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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。

白紙の痣

作者: おーひょい
掲載日:2026/03/31

 「幸福とは、無知という名の麻酔を打たれた家畜にのみ許される言葉である」


 俺はWordの真っ白な画面に、今日も救いようのない呪詛を並べる。これは創作などではない、排泄だ。

 大学の古びた本に囲まれた黴臭い部室、埃の舞う部屋の隅で俺は独り、液晶の暴力的な光を浴びて、死んだ言葉を書き連ねていく。

 壁一枚隔てた向こう側では、家畜たちが文学ごっこに興じている。弾むような声。輝くような未来の相談。薄っぺらい言葉、俺にとって言葉は、己を切り刻む”刃„でしかないというのに。


 文学サークルという名の、互いの傷を舐め合うだけの低俗な集会。その中心で太陽のように笑う二回生の宮尾。あいつが笑うたび、俺の耳の奥では不協和音が鳴り響く。


「乾さん、また難しい顔で書いてる」


 覗き込んできた宮尾の瞳は、どこまでも澄んでいた。その透明さが、俺には何よりも耐え難い。俺は何も言い返せずに目を逸らした。網膜に焼きついた宮尾の残像が、毒のように熱を持って消えない。


 その日、俺は初めて宮尾の夢を見た。

 始まりは現実の焼き増しだった。部室で独り呪詛を吐く俺と、仲間に囲まれる宮尾。だが、繰り返すうちに夢は粘り気を持って変質していった。

 俺だけが意思を持って動くことができる。

 最初に試したのは、宮尾に話しかけられたあの瞬間、何と答えれば良かったのか、ということだった。だが、何を返しても返ってくる言葉は同じだった。


 夢から覚めて、俺は日記に夢の内容を書き連ねた。今夜は何を言うべきか。呪詛とは違う、好奇心を連ねる。真っ白な紙が目に眩しい。目が霞み、今夜も俺は眠りについた。


 その日の夢はいつもと同じ場所から始まった。


「乾さん、また難しい顔で書いてる」


 鼓膜を撫でる絹糸のような声、それが俺の自尊心をじりじりと削り取るヤスリに変わった瞬間、俺は震える指先で宮尾の頬に触れた。夢だというのに、指先から伝わる体温はひどく生々しく、陶磁のような滑らかな肌に自分の指が沈んでいくのがわかった。

 俺は欲望のまま宮尾をテーブルに押し倒した。


 目が覚めると、部屋は茹だるような熱気に包まれていた。

 ふと右足の付け根に違和感を感じてズボンを捲り上げる。そこには、昨夜俺が夢中で掴んだ指の形のまま、腐った葡萄のような色の痣が浮き出ていた。触れると鈍い痛みが脊髄を駆け上がる。宮尾の肌に触れた瞬間の、脳が焼けるような快感に似た痛み。その痛みに、まるで宮尾がそこに宿っているような錯覚を覚え、恍惚とした吐き気を催した。



 次の日から、俺は何度も宮尾に触れた。触れるたび痣は濃く、黒く、甘い痛みを引き起こした。夢日記は次第に欲望で埋め尽くされた。


 部室の扉を開けると、黴臭い空気と安っぽい芳香剤の匂いが鼻を刺し、俺は忌々しい現実に引き戻される。本当は今すぐにでも眠りにつきたかった。瞼の裏にある、あの淫らな楽園に。だが、飢えた獣のように宮尾の姿を凝視する。新しい服、新しい表情、新しい声。それら全てを網膜に焼き付け、夢というキャンバスを補完するために。


 いつものように部屋の隅でノートパソコンを開く。隣のテーブルでは弾む笑い声に宮尾の声が混じる。俺はズボンの上からそっと内腿を撫でた。布越しに腐った果実のような感触が指先に伝わる。その時、宮尾が不意に声を上げた。


