ある女子生徒について-3
朝顔先生に呼び出された次の日、俺と菜名宮は文化棟に来ていた。ちなみに今は授業中。3限の英語の時間だ。
普通にテストやばいから授業受けたいんだけど菜名宮に連れ去られた。これで成績悪くなったら菜名宮が全部悪いって言ってもいいと思う。
「なぁ…なんでこんなところ来てんの?」
「なんでって、昨日の話もう忘れちゃったの?記憶力無さすぎない?」
「流石に覚えてるわ…ダチョウじゃあるまいし。」
「そんなこと言ったらダチョウが可哀想じゃん。」
「とりあえず一発殴らせろ。」
ちなみになぜダチョウをたとえに出したかと言えば、一般的に物覚えが悪い動物とされているからだ。ダチョウは脳より目玉のほうが大きいらしく、自分の家族のことすらも忘れることがあるほどだそう。
「冗談だよ。」
隣に歩く菜名宮は、面白おかしく笑っていた。
「芽衣奈ちゃんの状況をとりあえず知ることから、って昨日話したよね?だから本人に会いに来たんだ。」
「会いに来た…って。雛城はどこにいるんだよ。」
何回も言うが、今は授業中だ。特別教室が並んでいる文化棟に、人が集まることはほとんどない。
一応副教科の教室も文化棟にあるため、生徒が全くいない訳ではないが、俺が見た感じでは下の階で1年が美術の授業を受けているだけだった。
少なくとも今いる4階には、人影は全くと言っていいほどない。
「ここだよ。」
菜名宮は俺の懸念をよそに、ある方向を指さす。それは俺たちが今登ってきた、階段の方をさし示していた。
「ここ?」
菜名宮は階段の方へ振り向くと、今いる階より更に上へと上がって行く。コツコツと無機質なローシューズの音が響いている。
この学校の校舎は、どちらも4階建てのよくある作りである。今いる場所よりも上に教室はない。この上にあるのは、生徒の立ち入りが禁止されている屋上だけのはずだ。
「何してるの、タキ。早く行くよ。」
菜名宮は踊り場までの半分を登ったところで立ち止まり、こちらへと振り返った。一歩も動かない俺に対してだろう、菜名宮は少し眉を顰めている。
「行くって、屋上に?」
「それ以外どこもないでしょ。この上って屋上以外、何にもないし。」
「確かにそうだけど…」
「とにかくついてきて。」
言うと菜名宮はまた前に向き、階段を一歩一歩駆け上がって行く。俺もそれに続くように、屋上への道を歩き始めた。
「めちゃくちゃ埃まみれだな…」
4階と屋上のちょうど中間地点、踊り場まで来たところで、辺りが埃まみれであることに気がつく。
少し視線を横に向ければ、長年使われていないであろう跳び箱や、すっかり黒ずんだ応援団が使う様なボンボンが無造作に置かれている。人がほとんど寄り付かないこともあり、おそらくずっと放置されているのだろう。
しかも窓がないためほんのりと薄暗い。一応上から光は差し込んではきているので小さな窓は上にはあるんだろうが、それでも他の階よりは幾分闇に包まれている。多分厨二病ごっこが捗る場所だな。
「タキ、早く来て。」
菜名宮は俺が踊り場に視線を移している間に、気づけば階段を登り切っていた。もちろん菜名宮も踊り場を通っている。下から見てもわかるほどに、菜名宮のスカートは埃まみれになっていた。
しかし、当の本人は全く気にする様子もない。ちなみにこの高低差からパンチラがワンチャンあるんじゃないかとか考えた諸君。残念ながら流石にない。そもそも距離めっちゃ離れてるし、角度的にも見えない。というか万が一見えたとしても菜名宮のパンチラは需要ない。少なくとも俺はそこだけ断言できる。
「痛ァ!」
