第六話 血濡れの少女
デスゲームが始まってから一週間が過ぎた。
当初は大多数のプレイヤーが、丸一日もすれば自分たちは無事に救出されるなどと現在の状況を楽観的に見ていたが、その期待は見事に裏切られた。一週間が経過したが、現実世界からは助けどころかメール一本きてはいない。狂ってはいるが、笹生劉生と言う人間は間違いなく希代の天才で、彼の構築したシステムは外部からの侵入を強固に阻んでいるようだった。
待っていても状況は改善しない。そのことを察したプレイヤーたちは次々とゲーム攻略に乗り出し――その結果、一週間で三百人が死んだ。最初の人数が約一万人だから、だいたい一週間で三パーセントの人間が死亡したことになる。この三パーセントという数値が多いか少ないかは俺にはよくわからない。けれど、それだけの数の人間が死んだと言うのは純然たる事実だ。始まりの街の北東に広がる、β時代は用途がよくわかっていなかった広大な空き地。デスゲームになって以降、プレイヤーが死亡するたびにそこへプレイヤーの名と死亡した月日を記した小さな墓標が建っていく。その数がつい先ほど三百を超えたと、CO内の掲示板に報告が上がっていたのだ。
次々と人が死んでいく。その非現実的な状況にプレイヤーたちはみな恐怖していた。中にはトチ狂ってPKに走った者まで居るらしい。幸い、PKをしたプレイヤーはすぐに拘束されたため、なんとか治安は保たれているが、いわゆるPKギルドが形成されるのも時間の問題ではないかと噂されている。
こうして状況が次第に混沌の度合いを増していくのに反して、攻略は遅々として進まなかった。もともと難易度が異様に高いゲームだったのに、それがさらにデスゲーム化したことによってもともと高かった難易度が一気に跳ね上がったのだ。βテスターたちの話によると、β時代は一週間もあればシャマイン大陸の北西に聳える『怠惰の塔』まで辿り着けたそうだが、今のところ正式版のプレイヤーたちは、その手前にあるルベル村にすらたどり着けていない。
この絶望的な状況の中で、僕は――――宿に引き籠っていた。
街の北西に聳える転職のための巨大な神殿。その奥にある修行者用の宿の一室で、僕は膝を丸めて天井を眺めていた。灯りと言えば小さな窓しかない薄暗い部屋の端で、ひたすらに身体を小さくして。この行為がどれほど恰好悪いかは、自分でも理解している。情けなさすぎるじゃないかと、自分で自分を軽蔑しても居る。けれど、恐怖が何者にも勝った。だから僕は部屋を出られずにいた。
「どうしよう……」
底のない不安だけが心を埋め尽くしていた。
天井のくすんだ壁紙を見上げて、それについた染みを一つ一つ数えながら、これから先のことについて思いをはせる。僕の所持金は、現在九百Z。ここの宿代が一日三百Zだから、あと三日で金が尽きる。そうなれば、僕は野宿だ。広場の石畳の上に寝転がって、飢えと背中の痛みに悩まされながら生きるしかない。
僕はメインジョブが戦闘職だ、いまさら職人にはなれない。
金を得るためには外に出て戦うしかない。けど、やはりそれは怖い。足がすくんでしまって、一歩を踏み出すことができないのだ。街と外のフィールドとを隔てる門が、前世紀におけるベルリンの壁のような絶対的な壁に思えてくる。初日は難なく潜ることができたあの大きな門が、途方もない威圧感でもって存在していた。
「あの時みたいだ……」
僕は八年前、事件以降に初めて学校へ行こうとした日のことを思い出した。当時の僕は若干八歳にして部屋に引きこもり、周囲との交流を一切断っていた。毎日毎日、姉さんを刺した右腕を見ながら、ひたすらベッドで横になり続けていた。姉さんを殺した自分が恐ろしい怪物のように思えて、そんな自分に対する人々の視線が怖かったのだ。自分のことを、人と交わってはいけない存在だとも思っていた。
けどそんなある日、瑠衣姉さんが僕の部屋の扉をはずしてしまった。慣れない大工仕事に四苦八苦しながらも、ドライバーで扉の蝶番を全て外してしまったのだ。そうして天の岩屋よろしく閉ざされていた部屋を解放した彼女は、高らかにこう言ったのだ。
『もうあなたに逃げる場所なんてない。戦わなきゃ、世界や過去と。戦って戦って、もし駄目だったら……その時は私の胸に飛び込んできなさい!』
今、僕の近くに瑠衣姉さんはいない。
だけど僕は一人でこの世界と戦わなきゃいけない状況になりつつある。こんな臆病な僕に、戦い――いや、殺し合いと言った方が適切だろうか――なんてできるのだろうか。部屋の敷居の代わりに、あの大きな門を潜り抜けることなんて、血を見ただけで震えるこの足に可能だろうか。