「昨日ぶつけちゃってさ、内腿に痣出来たんだ」


 耳の奥では、ピアノ線が千切れるような不協和音が響く。


「マジ?痛そう」

「超痛い。見る?」

「見ねぇよ、こんなとこで脱ぐなって」


 ふざけ合う声が、粘り気のある熱を持って鼓膜に張り付く。俺の心臓は肋骨を内側から叩き割らんばかりに拍動した。脂ぎった冷や汗が毛穴から吹き出し、マウスを握る手がじっとりと湿る。液晶の光が眼底に突き刺さり、脳漿を掻き回すような激痛が走った。

 甘美な痛みが再び脊髄を駆け上がる。俺は下唇を噛み、込み上げる笑いを必死に押し殺した。


 俺はマウスから手を離し、自分の右手の五本指を見つめた。この指が、夢の境界線を超えてあいつの肉を掴んだのだ。指先が微かに痺れている。まるで、まだ宮尾の柔らかな内腿の熱が残っているように。


「乾さん、どうしたの?顔、真っ青だよ」


 宮尾がこちらの異変に気づき、顔を覗き込んできた。さっきまで他の奴に見せようとしていた、あの痣のある脚をこちらに向けて。一瞬、その場で叫び出しそうになった。

 だが、俺は極めて冷静に震える声で答えた。


「…少し、寝不足なだけだ」

「なんだ、びっくりした。あんまり根詰めすぎちゃダメだよ」


 宮尾は透明な目を細め、俺の肩をポンと叩いた。叩かれた場所が、火傷のように熱い。


──待ってろ。


 俺は心の中で毒を吐き、足早に部室を後にした。

 外はまだ夕闇が始まったばかりだが、俺にはもう、夜の訪れが待ち遠しくてたまらなくなっていた。

 早く帰ろう。

 早く、あの真っ暗な布団の中へ。

 今夜は脚だけじゃない。次はどこに触れてやろうか。

 どこを掴めば、明日の朝、お前はもっと悲鳴を上げるだろうか。

 アパートへ向かう足取りは、いつになく軽やかだった。



 宮尾との繋がりを得た俺は、生活の全てを眠りに捧げた。夢の中で宮尾を支配する時間が俺にとって唯一の”真実„だった。


 講義中も、食事中も、いかに効率よく眠り、深い夢へと潜るかということしか考えていなかった。心療内科で嘘を吐き、睡眠剤を掠め取った。

 夜になれば「今夜は右の手首を折る」と予約するように書き殴った。酒と睡眠剤を半分、胃が焼けるような痛みと吐き気が込み上げるが、俺は日記の上で気絶するように眠った。


 大学の廊下ですれ違った宮尾はかつての輝きを失っていた。真夏だというのに首元にストールを巻き、笑顔もどこか引き攣っていた。サークルの仲間たちは心配そうにしているが、俺だけは知っている。そのストールの下にある、俺が昨夜、夢の中で熱心に刻み付けた”証„を。


 俺の体も限界を迎えていた。頬は痩け、目が血走った俺の姿は黒い液晶の中で青白い幽霊のように映る。だが、それでいい。現実の俺が削れるほど、夢の中の宮尾は鮮明になり、より深く、より残酷に愛でることが出来る。


 講義中、カフェインで無理やり引き摺り出した覚醒と、睡眠剤が誘う強烈な眠気が、俺の脳内で激しく衝突し、視界をセピア色に染め上げる。


「乾さん、本当に顔色悪いよ。休んだほうが」


 覗き込んできた宮尾の顔が、三重にも四重にも重なって見える。俺は返事をする代わりに、喉元のストールを睨みつけた。昨夜、俺が夢の中で必死に噛みついた場所だ。俺は震える指でストールを握った。


「俺だけは知っている。ストールの下、何があるのか」


 宮尾は俺の手を払い除けると、ストールを握り締め、俺の目を見て距離を取る。


「あんた、気持ち悪いよ。薬でもやってんの?」


 俺はぼんやりとする頭で、蔑むような憐れむような顔の宮尾を見た。


「そこ。私語厳禁だぞ」


 教授の注意する声が、夢見心地の俺の頭を引き戻した。宮尾は俺を見て、それから再びホワイトボードへ目を戻す。払い除けられた手が痛む。俺は細枝のようになった己の指を見つめた。

