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闇の鏡像

作者: しじたろう
掲載日:2025/12/27

アレックスは古道具屋で全身鏡を探していた。モデルを雇う金がなく、自分でポーズをとって鏡を見ながら絵を描くためだ。


3日に一回のペースで掘り出し物がないか探していたある日、陳列棚の奥に隠されるように立てかけられた全身鏡をついに見つけた。

片方だけの靴や何の部品かわからないネジが箱いっぱいに売られているような店には不釣り合いな、美しい装飾の全身鏡だ。枠は黒檀のような深い木目で、縁に絡みつく薔薇の彫刻が優雅に咲き乱れていた。鏡面は埃を被っていたが、拭けば完璧に映るだろう。

すぐに購入を決意し、店主に声をかける。


「その鏡はやめたほうがいいよ。変なものが映るんだ。どうしても買うってんなら、返品はお断りたぜ」


老いた店主はそう呟きながら、目を逸らした。値札は信じられないほど安かった。まさに掘り出し物だ。アレックスは笑って首を振り、鏡を抱えて店を出た。


アパートに戻ると、早速部屋に持ち帰り、ベッドの横の空いたスペースに全身鏡を立てかけた。画布や絵の具の瓶が散らばる狭い部屋に、鏡は異様な存在感を放っていた。夕暮れの薄オレンジの光が窓から差し込み、鏡面を妖しく照らす。アレックスは布で埃を拭い、初めて自分の姿を真正面から見た。


……不思議だった。鏡の中の自分が、少しだけ微笑んでいるように見えた。いや、気のせいだろう。疲れているのだ。


その夜、アレックスはいつものようにキャンバスの前に座った。鏡を横に置き、自分の裸の肩から腕のラインをスケッチする。だが、筆が進まない。視線が自然と鏡に引き寄せられる。鏡の中の自分は、確かにそこにいるのに、どこか違う。目が深い。肌が白すぎる。そして、背後に――何かが立っているような気がした。

振り向いても、部屋には誰もいない。


翌朝、目覚めたアレックスは鏡の前に立っていた。いつの間にか起き上がり、裸足で近づいていたのだ。鏡面に指を這わせる。冷たい。だが、その冷たさが心地よい。鏡の中の自分が、ゆっくりと首を傾げた。まるで、誘うように。


「君は孤独だね」


低く、響く声がした。耳ではなく、心に直接届くような声。

アレックスは息を呑んだ。鏡の中の自分が、唇を動かしている。いや、違う。自分の唇は動いていない。鏡の中の「何か」が、微笑みながら語りかけている。


「僕なら、君の影をすべて受け止めてあげる」


その何かはダミアンと名乗った。鏡の中だけに現れる、美しい男。黒い髪が肩まで流れ、瞳は深い紫。アレックスがこれまで描いたどのモデルよりも完璧な顔立ちだった。肌は月光のように白く、唇は薄く赤い。


最初は幻覚だと思った。過労のせいだ。だが、夜が来るたび、ダミアンは鏡の中から語りかけてきた。



最初のうち、アレックスはそれを無視しようとした。幻覚だ。疲労の産物だ。朝が来れば消えるはずだ。そう自分に言い聞かせ、鏡に布をかぶせてベッドに潜り込んだ。

だが、夜の闇が部屋を覆う頃になると、布は自然と落ち、鏡面が露わになる。

アレックスは知らず知らずのうちに起き上がり、鏡の前に座っていた。冷たい床が足に心地よい痺れを与え、視線を鏡に固定させる。


一晩目。ダミアンは静かに微笑みながら、こう言った。


「君の筆は、美しい。だが、誰もそれを理解しないんだね。美学校を卒業してから、何年経った? 毎日、キャンバスに向かうのに、評価はいつも後回し。君の線は繊細すぎるのか、それとも世界が鈍感すぎるのか」


アレックスは息を止めた。どうして知っている? 誰もに話したことのない過去。

美学校での日々は、希望に満ちていた。教授たちは才能を認めてくれたが、卒業後の現実は冷たかった。

個展を開いても、批評家は肩をすくめ、ギャラリーのオーナーは「もっと派手なものを」と勧める。人見知りの性格が災いし、社交の場ではいつも壁際に立っていた。

画家たちの集まりでは、笑顔で輪に入れず、独りでワインを傾けるだけ。孤独が積もり、筆を握る手が震えるようになった。


「気のせいだ。君は存在しない」


アレックスは鏡に背を向け、ベッドに戻ろうとした。だが、足が動かない。ダミアンの声が、心の隙間を優しく撫でる。


「僕なら、君の絵を理解するよ。アレックス。君の孤独を、すべて受け止めてあげる」


二晩目。鏡の前に座ったアレックスは、すでに抵抗が薄れていた。ダミアンの瞳が、紫の深みで彼を引き込む。声は低く、響く。


「先祖の影が、重いんだね。有名な画家――君の曾祖父か? 事あるごとに比べられて。『お前はあの天才の血を引いているのに、なぜこれだけ?』と。家族の集まりで、叔母の視線。画壇の噂。君はそれが嫌で、故郷を離れたのに、鏡を見るたび、その幻影が追ってくる」


