、ぎりっぎりやけど生きとる……!」
声が聞こえた。でも、生きてるわけないじゃないか。『姉さんは僕が確かに殺した』のだから。あの夏の日、薄暗い電車の中で僕は、この手に握った鋏で――。
「ウグアアァ!!」
手の甲に埋め込まれた石が焼けるように熱い。混乱する時間軸。混ざり合う八年前と今。記憶がフラッシュバックを起こし、脳内がぐちゃぐちゃに歪んでいく。景色が歪み、目の前に存在するはずの世界まで過去と重なり始めた。心が壊れて、全てがあいまいに消えていく。こうして五感が虚となっていく中で、手の熱さだけは本物だった。やがてそこから流れ込む得体のしれないエネルギーは、熱く滾る血液のように全身を駆け巡り――――僕を乗っ取った。
「ウオオオォ!!!!!!!!」
<SPV『赤』。暴走状態突入>