「行くだけ、行ってみるか……」
拒絶するように、部屋の端の普段は目につかない場所に置いた刀。いかにも初期装備と言った、安っぽい造りのそれを手にすると、僕はゆっくりと部屋を出る。そして大きく息を吸い込むと、決意が鈍ってしまわないうちに走り出した――。
西門前の広場につくと、そこはプレイヤーの姿でいっぱいだった。彼らはそこまで深刻そうな顔はしていない。むしろ、明るい表情をしている人間も少なくはなかった。こんな状況だからせめてというのもあるかもしれないが、狩りを楽しんでいる人間も居ないわけではないのかもしれない。そう、これがただのゲームだった頃のように。
「へえ……」
若干だが、勇気が湧いてきた。僕はゆっくりとだけれども、門の方へと歩いていこうとする。しかしその時、一組のPTが門をくぐってこちら側へと帰ってきた。
彼らは血まみれだった。全身傷だらけだった。
茶色をしているはずの革の鎧は朱に染まり、肌も露出している部分で赤くないところなんてない。全身から血と汗を流す彼らは、身体を引きずるようにして広場の中央まで辿り着くと、その場でへたり込んでしまう。僕はぎょっとして距離を取ったが、彼らから視線をそらせなかった。周囲のプレイヤーたちも大体僕と同じだったようで、彼らから距離を取りつつも視線は釘付けだ。
「今日は終わりだ、解散!」
大剣を背負った男が、声を絞り出すようにして叫んだ。それに応じて、PTのメンバーたちが三々五々散らばっていく。しかしその中で、唯一その場を動かなかった少女が居た。おそらく、僕と同年代ぐらいの子だろうか。亜麻色の髪を肩のあたりで切り揃えていて、その隙間から覗いて見える涙滴型の大きな瞳が美しい。全体として丸い顔立ちをしていて、どことなく猫を思わせる少女だ。
「待って! 回復すればまだいけるはずや!」
プリーストなのだろうか。彼女はタクトのようなものを胸元から取り出すと、くるくるっと回した。そして何事かつぶやいたかと思うと、たちまち傷だらけだった身体が回復していく。全身を覆っていた血の跡が消えて、肌に刻まれていた傷もきれいさっぱり消滅した。だがそんな彼女に、さきほどPTの解散を宣言した男は冷たく応える。
「駄目だ、メンバーの精神的消耗が大きい」
「精神的って、今は一分一秒が惜しい時なんやで! 限界まで戦わないでどないするんや!」
「もし死んだら元も子もないだろ。とにかく、今日は終わりだ」
そういうと、男たちは足早にその場を立ち去って行った。その場に取り残された彼女は、チッと舌打ちをする。
「わからず屋! なら一人だけで行く!」
少女は地面を蹴り、勢いよく駆け出した。彼女はそのまま西門をくぐると、フィールドへと飛び出す。その場に居た誰もが彼女を止めるどころか、声をかけることすらできなかった。ただただ茫然と、門の向こう側へとすっ飛んで行く小さな背中を見送ることしかできなかったのだ。
「死んだな」
「あの子プリーストだよな? 無茶しすぎだろ」
近くに居るプレイヤーたちの、呆れたようなつぶやきが聞こえてくる。彼らの声は、どこまでも他人事という響きを帯びていた。事実、誰一人として少女を追いかけようとする人間はいない。あの子は死ぬかもしれないなどと言いつつも、それを阻止するために動こうとする者はいないのだ。
――ほとんど見殺しじゃないか。
とっさにそう思ってしまったが、僕がそれを言う資格はなかった。つい先ほどまで宿に引き籠っていた人間に、何が言えると言うのだろう。少なくともこの場に居るプレイヤーはそのほとんどが、僕とは違って「今まで戦ってきた人間」だ。
――助けたい。
僕の心の中にある、ちっぽけな正義感が疼く。今この場で少女を放置して、宿に戻ってしまうのは簡単だ。全て、見なかったことにしてしまえばいい。お金がなくなったらなくなったで、野宿すればいいんだ。空腹感はあっても飢死はしないから、ひたすら石畳の上で不快感に耐えていればいい。それはさほど、難しくはないことに思える。おそらく戦って血を流すほどには、辛くないはずだ。けれど、それは果たして――生きているうちに入るのだろうか?
心が交錯し、天秤が振れる。やがてその天秤は――助けたいと言う方に傾いた。ほんのわずかの差。無視しようと思えばできてしまうほどの差だったが、確かにそれは傾いたのだ。僕は臆病な心を振り払うように、腰の刀を握りしめる。
「行くぞ……!」
唇を震えさせながら、自分を奮い立たせるようにつぶやく。そして門の方へ向かって、足を踏み出したのであった――。