 視界が歪み、脳漿に激しく金切り声のような不協和音を響かせる。


 俺はアパートへ帰るなり、酒を煽り、胃が焼けるような不快感に身を委ねる。

 早く、早く(あいつ)を連れてこい。

 現実という名の雑音を消し去るために、俺は今日も自分の肉体を削り、どす黒い眠りの海へと身を投じる。



 次に目を開けたとき、視界を刺したのは泥のような暗闇ではなく、ガラス張りの壁から差し込む太陽光だった。

 大きな展示ホールを埋め尽くす熱気、紙の匂い、そして数百人分の吐息が混じり合い、俺の鋭敏になった鼻腔を容赦なく蹂躙する。数日間の絶食と過剰な薬物摂取のせいで、俺の平衡感覚は死にかけていた。歩くたびに、地面が湿ったスポンジのように沈み込む感覚がある。

 サークルの共同ブースには、華やかに装飾された宮尾たちのスペースとは対照的に、俺の”評論„が置かれた一角だけが、まるで遺影を飾る祭壇のように冷え切っていた。


「乾さん、生きてる?」


 横から声をかけてきたのは、ストールを外し、いつもの明るい笑顔を貼り付けた宮尾だった。

 講義中、俺を「気持ち悪い」と切り捨てたあの蔑みの表情は夢だったのか。それとも、こいつの記憶から都合よく消去されたのか。宮尾は、俺が命を削って喉を締め上げ、痣を刻みつけたはずのその首筋を、無防備に晒して笑っている。


「…執筆に、少し命を使いすぎただけだ」

「はは、相変わらず大袈裟だなぁ」


 宮尾は楽しそうに笑い、手際よく自分の新刊を並べていく。あいつの書く物語は、ただ消費されるだけの退屈な娯楽だ。それなのに、あいつのブースには人だかりができ、小銭が落ちる音が絶え間なく響き始める。


 俺の本は、一冊も動かない。

 俺の魂の排泄物。宮尾との血の滲むような夢の記録。

 世界に拒絶されている。

 俺は机の下で静かにエナジードリンクの空き缶を握りつぶした。不協和音が、会場の喧騒と混ざり合い、巨大な耳鳴りとなって俺を包囲していく。

 そんな時だった。

 客足が途切れた一瞬、宮尾が無造作に俺の本を手に取った。宮尾は、俺が血を吐く思いで綴ったその一冊を、まるでコンビニの棚にある雑誌でも選ぶような軽薄な手つきでパラパラとめくった。

 俺の心臓は、壊れた時計のように不規則な拍動を刻む。その一頁一頁には、俺が夢の中で宮尾に加えた陵辱が、吸い上げた熱が、形を変えた言葉となって刻まれている。


 読まないでくれ。いや、跪いて読み耽ってくれ。


 矛盾する二つの祈りが脳内で激突する中、宮尾は数頁で本を閉じると、あろうことか満足げに微笑んだ。


「あぁ…うん。悪くないね」


 視界が、真っ白に弾けた。


「…悪くない、だと?」

「うん。少し表現が凝りすぎてて読みづらいところもあるけど、独特で面白いんじゃないかな。俺は好きだよ」


 その言葉は、俺の鼓膜を通り抜けた瞬間に汚物へと変わった。

 宮尾は、俺の”真実„を理解したのではない。ただ、自分の理解できる範疇の”エンターテイメント„としてレッテルを貼っただけだ。俺が命を削って刻んだ痣の痛みも、執着も、こいつにとっては「独特な表現」という一言で片付けられる程度に過ぎなかったのだ。


 俺の文学は、こいつに消費された。


「…そうか」


 耳の奥の不協和音が、今や地鳴りのような轟音となって俺の意識を支配する。宮尾は「あ、客が来た」と、すぐに自分の輝かしい世界へと戻っていった。俺は自分の本をひったくるように掴むと、逃げるように会場を後にした。



