prologue 終焉
…どれほどこの時を望んだだろう?
目の前で黒煙に塗れて悶え苦しむ巨大な思念体を見つめ那乃はただ一人長い時を思い出す。彼女の背後の騒音は活気と喜びに満ち溢れていたが、那乃の耳には入ってこない。右の二の腕から流れる赤い血が指先から剣を伝い、今目の前で悶える者を切った際についた血と混じり地上に流れ落ちるのを視線で追う、いつまで経っても湧かない現実感。それは別に今に始まった事じゃない。
「…これでやっと帰れるわ」
それは彼女だけが知る二重の意味を含んだ言葉。苦痛に満ちた『必要とされなかった自分』から自力で這い上がって『必要とされた自分』になった。努力はどの世界でも報われると心の支えに頑張ってきた、でももうそんな努力も必要なくなる。『必要』とか『不必要』なんて関係の無い自分の世界に帰れる。
那乃は束ねられた漆黒の髪を解き放つと、自分のすぐ後で膝をついて礼の姿勢を取る側近の騎士に静かな微笑みを向けた。それは那乃が彼に初めて見せた心からの笑みでアルトゥルことアルはどきりと胸を高めた
「アル、帰りましょうか?」
「御意。ですがその前に傷の手当を…」
アルは自分の主が『魔の物』を倒した瞬間、いつもどこかこの世の者ではないような雰囲気が一層濃くなっていて声をかける事が出来なかったが、その右腕から流れ出る血を止めたくて仕方なかった。
「…これですか?」
那乃は今まで視線で追っていた傷口を改めて見て、この血の量に普通なら驚くだろうな…と何も感じなかった自分に苦笑する。
「大丈夫です。かすり傷ですから」
「ですが女性の身体に傷が残っては…」
つい出てしまった言葉にアルは激しく後悔する。それは彼が那乃の背に広がる火傷の痕を知っている数少ない人物だったからに他ならない。そんなアルの気持ちを察してか那乃は剣を一振りしてから鞘に納め、目の高さを合わせる為に彼の前に膝をつけた。そしてにこりと微笑み、右手を彼の前に差し出す
「では、お願いします」
「…御意」
アルはそんな彼女の優しさに涙が出そうになるのを辛うじて堪える。騎士団の中では上司という立場なのに彼女は人を立場で判断せず、こうして優しい言葉をかけてくれる。彼女自身は誰に対しても決して崩さない礼儀正しい言葉使いと美しい所作で人を魅了する女性だった。本来ならば女性であり、元帥でもある彼女は後方で総指揮をとってもおかしくない立場なのに、いつも単身で最前線へと向かった。彼女の直接部下にあたる隊の連中は国より、アルも含め彼女自身に忠誠を誓っている者達ばかりなので、その者達も最前線にいる事が多かった。
那乃が腕に包帯を巻き付けるアルに対し、彼にだけ聞こえる声で「アル、ありがとう」と言った。治療が終わると彼女は立ち上がり後方の部隊に向けて高らかに宣言した
「魔は滅されました。戦いは終わりです。長い戦いで残念ながら亡くなった者もたくさんいます。その者達の魂も連れて、愛する者の所へ帰りましょう」
そう那乃が言い終わると同時に地面が揺れるほど、皆が咆哮した