なんか急に頭に何か飛んできた。角度的に上から放たれたであろう小さな何かは、俺の頭に強烈な痛みを与えている。普通に一瞬意識飛びそうになった。
「なんでいきなり人に向かって物投げるんだよ!」
俺の頭にものを投げた犯人であろう菜名宮の方を振り向く。しかし、菜名宮はどこ吹く顔をしていた。
「なんでもないよ。」
「なんでもない訳ないだろ…」
「とにかく、早くこっちにきてよ。一秒一刻も惜しいんだから。」
人にものを投げておいてよくも…と思ったが、多分このまま菜名宮を問い詰めてものらりくらりと交わされる。本人に強い悪意がないことくらいはわかるので、諦めてスルーすることにした。
階段を登り切ると、目の前には水色のドアがあった。水色といっても鮮やかさはほとんどなく、長年使われているからか全体的に黒ずんでいる印象を受ける。ところどころは錆びてボロボロになっており、見た目から相当年季の入ったものだと、簡単に推測できる。
「本当にさ、ここに雛城いんの?」
一応フロアを見回してみるが、ドア以外に目ぼしいものはない。というか1人立ってるのがやっとのスペースで、俺は現に菜名宮よりも一段下にある階段の上に立っていた。
「いるよ。芽衣奈ちゃんはいつもここで授業をサボっているから。」
「なんでそんなこと知ってるんだ?」
「私が授業サボってる時、たまに芽衣奈ちゃん見かけてるからね。」
「お前ってここでサボってたの?」
「違うよ。私がサボってるのは会議室3の方。」
菜名宮はいつも昼食をとっている会議室の方を指差す。そもそもサボんなよっていう話をしようと思ったが多分聞かないからやめた。
「廊下で涼んでる時に、時たま上に登って行く芽衣奈ちゃん見かけてたんだよね。私のサボりが役に立つこともあるもんだ。」
「絶対役に立ってる訳じゃないからなそれ。」
「タキからみれば、サボりは悪に見えるんだ。やっぱり、物事を一面的に判断するのは難しいね。」
「誰から見ても過度なサボりはよくないと思うんだけど。」
まるでこともなさげにしている菜名宮のあまりにも堂々とした態度に、呆れてしまう。
「ていうか、屋上って立ち入り禁止じゃなかったっけ。」
「校則にはそう書かれているね。でも私が守るとでも?」
「ルールは破るためにあるんじゃないんだけどな。」
俺は視線を少し下、ドアノブの方へ向けた。
「そもそもここ入れるのか?鍵かかってるし。」
ドアノブには、小さな南京錠がかかっていた。少し表面は錆びているが、それでも輝きが失われているということはなく、少し鈍い光沢で覆われている。
南京錠がドアを固定していない可能性を考え丸いノブを回してみるが、ぴくりとも動かない。到底ドアが開くとは思えなかった。
「ちょっと代わって。」
俺がドアを開けるために一段下に降りていた菜名宮がまた上に登ってくる。
菜名宮は、ドアノブのあたりにかかっている南京錠に手をかけた。かちゃかちゃと、少し甲高い音が響聞こえる。5秒もしないうちに、菜名宮はこちらを振り向いた。
「ここの南京錠、壊れてるんだよ。」
菜名宮は、先ほどまでドアにかかっていたはずの南京錠を右手に持っていた。それはぱっと見何も問題ないように見えるが…よくみると、端っこの方が少し欠けている。
「うわ、ほんとだ。」
あの様子じゃ、おそらく鍵もかからないのだろう。
「ここはほとんど人来ないんだよ。そもそも立ち入り禁止だし。多分結構前から壊れてるっぽいけど、誰も気づいてないんだろうね。」