 アパートへ戻る道すがら、俺は何度も嘔吐(えず)いた。

 現実が、あまりにも汚らわしい。あんなに近くに感じていたのに、首には確かに俺の指の跡があったはずなのに、言葉を交わした瞬間にすべてが偽物になった。

 アパートのドアを閉めた瞬間、俺はガムテープを二重に貼り、一筋の光も許さなかった。残っていた睡眠剤をすべて手のひらにぶちまけ、酒と共に一気に流し込む。喉が焼け、胃が痙攣する。だが、その激痛が心地よい。

 殺してやる。夢の中の従順な宮尾ではなく、俺をあんな薄笑いで肯定した、あの現実の宮尾を。

 日記を開く。文字を書く手はもはや震えていなかった。

 「殺す」

 狂ったように文字を並べ続け、俺は昏睡に近い眠りへと沈んでいった。



 気がつくと、俺は自分の部屋にいた。

 暗い、いつもの部屋。だが何かが違う。インターホンが、執拗に鳴り響いている。

 チェーンをかけたままドアを開けると、そこには宮尾が立っていた。ストールも巻かず、講義で俺を拒絶したあの冷たい瞳でもなく、ただ困ったような顔をして。


「ノート、取り忘れたから貸してほしいんだ。…それから、さっきはごめん。あんたの言葉も、本も、本当は好きなのに」


 「気持ち悪い」と言ったことさえも忘れ、「悪くない」と軽く評したあいつがこんな所へ来るはずがない。俺の歪んだ願望が、夢の宮尾にそう”告白„をさせたのだと即座に理解する。俺は宮尾を部屋に押し入れ、そのまま床に押し倒した。


「あぁ、いいよ。全部、俺が教えてやる」


 俺は両手を、宮尾の細い首にかけた。

 今までの愛撫とは違う、殺意の硬度を持って力を込める。宮尾の喉の軟骨が、嫌な音を立てて軋む。顔が驚愕に染まり、やがて赤黒く鬱血していく。指に伝わる、必死に生きようとする脈拍。それが一つずつ途切れていくたび、不協和音は、音楽のような調和へと変わっていった。



 全ての拍動が完全に動かなくなった宮尾の体の上に、俺は崩れるように重なった。今までで一番深い、泥のような疲労が全身を包む。

 俺は勝利の余韻に浸りながら、ゆっくりと瞼を閉じた。



 次に目が覚めたとき、指先に触れたのは、シーツの感触ではなかった。

 それは、石鹸の匂いが微かに残る、だが氷のように冷たくなった、本物の肉の重みだった。

 俺は弾かれたように跳ね起きた。暗闇に慣れた眼が、シーツの上に転がる”それ„を捉える。


 宮尾だった。


 ストールを剥ぎ取られたその首筋には、どす黒い紫色の指跡が深く食い込んでいる。見開かれた瞳は白濁し、焦点の合わない眼球が、ありもしない天井の闇を見つめていた。


「…あ、あ…」


 声にならない悲鳴が喉にせり上がり、俺は布団から転げ落ちた。

 窓はガムテープで目張りされ、部屋は一滴の光も通さない完全な密室。宮尾がここへ来るはずがない。鍵はかかっていた。俺は一度も立ち上がっていない。なのに、隣には冷たくなった宮尾がいる。


「違う、これは、夢だ。まだ覚めていないだけだ」


 俺は自分の腕を血が出るほど噛んだ。鋭い痛みが走る。だが、世界は消えない。それどころか、死体からは不都合な現実が立ち上がり始めていた。


──暑い。

 閉め切られた八畳間の室温は、真夏の熱気と、俺自身の脂ぎった汗と吐息で異常に膨れ上がっていた。

 このままでは、こいつはすぐに腐る。

 ”文学„でも”真実„でもない、ただの不潔な肉の塊として、ドロドロに溶けて悪臭を放ち始める。


「隠さないと。どこか、涼しい場所に…」


 俺は這いつくばって台所へ向かった。視界に入るのは、一人暮らし用の小さな古びた冷蔵庫。俺は狂ったように中身をぶちまけた。一昨日買った缶ビール、ラップのかかった惣菜。それらをすべて床に捨て、棚の仕切りを力任せに引き抜いた。