アレックスは拳を握った。曾祖父は19世紀の巨匠。肖像画で名を馳せ、美術館に作品が並ぶ。子供の頃から、アレックスは「才能の継承者」と期待された。だが、自分のスタイルは抽象的で、伝統を崩すもの。批評はいつも「曾祖父の足元にも及ばない」とこき下ろした。傷は深く、筆を折りたくなる夜もあった。

ダミアンはそれを、すべて知っているかのように語る。


「なぜ知っているんだ?」


「君の目が、語っているよ。アレックス。僕はその影を、君から取り除いてあげる。僕の元へ来れば、誰も君を比べない。君はただ、僕のものになる」


アレックスは鏡に手を伸ばした。冷たい鏡面が、指先を震わせる。恐怖が胸を締めつけるのに、ダミアンの言葉が甘く染み込む。

孤独が溶け、代わりに奇妙な安堵が広がる。鏡から離れられず、その夜は朝まで座り続けた。


三晩目。ダミアンの声は、より親密になった。


「人見知りで、誰も近づけない。画家たちのパーティーで、独りぼっち。ギャラリーの人間は君を無視し、君の絵を棚に追いやる。だが、僕なら違う。君の傷を、優しく包んであげる。君の筆を、僕が導く」


アレックスは頷きそうになった。いや、まだ抵抗する。だが、体は鏡に寄りかかり、首筋を無意識に撫でる。

ダミアンの視線が、そこを狙うように熱い。四晩目、五晩目。夜ごとに、ダミアンはアレックスの過去を一つずつ暴き、受け入れる。曾祖父の比較で生まれた自己嫌悪。人見知りがもたらす孤立。評価されない創作の苦痛。すべてを「僕が癒す」と囁く。


アレックスは鏡の前に座るのが習慣になった。筆を置いて、鏡を見る。ダミアンの美しさが、心を支配する。恐怖は残るが、抗えない。

鏡の中の自分が、ダミアンに重ねられ、微笑む。


やがて、アレックスはダミアンの存在を、受け入れ始めた。孤独の闇が、ダミアンの紫の瞳に溶け込む。

鏡はもはや道具ではなく、門。夜が来るのを、待ちわびるようになった。

ダミアンの声が、心を縛る鎖のように、甘く締めつける。



「君は僕を必要としている。僕も、君を」


ある夜、アレックスは鏡の前で膝をついていた。震える手で自分の首筋を撫でる。ダミアンが囁く。


「もっと近くへおいで。君の温もりが欲しい」


理性では拒否していた。逃げろ。これはおかしい。鏡を捨てろ。

だが、体が動かない。いや、動きたくない。ダミアンの視線が、心を絡め取る。

恐怖が胸を締めつけるのに、同時に甘い痺れが背筋を走る。

鏡に額を押し当てる。冷たい鏡面が肌に張りつく。ダミアンの手が、鏡の中から伸びてくるように感じた。実際には何もないのに、首の後ろに指の感触。ゆっくりと、髪を掻き上げる。


「首を、差し出して」


アレックスは従った。震える唇で息を吐き、首を傾けた。鏡の中の自分が、ダミアンと重なり合う。恐怖で涙が滲む。

嫌だ。逃げたい。なのに、体が熱い。抗えない。

鋭い痛みが走った。牙が刺さる瞬間、首筋に火が灯ったような激痛。血が吸い出される感覚。体が硬直し、息が詰まる。


だが、次の瞬間――痛みの奥から、微かな、甘い痺れが広がった。血が流れるたび、痺れが全身を駆け巡る。まるで鎖で繋がれたような、甘い束縛。


「もっと……」


アレックスの声が、掠れて漏れた。

恐怖と嫌悪が心を叫ぶのに、体はダミアンに寄りかかる。

鏡の中のダミアンが、満足げに微笑む。血の滴る唇が、優しく囁く。


「君はもう、僕のものだ」


痛みが溶け、闇に包まれる。快楽のような、被虐の恍惚。アレックスは鏡にすがり、首をさらに差し出した。


毎夜、毎夜。鏡はもう、ただの鏡ではない。


アレックスの絵は、変わっていった。キャンバスに描かれるのは、いつも首を傾げ、血を捧げる自分の姿。瞳は虚ろで、唇は微かに微笑んでいる。


古道具屋の店主は、もうあの鏡を売っていない。誰かが買っていったという噂だけが、残っている。


鏡は今も、誰かを待っている。孤独な誰かを。美しい闇を、差し出す誰かを。

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