春冷え、と逃亡
春の夕暮れは、無駄にドラマチックだ。
空は馬鹿みたいに綺麗なグラデーションを描き、桜の花びらが視界を塞ぐように舞い散っている。ミュージックビデオの撮影なら完璧なロケーションだろう。
私は丘の上から、豆粒のような駅のロータリーを見下ろしていた。
午後六時。彼が東京から帰ってくる時間だ。
デニムジャケットの襟を、左手でぎゅっと握りしめる。感傷に浸っているわけではない。さっき駅裏の喫煙所で急いで吸ったメンソールタバコの匂いが、髪や服に染み付いていないか、必死に嗅いで確かめているのだ。禁煙したと彼には嘘をついているから。
「大事な話がある。あの展望台で待ってる」
LINEでそう送信した昨日の夜までは、私は悲劇のヒロインを気取っていた。綺麗な夕日を背景に、涙の一つでも流して、私の浮気を「寂しさが埋められなかった」という美しい言い訳でコーティングして、相手を納得させるつもりだった。だからわざわざ、まだ肌寒いのに、彼が好きだったショートパンツまで穿いてきたというのに。
改札から、見慣れたシルエットが出てきたのが見えた。彼だ。律儀に、私たちが指定した待ち合わせ場所へと続く階段を上り始めている。
その瞬間、ひどく面倒くさくなった。
ドラマチックな背景もまるで舞台を用意されたようでかえって興が覚めてしまった。
泣くのも、責められるのも、本当は自分が100%悪いのに悲しい顔を作って取り繕うのも。全部。
あーあ、足、冷えちゃったな。
花びらが一枚、半開きになっていた私の口に飛び込んできて、ぺっと吐き出した。変に甘ったるくて、泥臭い味がした。
ジーンズのポケットでスマホが震える。画面には彼の名前。
私はそれを見つめ、一つ深呼吸をしてから、電源を切った。
美しい別れなんてやめた。
話し合いすら放棄して、ただすっぽかす。彼の中で私は最低の女となり、最低の思い出となるだろう。それでいい。偽物の涙すら彼に捧げる気分ではなくなった。
彼は今頃、階段の途中でどんな顔をしているのだろう。ああ、そんな足早に駆けつけてこないでよ、馬鹿みたい。息を切らして「ごめん、待った?」なんて言われることを想像したら、申し訳ない気持ちも用意周到な言葉も吹き飛んでしまった。
私はくるりと踵を返す。もうポケットに突っ込んだ手は次のメンソールを探している。
眼下の美しい街並みも、舞い散る桜も、煙草の匂いも、もうどうでもよかった。
とりあえず家に帰って、こたつに入って熱いカップ麺でも啜りたい。
ただそれだけを考えながら、私は足早に丘を下り始めた。