 俺は布団を剥ぎ取り、宮尾の体を無理やり冷蔵庫の狭い空間に押し込んだ。だが、死後硬直が始まっているのか、思うように曲がらない。俺は宮尾の背中に膝を乗せ、全体重をかけて押し潰した。ミシミシと、肋骨が軋む音が狭いキッチンに響く。


「入れ…入れよ…お前は俺の、俺だけのものなんだから…!」


 ようやく、宮尾は体育座りのような歪な形で収まった。扉を閉め、ガムテープで隙間を塞ぐ。モーターが重苦しい音を立てて回り始めた。


 俺は、その場にへたり込んだ。

 手にはあいつの肌の冷たさと、脂のような感触がこびりついている。ふと視線を落とすと、床に落ちた俺の”夢日記„が開いたままこちらを見ていた。そこには、俺が今まさにやり遂げたはずの”殺害„の描写は一行も書かれていなかった。



 それから数日間、俺の日常は”沈黙„と”異臭„に支配された。

 サークル棟へ行くと、部室は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。


「宮尾くんと連絡がつかない」


 仲間たちが青い顔でスマホを握りしめている。その隅で、俺はいつものように埃っぽい席に座り、ノートパソコンを開いた。俺の耳の奥では、不協和音ではなく、冷蔵庫のモーター音のような低い唸り声が鳴り続けている。

 アパートへ戻るのが怖かった。ガムテープで幾重にも密閉したはずの冷蔵庫から、何かが”漏れ出て„いる気がしてならない。


 四日目の夜だった。

 狭いキッチンに立ち尽くす俺の鼻を、逃げ場のない悪臭が突いた。それは、夏の熱気に当てられた生肉が、粘り気を帯びて溶けゆく匂い。

 ふと足元を見ると、冷蔵庫の底からどろりとした赤黒い液体が這い出していた。俺は狂ったように雑巾で拭い取った。だが、拭けば拭くほど、その液体は鉄錆のような、あるいは宮尾の石鹸の香りを無残に汚したような臭いを放ち、部屋中に充満していく。

 その時、静寂を裂いてインターホンが鳴った。心臓が喉から飛び出しそうになる。


「警察です。下の階の方から、異臭がするとの通報がありまして」


 俺は動けなかった。


「開けてください。確認だけですから」


 無理やりこじ開けられる前に、俺は震える手でチェーンを外し、扉を数センチだけ開けた。二人の警官が、怪訝そうな顔で俺を見ている。その視線の先は、俺の背後、あの異臭の源であるキッチンへと向けられていた。


「ひどい臭いだ。失礼しますよ」


 彼らは拒む間もなく、土足で俺の聖域を蹂躙した。一人が鼻を抑えながら、一直線に冷蔵庫へ歩み寄る。


「ここから漏れてますね」


 終わった、と思った。

 俺の文学も、宮尾との心中も、すべてが白日の下に晒される。

 警官の手が、ガムテープの貼られた冷蔵庫の取っ手にかけられた。バリバリと、乾いた音がしてテープが剥がれる。

 俺は目を閉じた。扉が開く、重苦しい音がした。


「…なんだ、これ」


 驚愕の声に、俺は恐る恐る目を開けた。

 冷蔵庫の中は、空だった。

 棚の仕切りも、放り込んだはずの宮尾の死体も、何もない。ただ、底の方に、あの忌々しい赤黒い液体だけが、水溜りを作って淀んでいるだけだった。まるで最初から宮尾などいなかったと言うように。



「俺が殺した。俺が、あいつを冷蔵庫に詰めたんだ」


 警察署の取調室の無機質な蛍光灯の下で、俺は何度も同じ言葉を繰り返した。だが、刑事たちは困惑した顔で互いを見合わせるばかりだった。


「乾さん、落ち着いてください。宮尾くんの行方不明届も出されていますが、あなたの部屋から事件性を示す証拠は何も出ていない。あの液体も、ただの腐った野菜の汁と生活排水が混ざったものだと…」