確かに文化棟自体、来る人は本校舎に比べてそんなに多くないし、わざわざ立ち入り禁止の屋上に来る人なんてほとんどいないだろう。現に踊り場に置かれた荷物が埃まみれなのも、人がほとんど寄り付いていないからと言える。
菜名宮はプラーンと南京錠を一回揺らすと、それをドアノブにもう一回ひっかける。
「さあタキ、ついてきて。」
菜名宮はドアノブに手をかけ、ゆっくりと捻った。
一見重厚そうに見えるその水色のドアは、いとも簡単に開く。ドアが空いた空間から光が差し込み、少しあたりが明るくなった。
「マジで開くのかよ。」
菜名宮は一歩、屋上へと歩き出す。俺もそれに続いていく。
俺が屋上に視線を移すと、そこに1人の女子生徒の姿があった。
ドアが開いたことで、薄暗かった階段にも光が差し込む。
先ほどまでとの明暗差に少し目をくらませながら、俺は屋上へと足を一歩踏み入れた。菜名宮はすでに数歩前に進んでいる。
俺が屋上に入ると、菜名宮はドアから右の方向に視線を動かしていた。菜名宮が見ている方に視線を向けると、そこには1人の女子生徒が地面に寝っ転がっていた。
もう一度言う。寝っ転がっていた。
金色が少しかかった茶髪のショートヘアに、この高校の女子用の制服を見に纏っているその女子は、手を組んで枕にしながら、空を眺めている。姿勢だけ見れば、休日の何もない日にゲームばっかしてたなぁと振り返っている俺と同じ格好している。
…うん、例えとしてはあんまり良くないな。
ともかく、俺は予想だにしなかった目の前に広がる光景に頭の処理が少し遅れていた。
「…誰?」
その女子生徒は、寝っ転がって空を見上げたままそんな質問を投げかけてきた。
視線をこちらに向けていないのに、俺たちの存在に気づいたのは屋上に足音が響いたからだろうか。明らかに声のトーンが不機嫌そうなのがわかる。
「こんにちは、芽衣奈ちゃん。」
いまだに微妙に状況を飲み込めきれていない俺をよそに、菜名宮はいつも通りの調子で前の女子生徒に声をかけた。
「その声、菜名宮か。」
「ご名答。」
「はあ…めんどくさそうなやつが来た。」
菜名宮が名前を呼んだことから、目の前の女子生徒はおそらく雛城なのだろう。菜名宮の存在に気づいてから、さっきよりもより不機嫌そうになっていた。
雛城は上を見上げたまま、動く様子はない。
「とりあえず起き上がらない?せっかくの可愛い制服が、汚れて台無しになっちゃうよ。」
雛城を、菜名宮は手を後ろに組みながらどこか奇妙に明るい声で呼びかけた。
普段のこいつの能天気さとは全く違う、圧倒的に作られた感じのするそれはなんだか恐ろしい。そう、この仕草と声音は男子にはほとんどない、いわば女子特有の『作った明るさ』とかいうやつだ。この世にこれほど恐ろしいものはない。あれは俺が中学2年の頃(以下略)
「いちいち言い回しがめんどくさいな。」
雛城は体をよっと動かし、立ち上がる。ひゅっと少し強く吹いた風が胸元のリボンを揺らしている。
雛城がこちらに視線を向け…すぐに驚いたような表情を顔に浮かべる。
「菜名宮だけじゃなかったのか…気づかなかった。」
「嘘だろ?」
「菜名宮1人でここに来てると思ってた…」
「まあタキだし。」
菜名宮はこちらを振り返る。
「どういうことだよそれは。」
「そのままの意味だけど?タキだから影が薄いし、影が薄いからタキだよ。」
「説明になってないんだけど。」
まあ明らかに、俺気づかれてなかった。確かに普段から影薄いけど、足音聞いてたんなら2人いることくらい気づいて欲しい。四足歩行とかじゃなければ1人であんなに足音しないと思うから。それとも俺って足の音すらしないの?なんなの?前世忍者だったりする?
