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第一話 八年目の七月十九日

 リビングへ行くと、瑠衣姉さんが窓の外に向かって黙祷を捧げていた。

 彼女の視線の先には、復興を成し遂げ、以前よりも肥大化したようにさえ見える遠山市の市街地が広がっている。あれだけの災害だったというのに、世間はもうそんなことを引きずってはいない。

 今年はいつになく静かだったので半ば忘れかけていた――いや、心のどこかで忘れようとしていたんだ――が、今日は七月十九日だ。僕はパジャマをはだけると、右肩に深々と刻まれた紅い歯型に眼をやる。今なお消える気配が全くないこの傷は、あの夏の日を一番象徴しているものだ。例の工作用の鋏は『貴重なサンプル』として取り上げられてしまったから。


 あれから八年。

 父も母も姉も、何もかもを失った僕は親戚である瑠衣姉さんに引き取られていた。そして今年の春、無事に高校へと進学した。標準よりもやや偏差値の高い、名門とまではいかないまでもそれなりの進学校にだ。内面はどうあれ、今の僕は非行に走ることも引きこもることもなく、瑠衣姉さんと二人で平穏無事に暮らしている。毎日、学校と家を振り子のように行ったり来たり。人間関係というものが『怖い』ので、部活などには一切入っていないが――勉強とか必要最低限なことはきちんとやれていると思う。


「おはよ! 今日は早起きしたから、おいしいものいっぱい作ったわよ」


 僕がリビングに来たことに気づくと、瑠衣姉さんはテレビを消して素早くこちらに振り返った。その顔ははつらつとした笑みを浮かべていて、人懐っこい印象の大きな瞳が輝いている。どうやら、あの日の話題を避けてくれるらしい。瑠衣姉さんの配慮にこっそり感謝しつつ、僕はダイニングテーブルにつく。


 香ばしいバターの香りを漂わせるトースト。ほこほこと湯気を立てるミルク多めのココア。それらに彩りを加える温野菜のサラダボウルに、カリッカリに焼かれたベーコンの乗ったハムエッグ。理想的なメニューの揃った朝食に、夜の間にスッカラカンになった腹が大きく鳴る。


「相変わらず料理上手だなぁ。伊達に独身を三十年も続けてない」


「一言多い! つか、あんたが居るから独身じゃないでしょ」


「じゃ、夫いない暦三十年で」


「私はまだ二十九!! 三十路までにはあと十カ月も猶予があるんだから。そんなことばっかり言ってると、これあげないわよ!」


 瑠衣姉さんはニッと笑うと、テーブルの下から小包を取り出した。バスケットボールがすっぽり入るほどのそれに「Caelestis Online」の文字が書かれているのを見た僕は、思わずあっと声を上げる。今、世界を何よりも騒がせている話題のゲームソフトにして、もっとも入手困難と言われるソフト。それの名がCaelestis Onlineなのだ。


 僕は手にしていた箸を一旦置くと、その小包を自身の方へと引き寄せた。小包の品欄には間違いなく「Caelestis Online及びソリッドセットパック」の文字が書かれている。改めてそれを確認した僕は、すっと息を呑んだ。


「へえ……よく手に入ったね」


「結構苦労したのよ。それに高かったし」


「ふうん……」


 僕は大きなため息をつくと、一旦引き寄せた小包を改めて瑠衣姉さんの方へ押し返した。たちまち、彼女の大きな瞳が呆気にとられたように丸くなる。


「何よ、興味ないの? あんたゲーム大好きじゃない」


「興味はあるよ。だけど……MMOは嫌いなんだ」


 神経接続型仮想現実システム、通称DNPの第一号機が誕生したのは今から五年前のことだった。日本の某大学と企業の合同研究チームによって開発されたそれは、これまでの常識を打ち破る画期的に過ぎるもので、3Dテレビや立体映像の開発に躍起となっていたメーカーや業界を文字通りひっくり返した。しかしその後、数多の企業がその技術を利用したAV機器の開発に挑戦したが挫折。世界最大手と言われたシリコンバレーの雄ですら手に負えないと匙を投げた。こうしてDNPは、数十年後になってNHKの特番で語られるような類の夢の技術になってしまったか――と思われたニ年前。ある企業が革命的な成果を発表した。