「違う! 俺は確かに、あいつの喉を締めたんだ! 指に、この指先にまだ感触が残っているんだ!」


 俺は叫び、自分の指を突き出した。だが、刑事の目には、痩せ細った男の指にしか見えていなかった。

 自首してもなお、俺の”真実„は世界に拒絶される。俺は精神鑑定を待つため、薄暗い留置場の一室に閉じ込められた。

 コンクリートの床に横たわり、俺は必死に目を閉じた。

 宮尾に会わなければならない。

 現実が俺を認めないのなら、夢の中に、俺たちの本当の結末があるはずだ。



 茹だるような熱気に、俺は目を覚ました。そこは、留置場の冷たい床ではなかった。慣れ親しんだ、アパートの一室。

 自首も、警察も、すべてが悪夢だったのかと胸を撫で下ろそうとしたその時。

 キッチンの冷蔵庫から、あの鼻を突く”体液„の腐った臭いが漂ってきた。

 慌てて玄関へ向かうと、ドアの隙間に光熱費の支払いの督促状が挟まっている。支払いを忘れていたせいで、冷蔵庫の電源が落ち、中の”宮尾„が腐り始めたのだ。

 俺は狂ったようにコンビニへ走り、氷を買い、支払いを済ませた。だが、戻ってきたアパートの階段下には、赤色灯を回したパトカーが数台停まっていた。


 俺は氷の袋を投げ捨て、肌身離さず持っていた”夢日記„だけを掴んで、裏手にある深い山の中へと駆け込んだ。

 巨大な杉の木陰に凭れ、荒い息を吐きながら俺は日記をを捲る。そこには、俺と宮尾が夢の中で貪り合った、悍ましくも美しい情事の数々が書き連ねられていた。だが、何度読み返しても、「宮尾を殺した」という記述がどこにもない。


「俺が、本当に宮尾を殺したのか? ならば、あいつが俺を「好きだ」と言って受け入れたのは、夢じゃなかったのか?」


 現実と夢が、裏表を失ったコインのように激しく回転し始める。混乱に耐え切れず、俺は逃げるように重い瞼を閉じた。



 目を開けると、木漏れ日の中に宮尾が立っていた。あの時と同じ、ストールのない、無防備な首筋を晒して。


「…何で、俺を殺したの?」


 宮尾の声が、静かな森に響き渡った。



 「何で、殺したの?」


 木漏れ日の中に立つ宮尾は、ひどく穏やかだった。その透明な瞳が、言葉が、逃げ場のない”刃„となって俺を貫く。


「文学だけでも優位に立っていると思っていたのに、「悪くない」なんて、慈悲のように俺を肯定し、軽薄なエンターテイメントのように消費したからだ」


 俺の咆哮に近い告白を、宮尾は冷めた笑みで受け流した。


「結局、人よりも優位に立つことしか考えていないんだよ。実力も伴っていないのに、自尊心だけはこの森よりも遥かに立派だ。…いいか、あれはただの社交辞令だ。あんたの本なんて、一文字たりとも読んでいない」


 心臓が凍りつく。


「俺の物語の方がずっと優れている。何故かわかるか?形振り構わず宣伝して、それが評価につながってる。努力をしてるんだよ。一方であんたは格好つけて斜に構えて、自分を特別だと思い込みたいだけ。憎むべきは俺じゃない。隅の方で小さくなって世間に毒を吐き、素直に「読んでください」と言えないあんた自身さ」


 俺は怒りで拳を握った。支配していたはずの”俺だけの宮尾„が牙を剥いた。針の穴を通すように的確に、俺の心の柔らかな部分を”刃„で貫く。


「お前の評価は上っ面だけの、仲良しごっこで互いに評価を付け合った結果だ。俺は違う。純粋に俺の書く言葉が好きな人間が評した本当の評価だ」

「そう思っていればいい。それでも、本は読まれて評価された者が勝者だ。好きな人だけに読まれ、その人たちだけに向けて書くのは、あんたの言う仲良しごっこと何が違う?」


 宮尾の言葉は、俺が夢の中であいつに刻んだ痣よりも深く、俺の魂を抉り取った。俺は、再び逆上してあいつの首を絞めた。だが、宮尾は抗うことなく、ただ俺の顔をじっと見て笑った。



