第三話 悪夢の足音
光が収まると、そこはもう異世界だった。
視界いっぱいに白い石畳が広がり、その上に似たような服を着た無数の人間たちが立っている。さらにその向こうには石や漆喰でできた西欧風の瀟洒な建物が建ち並んでいて、白を基調とした美しい街並みがどこまでも広がっていた。見上げれば空は青く、それを貫くようにして遥か空の果てへと聳える塔が見える。
思い切り息を吸ってみる。排気ガスなどない正常な空気は、純水のようにしっとりと肺を満たした。頬をなでる風、鼻をつく土の香り。感動的とすら言えるリアリティーでもって、この世界が迫ってくる。僕は恍惚とした表情でその場に立ち尽くした。言葉にしがたい感覚が身体を満たして、高揚感で心が弾む。ここは現実とは別の世界なんだ――! 僕は思わず、声を大にして叫びたくなった。広場の端から端までをこの足で駆け抜け、大地の感触をしっかりと確かめたい。そんな欲望に駆られた。
けれど、昂る心はすぐに萎縮して小さくなってしまった。なぜなら――
「一緒に狩りに行きませんか! 西の草原です!」
「PT募集してまーす!」
「サービス開始イエエエ!!」
千を軽く超えるであろう群衆。武器以外はほとんど違いがない初期装備に身を包んだ彼らは、日頃よく眼にする都会の雑踏などとは明らかに違う気配を醸し出していた。何と表現すればいいのかわからないが、彼らは周囲とのつながりを盛んに求めているのだ。都会の雑踏はあくまで個別のスペースを持った人間の集合体であるのに対して、彼らは何か一つの意志を持とうとする集団のように思えてならない。服装の妙な統一感が、その感覚をさらに後押ししていた。
「うわ……」
――怖い。
人だかりにわずかながらも恐怖感を覚えてしまった僕は、メニューウィンドウを出して一通りの動作を確認すると、すぐにその場から逃げだした。広場を出て、大通りではなく細い路地の方へと足を進めていく。そして高い建物に挟まれた薄暗い路地裏へと入り込んだところで、僕はようやくほっと息をつく。MMOの初日は込み合うと聞いていたが、まさかこれほどとは。心臓の鼓動が心なしか早くなってしまっていた。
「ふう……」
壁にもたれかかり、深呼吸をして落ち着いた僕はゆっくりと周囲を見渡してみた。うらぶれた雰囲気のある路地裏は、ゲームとは思えぬほど生々しくリアルにできていて、宙を漂う埃が鼻についた。石畳もところどころ剥がれていて、くすんだ色をした石壁には妙に生活感がある。芸の細かいことに、壁には落書きまでしてある。
「へえ……」
この通りはどこまで続いているんだろう? ふと僕の頭にそんな疑問が浮かんでくる。
それを解消するべく通りを進んでいくと、予想外にすぐ突き当たりへと差しかかった。そこには空っぽの樽や木箱が山積みにされていて、微かに酒の匂いがする。その山に埋もれるようにして、一人の男が壁にもたれかかっていた。武器こそ違うが、俺と同じ初期防具をつけていることからするとNPCではなくプレイヤーの様だ。背の高いがっしりとした体格の男で、西欧風の彫の深い顔をしている。
彼は瞼を閉じ、壁に寄り掛かって眠っているようだった。その証拠に僕が近づいていっても、全く反応がない。そうして一メートルほどのところまで近づくと、僕は彼に声をかけようかどうか迷った。街中は安全地帯となっていてPKなどはされないが、堂々と眠りこけているのはさすがに無防備に過ぎるからだ。
声をかけるか、かけないでおくか。男の顔を見ながら、僕は頭をひねる。一言「どうしたんですか」と言えばいいだけなのだが、それがそう簡単にはできないのだ。漂い始める沈黙。僕はニ十秒ほども悩むと、ようやく男の肩に手をかける。するとその時、男の眼が開いた。
「ふあ…………寝ちまってたか。これがほんとの、寝落ちってやつだな」
男が僕の姿に気付いた。僕はとっさに視線をそらしてしまいそうになるものの、どうにかこらえる。
「あんたもここで待ち合わせかい?」
「あ、いや……ただ広場に居づらかっただけです……」
「広場は混むからな。あんた、初心者かい?」