俺が問い詰めても菜名宮はどこか馬鹿にするように笑っているだけだ。
「必要十分条件だよ。数学の授業でやったでしょ?」
「確かにやったが、俺の記憶では菜名宮はその授業にいなかったような気がするけど。」
「逆に私が居る授業の方が珍しいでしょ。」
「開き直んな。」
「今週私がいた授業思い出してみて?」
「えっと…3日前は学校来てなくて、おとといは昼から。昨日は逆に昼までだったな。」
「ほら、半分以上休んでる。」
菜名宮は自慢げに口角を上げた。何で堂々としてるんだ。
「ほらじゃねえんだよ。真面目に授業受けろ。」
「真面目ではないけどタキより賢いよ?」
「くっそ、定期テストで負けてるからなんも言い返せねえ。」
「やーい、タキのバーカ。」
「んーと、」
横にいた雛城が、間を区切るように声を入れた。
「結局、ここにはなんのようで来たの?茶々入れにきたけたなら帰って欲しいんだけど。」
雛城は片目を瞑り、前髪を手でかいている。先ほどから呟いているように、めんどくさいと言いたげだ。
「ああ、そうだった。」
菜名宮はどこか思い出したように手を叩きながら、雛城の方を振り返る。
「今日は芽衣奈ちゃんに用事があってきたんだよ。」
「菜名宮が私に用事?なんだ?」
雛城からの問いかけに対し、菜名宮は一呼吸を間を置く。
「すばり、芽衣奈ちゃん。更生しない?」
そうして先ほどと同じ、奇妙な明るい声でこんなことを言ったのだ。
「はあ?」
菜名宮の言葉に対し、雛城はガチトーン。まるで何を言っているんだ、というばかりに意味がわからなさそうな表情をしている。というか俺も同じ気持ちになっていた。
しかし菜名宮は雛城を気にする様子はない。
「そのままの意味だよ、芽衣奈ちゃん。更生しようって言ったんだよ。」
「更生しようって、具体的に何を。」
「そうだねえ…例えば服装とか。」
菜名宮は視線を雛城の顔元から移し、じーっと下から上まで観察していく。その様子はコーディネーターがモデルの服装をチェックしているようだった。
俺も、雛城の服装を改めて見てみる。端的に言えば、服装は乱れていると言えるだろう。髪にはカラフルなヘアピンがいくつもついており、シャツのリボンは緩く、ボタンも上の方は締まっていない。スカートも普通より短めで、靴下はなんか糸解けてるんじゃないかってくらいゆるゆるだった。買い換えた方が良くない?それ。
「ちょっと…じっと見ないでくれない?」
雛城は、結構引いた声のトーンでこんなことを言った。俺の方を見て。
「あっ、すまん。」
咄嗟に謝った。自分がなんか悪い立場にいたらとりあえず謝る癖が出てしまった。朝顔先生に普段からやってるから、いつのまにか癖づいてる。
というか俺だけに対してなんだな…いや確かに、女子の姿をじっと見るってのは気持ち悪いけど、菜名宮には何にもも言わないんだな。菜名宮は俺の5倍くらい雛城の方見てるのに、気にしてる様子もない。もはや見てるとかじゃなくて観察してるレベルなんだけど。研究者みたいな顔つきしてるのに、雛城は菜名宮にうがを立てることはしない。なんか…平等じゃないな。仕方ないけど。
腰を手に当てながら、若干こちらを睨みつけている雛城をよそに、菜名宮はふんふんと言いながら、雛城の姿を見ている。
「芽衣奈ちゃんの服装、シャツもスカートも短ければ、靴下もゆるゆる。ボタンもしっかり留めてないよね。」
菜名宮は雛城に視線を向け直すと、自信満々にそう告げた。俺より観察してるのにわかってること俺とほぼ一緒じゃねえか。
「悪い…?」
「個性的ではあるよね。周りとは違う感じ。」
「結局ダメってことでしょ、それ。」
周りから見れば良い印象持たれることはないなんて表現、ストレートではない。ぼかしているというか、客観的に見ていると言ったような物言いに思われる。
「まあ、服装乱れているよなぁ。」
雛城の服装は、確かに通常の生徒よりだいぶ異なっている。世間一般で見れば風紀が悪いと言われてもおかしくないような格好だ。
例えるなら妹の部屋においてあった、ラノベとかでよく見る高校のギャルの制服の着方みたいな感じ。ラノベのギャルといえばクラスを牛耳って好き勝手やってる女王様タイプとオタクくんに優しい理解力のあるギャルの2種類いるけど、俺は圧倒的に後者の方がいい。普通に前者は怖いしなんか気遣いそう。実際にそんな奴がクラスに居たら多分今より1/10くらいに縮こまってる。ただでさえクラスでの存在は低いのに、もはや存在がないレベルになってしまう。
「でしょ?タキもそう思うよね?」
雛城の服装から発展したギャルのことを語っていた脳内を、現実に引き戻すように菜名宮はこちらに振り返る。
「ああ。」
俺は何もなかったかのように相槌を打ち直した。雛城からの視線がなんかより痛いものになってる気がするけど、やっぱり俺の考えてることバレてる?