 目が覚めた。茹だるような熱気はない。アパートの一室。パソコンの液晶が青白く光り、白い画面に文字が浮かんでいる。


『何で俺を殺した?』


 俺は悲鳴を上げて椅子からのけぞり、冷蔵庫を、押し入れを、部屋のすべてを確認した。

 死体はない。体液の臭いもしない。

 突然、インターホンが鳴った。チェーン越しに扉を開けると、そこには二人の警察官が立っていた。


「異臭がするとの通報を受けたので、各部屋を確認しています。一階の方が、上から腐ったような臭いがすると」


 一階?ここは三階だ。臭いが上から降ってくるはずがない。


「異臭はいつから?」

「つい昨日ですよ。夏ですからね、猫か何かが壁の中で死んだんでしょう」


 「そうですか」と答え、されるがままに部屋を見せた。冷蔵庫も押し入れもすべて確認し、頭を下げて出ていった。

 何もない。やはり、すべては夢だったのだ。

 俺は安堵し、壁に寄りかかった。その時、ふと壁の向こうから微かな音が聞こえた。


「もしもし?ここから出してくれませんか?」


 それは、紛れもない宮尾の声だった。


「お前は、猫か?」

「いいえ、私は犬です」

「何でそんなところにいる」

「あなたがここに閉じ込めたんでしょう?」

「…あれは、夢じゃなかったのか」

「さぁ。夢であって欲しかった?」


 逃げ場のない問いかけに、俺の心拍が跳ね上がる。


「俺は殺してないし、嫉妬なんかしていない。努力もしているのに、なぜあいつが、あいつだけがすべてを奪っていくんだ」

「あいつって?」

「夢に出てくる、鬱陶しい奴だ」

「みゃお〜」

「ふざけるな、お前は犬だろ」

「そうですよ。あなたのような、卑しい負け犬です」

「負けてない」

「何に?」


 問い返され、言葉が詰まった。


「あなたはいつから、何と戦っているんです?勝手に負けたと思い込んで、嫉妬して。相手は何も思っていないのに、あなただけが固執して、自分を特別だと思い込もうとしているだけなのでは?」

「うるさい」

「そうやって他人の言葉を否定して拒否するから、自分だけの世界から抜け出せないんでしょう?仲良しごっこで気持ちよくなっているのは、一体誰でしょう?」

「うるさい!」


 俺は拳を壁に叩きつけた。何度も、何度も、右手の皮が弾け、血が壁を汚すまで。ようやく空いた穴の中に指を突っ込み、内側の暗闇を掻き毟る。

 だが、そこには何もなかった。

 声も、宮尾も、犬も、猫も。ただの、空虚な空間があるだけだった。

 無気力な感覚に襲われて膝をつく。傍にはあの”夢日記„がある。これまでの出来事は、すべてこのノートの中に刻まれているはずだ。俺が宮尾を支配し、繋がったという唯一の証拠が。震える指でページを捲った。


 白かった。

 一頁目も、中盤も、最後の一頁まで。インクの染み一つ、ペンを走らせた跡さえもなかった。

 俺が心血を注いで綴り続けたあの”不協和音の羅列„も、宮尾の肌に刻んだ”痣の記録„も、何一つとして存在していなかったのだ。

 最初から一文字も書かれていない白紙の束だった。

 目の前が、真っ白に塗り潰される。

 俺は、自分が誰なのかも思い出せないまま、ただ白紙の海へと沈んでいく。


「俺は、誰になりたかったんだ」


 その時、静止した空気の中、耳元で、湿り気を帯びた間の抜けた声が響いた。


「みゃお〜」

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