「まあ、そうです」
「ありゃ慣れないときついからな。俺はβ組なんだけどよ、最初のうちはそうだったぜ」
男は眼を細めると、あははッと豪快に笑った。僕もそれに合わせて、ぎこちないながらも笑みを浮かべる。すると男は壁にもたれかかっていた身体を起こし、さらに親しげな様子で話しかけてくる。
「どうだい、せっかくだし一緒に来ないか? 三人で狩りをするつもりだったのが、一人休むらしくてさ。人数が足らないとこだったんだよ」
「え!? その、僕はソロで行こうと思ってるから……そういうのは……」
「最初からソロはきついぞ? 安全マージンを確保できるだけのレベルがなきゃ」
「で、でも…………」
「上手い狩り場なのは保障するぜ。火力が足らなくて困ってるんだよ。な、一緒にいこうや!」
男はそういうと、僕の肩に手をかけた。彼の眼の動きと表情からすると、おそらく悪意はない。長年に渡って人の表情を読んできたから、この判断はたぶん間違いないだろう。さて一体、どうしたものか……。僕は悩んだ末に、首をゆっくりと縦に振ったのであった――。
大音響で響き渡るクラシック。
その音の揺られて、白い仮面の人物がゆらりゆらりと船を漕いでいた。広く仄暗い部屋の中で、革張りの椅子に腰かけたその人物は、自身の前にある巨大な執務机にもたれかかってしまっていた。その背後にある特殊強化ガラスには、黒地に紅でレギオン社のロゴが煌々と映し出されている。
重厚な無垢の扉が、ゆっくりと音を立てて開いた。暗い部屋に光が差し込み、一人の男が中へ入ってくる。白い光に照らされた男は、四十代ほどに見える背の高い男だった。痩せぎすで色白、眼の下がわずかに黒ずんでいる彼は見るからに不健康そうで、疲れが顔にありありと浮かんでいた。
「おい笹生、何寝ているんだ」
「ん……もう時間か?」
男に揺さぶられて、笹生と呼ばれた人物はゆっくりと顔を上げた。そして壁にかかっている時計の時刻を確認すると、不満げな声を漏らす。
「まだ三十分ほどあるではないか」
「準備に時間がかかるだろう。それとも、その顔で出ていくつもりか?」
「問題ない、以前作ったデータがある。それでごまかせばいい」
そういうと笹生は腕を組み、そこに顔を埋めようとした。だがそれを男の手が止める。
「待て。最終確認をしなくていいのか?」
「――それもそうか」
笹生は大きく伸びをすると、執務机の端にあるかバーをスライドさせた。すると、中からいくつかのスイッチが現れる。そのうち、一番大きな赤いスイッチを叩くと、笹生の背後に映されていたレギオン者のロゴが消えた。代わって、ガラスの向こう側に広がっている本来の景色が映し出される。男はガラスに近づくと、その向こう側を覗き込んだ。
「相変わらず、趣味の悪い『サーバー』だ」
男の眼下には、円筒形をした水槽が無数に立ち並んでいた。水槽内は血液を思わせる紅い液体で満たされていて、その中に白い何かが浮いている。よくよく見るとそれは――白い肌をした少女の肢体だった。何十、何百もの水槽に全く同じ肉体を持つ少女がふわふわと漂っている。瞳を固く閉じ、およそ意志の存在を感じさせない彼女たちの身体は、互いにへその緒のような有機物のケーブルで複雑に結ばれ、一つとなってしまっていた。
生きながらにして立てられた墓標。そう形容するのが相応しい水槽の群れに、男の眉が思わずひそめられた。あまりに奇怪、そして醜悪。彼がこれを見るのは初めてではなかったが、いつまでたっても慣れることはなかった。しかしその一方、笹生は至極冷静な口調で言う。
「仕方あるまい、VR技術は未完成なのだから。それに――」
笹生は言葉を打ち切ると、わずかに間をおいた。これから言おうとしていることを、相手に強く刻みつけたいかのようだ。
「この世界も本質的には同じだよ。夢を見ているのが神か、そのなりそこないか。その違いだけだ」
「胡蝶の夢か」
「ああ、しかも蝶が見ているのは悪夢のようだ」
笹生の視線が再び時計へと走った。時刻は間もなく午後六時四十分。第二次プランが始まるまであと、ニ十分にまで迫っていた――。