「でもさあ…」
改めて雛城の姿についてもう一度確認する。なんか雛城からの視線が鋭い気がするが、きっと気のせいだろう。ざっと雛城の服装について確認すると、ギャルトークと別に考えていたことを俺は口に出す。
「これ別に、校則違反じゃなくね?」
「そうだね。」
「そうだねって…他人事かよ。」
雛城の見た目はぱっと見、風紀が乱れているような服装をしている。しかし実際のところ、別に風紀違反を犯しているわけではないのだ。ヘアピンは過度につけていなければ特段問題にはならないし、制服に関しても規定のサイズからある程度に短くすることは許可されている。学校から渡された物では、長すぎる場合があるからだ。ボタンは少し怪しいが、ぶっちゃけ同じくらい開けてる女子は居なくもない。スカートに関しても、特段長さに問題がないように思えた。というよりこの場合、雛城の足が長いせいで相対的に短く見えているだけなのだろう。
「まあ髪の毛の色は流石にアウトだけどさ…」
「これ地毛なんだけど。」
「なら問題ねえな。」
うちの高校は、髪の毛は染めなければ地毛のままでOKである。黒染めの矯正などはない。
つまり雛城の服装はなんら問題ないのである。雰囲気的にはだいぶ浮いて見えるが、風紀違反は別にしていない。
いや、もっと正確に言うのなら少し違う。昔であれば、少なくとも俺が入学した当時であれば多分風紀違反になっている。けれど今は問題ではないのだ。
「芽衣奈ちゃんの服装が学校で問題なくなるなんて、時代も変わるもんだね。」
「校則を変えた奴が何言ってる。」
横を見れば菜名宮は飄々として、笑っていた。まるで自分は何も関係がないかのように。
しかしこいつはこの学校の、特に服装においての校則とは切っても切り離せないのだ。なぜなら菜名宮は雛城のような、多少派手な服装がセーフになる校則を作った張本人であるからだ。
今から1年弱前くらい、GWが終わってすぐの時だった。突如全校集会が行われたかと思うと、風紀に関しての校則の変更が発表された。
全校生徒が先生からの発表にざわつく中、体育館の壇上にまだ1年生であった菜名宮が堂々と立ち、事の経緯を発表し始めたのは記憶に新しい。今思えば菜名宮を慕うような輩が出てきたのはその辺りからな気がする。この頃から、菜名宮は菜名宮だった。
「芽衣奈ちゃんの服装は、十分今の風紀の校則に則っているんだよね。」
「ならなんも問題ないじゃん。」
雛城は、呑気な菜名宮の態度に反してどこかイラついているようだった。
「そうだね。」
しかし菜名宮は雛城の反応に特段驚くこともない。ただじっと、表情を崩さずに雛城に向き合っていた。
はあ、と雛城は菜名宮に対してだろう、大きなため息をついた。
「服装に問題ないなら別に良くない?学校のルールの範疇でやってるからとやかく言われる筋合いなんてないよね?」
「ごもっともだな。」
思わず声が出た。これは雛城の意見が正しい。
「そもそもさ、菜名宮たちは何しに来たわけ?私に更生しろなんて言ってるけど。それじゃ私の行動が全部ダメって言いたいの?」
雛城は、まるでダムが決壊したかのように矢継ぎ早に菜名宮に攻め立てる。しかし、菜名宮は全くもって動じることなく雛城を見ているだけ。
「ていうか菜名宮に更生しろって言われる筋合いないんだけど。アンタ授業真面目に受けてないでしょ?人にものいうんだったらまず自分のこと直せば?」
「クリティカルヒットすぎる。」
思わずまた声が出る。だってその通りだ。なんかさっきから菜名宮が正しいみたいな雰囲気になってたけどこいつは普通に雛城と同じ授業サボってる人間である。
「結局、私を悪いやつ扱いして、いい子になろうとか綺麗事言いにきただけでしょ。そんなのもううんざりなんだけど。」
雛城はやれやれ、というようにほんの少し上を向いて手を広げる。
「結局それって自分のエゴじゃん。人をダシにして快楽に浸ってるただの偽善者でしょ。そんなのに付き合ってられない。」
雛城が菜名宮に、溜まったものをぶつけるように言葉を投げる。
それはどこか、菜名宮以外に対しての不満なんかも含まれているような気がした。気のせいかもしれないが。
そんな雛城の態度に菜名宮は真剣そうな表情を向け続けている。
「結局アンタも先生と何も変わらない。菜名宮も、ただめんどくさいだけの人間だよ。」
雛城は呆れたように、そしてどこか諦めたように呟いた。金の混じった茶髪を乱雑に掻く。雛城の瞳が何を捉えているのかはわからない。
「それに、お前もだけど。」