 その企業の名はレギオン。新進気鋭のIT系ベンチャー企業で、当時は会社の設立からたった七年しか経過していないという非常に若い組織だった。その歴史と実績のなさから当初は彼らがした衝撃的な発表――世界初となるDNP利用のコンシューマゲーム機の完成、およびそれを利用した大規模なネットワークゲーム、いわゆるMMORPGのサービスリリース――は疑いの目を持って迎えられた。しかし、度重なるプレス発表などにより徐々にその評価は変わっていき、去年の十一月に開始されたクローズドβテストによって決定的となった。


 βテスター曰く――本物の世界があった。

 ネットを中心として瞬く間に情報は全世界へと広がり、ゲーマーたちは熱狂した。ゲームの世界に入り込んで身体を動かすと言うのは彼らの前世紀からの夢であり、それが実現したとあれば飛びつかないわけがなかった。七万五千円という高額にもかかわらず、正式サービス版のソフトとゲーム機<ソリッドセット>の同梱パックには、販売数一万に対して三百万近い予約が殺到。予約の抽選がされた七月十七日のニュースでは、全国各地の神社が予約当選を祈願するゲーマーたちでいっぱいになったと言う珍事が報道された。


 こうして正式サービスを迎えるゲームこそがCaelestis Onlineだ。初のVRゲームと言うことで、僕自身も凄く興味はあったし正直プレイしてみたいのだけど――MMOというのがどうしても駄目。基本的に、MMOというのはプレイヤー同士が協力して攻略を進めると言うスタイルを取らざるを得ない。稀に一人ソロで攻略を進める猛者もいるが、そういう連中にしたって、ある程度は他のプレイヤーとのかかわりを持つ。ようはMMOをプレイするためには対人関係がどうしても必要となるのだ。完全にぼっちがいい僕には――とても向いてない。


「……あんたもしかして、ゲームの中でも人付き合いが駄目なの?」


「まあ……そうだね。チャットぐらいならできなくもないけど……VRだよ? 現実とほとんど変わらないじゃないか」


「そりゃそうかもしんないけど……たかがゲームよ? 気楽にやればいいじゃない」


「駄目なんだ、どうしても……。人と話していると、いつまたその人が姉さんみたいにならないか……」


 声が震えて、まともに出てこなかった。瞳の奥が熱くなって眼が次第に潤んでくる。

 瑠衣姉さんはこんな僕の姿を見ると、すぐに優しく肩に手をかけてくれた。しかし、彼女は強い意思を感じさせる眼差しで僕の顔を覗き込むと、穏やかだがしっかりした口調で言う。


「隼がいまどんな気持ちなのかはわからない。でも、もう八年も経つのよ。少しずつでいいから、克服していかないと」


「わかってるよ。でも……」


「でもじゃないの。良い機会じゃない、一日一時間だけでもこのゲームをやってみたら? 少しは慣れるかもしれないわよ?」


「…………考えてみるよ」


 僕はそういうと、部屋の奥にある壁掛け時計に眼をやった。すると、時計の針はすでに八時ニ十分を示している。始業時間デッドラインまであと……ニ十分しかない!


「やば! い、行ってきます!」


「行ってらっしゃい。車には気をつけるのよ!」


 カバンを肩に掛けると、僕は椅子を吹っ飛ばすような勢いで立ち上がった。そしてそのまま廊下を突っ切り、玄関を飛び出していく。VRMMOか――期待と不安が入り混じり、化学反応を起こしたような何とも不思議な気分が僕の心を満たしていた。


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