雛城は急にこちらを振り返ってきた。正確に俺を捉えた瞳を向けられて、ビビってしまった。獣にターゲットロックオンされたような感覚を覚える。
「ひょいひょいと菜名宮についてきて、結局アンタ何してたの?私を見てただけじゃん。」
言われっぱなしも癪であるため言い返そうとしたが、雛城の言った通りなので悔しいが何も言い返せない。虫の居所が悪いのを誤魔化すように、菜名宮に視線を向けるが、菜名宮があいも変わらず真剣なままに、雛城を見てはいる。
「はあ…呆れた。結局何しにきたの?何もないならもう帰るけど。」
雛城はやがて俺たちから視線を逸らすと、一歩階段のほうへと足を踏み出す。しかし、菜名宮は雛城を止めようとする動作もない。その間にも、雛城は階段へと向かっていく。
それは雛城が数歩動いて俺たちと背中合わせになったときだった。
「大変だったんだね。」
これまで表情を変えず、何も言わなかった菜名宮が、急に口を開いた。
俺はふと事の真意を読み取ろうとするが、菜名宮が何の目的でこんなことを言ったのかは理解できない。一体どうしたというんだ?
「んだよ…もう。」
雛城はこちらを振り返る事なく、そうぼやくと、俺たちを背に校舎へと消えていった。
季節的には一応春のはずなのに、吹き付ける風はまだまだ緩い。暑さこそ感じることはないといえど、趣を感じる春の風、というにはあまりにも暖かい。雛城が立ち去った後、俺と菜名宮は屋上で2人佇んでいた。
「はあ…行っちまったな。」
俺は自分の後ろ側を振り返る。そこには、開きっぱなしにされたドアが不安定なやじろべえみたいに、ゆらゆらと小刻みに揺れていた。雛城の姿はもちろんない。
菜名宮は先ほど雛城がいた場所を見据えて、眺めている。
誰もいないはずなのに菜名宮はそこから動く気配がない。ただひたすらに、真っ直ぐ前を向いているだけだった。
「何してるんだ?」
菜名宮に問いかけるが返事はない。
小さなそよ風の音だけが、耳に入ってくる。
「よし、次のステップに行こうか。」
「は?」
数秒経って、いきなり菜名宮は口を開いた。
俺が怪訝な目を向けると、菜名宮はくるんとこちらへと振り返る。長く緩い制服が、ひらりと風に揺れた。
「わからなかった?そのままの意味だよ。」
「いやわからないんだけど。」
「芽衣奈ちゃんが更生するためのステップだよ。」
「なんだそれ。」
雛城が更生するのにステップを踏む?ダンスでもやんのか?
「さっき芽衣奈ちゃんと話して、彼女がどんな人かを軽く知ることができたでしょ?」
「あれで雛城のことを知ることができたか?」
「十分だよ。」
菜名宮の表情は、自信満々だ。
「俺には全くわからなかったんだけど。」
先ほど雛城と少し会話したが、俺はあいつがどんな奴なのかというのは全く理解できていない。
強いて言うなら少し当たりがきつくて、なんか嫌な感じがするやつだなってことくらいだ。ちなみに、さっきのやつが会話かっていう疑問はしてはいけない。俺が会話と思えば会話だ。決して一方的な対話ではないはずだ。多分。きっと。メイビー。
「言ったでしょ?軽くって。さっきので芽衣奈ちゃんのことを全部知れるようになるなんて思ってもいない。でも、0だったのが1にはなった。それだけで大きな収穫だよ。」
「そうかあ?」
菜名宮的には雛城芽衣奈という人間が、どういうやつなのか全く知らない状態から、最低限知っている状態になったということだけでさっきのやりとりは十分大きいのだろう。俺は全くもってそう思わないが。
「今度は別の観点から、芽衣奈ちゃんがどういった人間なのかを知る必要がある。それが次のステップだよ。」
「別の観点って言ってもどう雛城のことを知るんだよ。プライベートでも覗くのか?」
「…タキってストーカーしたことないよね?」
菜名宮が、苦悶に満ちたような表情を浮かべた。
「流石にしたことない。少なくとも自覚はない。」
「疑われたことはあるんだ。」
「ああ。」
言いながら、当時のことを思い出す。小学生の時、好きだった女の子と積極的に話そうとした結果、周囲から〇〇ちゃんのストーカー認定されていたのは苦い思い出だ。
あの時は確かただ交流を持ちたくて、積極的に会話をしただけなんだけどな。しかも席離れてるのにわざわざ話しかけにいってるとかならストーカーって言われても仕方ないけど、当時はその子の席、俺の真後ろだったはずだ。自分の後ろの席の人に話しかけるだけでストーカー認定されるとかこの世の中も末だな。それともこれって俺だけなのか?
「別の観点っていうのは、言い換えれば別の視点ってことだよ。多角的に、芽衣奈ちゃんがどういう人間として思われてるか、知るってこと。」
菜名宮は両手の指で四角の形を作って、そこからこちらを覗き込むような仕草をとった。
「別の視点ってことは、雛城自身じゃなくて周りが雛城のことをどう思ってるか調べるってことか?」
「ご名答。芽衣奈ちゃんが、周囲にどういった印象を持たれているか、また周囲の人は雛城ちゃんをどう思ってるか。そういった周りの意見を知る。いわゆる客観的評価ってやつだね。」
菜名宮は指で作った四角を、あちらこちらへと移して覗き込んでいる。それはまるで名探偵が虫眼鏡を覗き込み、事件の調査をしているようだった。
「はあ、随分大変そうなことするんだな。」
「己は己が為すが、 人は人が為す。人間がどれだけ
自分の考えを貫いた行動をしようとも、どんなことでも周りからの印象は付いてくる。逆に言えば、どんな人間にも周りからの評価というのは存在するんだよ。」
「一歳人と関わりがない人間とかでも、噂話になったりするもんな。」
例えばある田舎で一歳人と関わりを持たない一家があったとしても、彼らは村の人から奇妙な噂をつけられていたりする。曰く、彼らには呪いが掛けられているとか。曰く、彼らは怪しい宗教に入ってるだとか。根も葉もない噂話をされるなんてのは聞いたことがある話だ。山の奥の屋敷に住むあの一族には何かしらの伝説があるみたいな。探偵が訪れると、必ず事件が起こる。
「その通り。周囲からの評価がない人間がいるとしたら、それは誰にも存在を知られていない人間だけだよ。どんな人間にも大抵、周囲からの評価というのは必ず存在する。その評価が正しいかは置いておいてね。」
あちこち向いていた菜名宮は、俺の方にまた視線を戻すと指で作った四角を近づけてきた。どんどんと菜名宮と俺の距離が、ほんの少しずつ縮まる。
「もちろん私にも、タキにも。」
相変わらず菜名宮の瞳には、何か未知のものが眠っているように見える。瞳の奥でこいつは、未来でも見ているんじゃないだろうか。
「雛城のことを知るのはいいんだが、どうやってそんなことするんだ?」
なんとなく目を合わせるのが居心地悪く、俺はあからさまに斜め下に視線を落とした。菜名宮の瞳の光は、俺には強すぎる。
「簡単だよ。聞き込み調査を行う、ただそれだけ。該当インタビューみたいなものかな。」
菜名宮は俺から離れると、くるんと俺に背を向けどこか遠くの空を眺めた。
「該当インタビュー?雛城ってどういう人かでも聞くのか?」
「その通り。できる限り色んな人に聞いて回る。」
「はあ、俺には到底できないことだな。」
あからさまに手をやれやれという素振りをすれば、菜名宮は笑う。
「コミュ症ぼっちのタキには無理だろうね。人間得手不得手があるけど、ここまでタキに向いてないこともなかなかない。」
「そこまでストレートに殴られるとはな。」
「褒めてるんだよ、逆にね。」
「褒められた気がしないんだけど。」
少なくともコミュ症ぼっちが褒め言葉になる世界に俺は生きていないな。そんな世界があったら今すぐ行きたい。異世界でもなんでもいいから転生させてくれ。
「まあここは、私が聞き込みに回るよ。その代わりタキにして欲しいことがあるんだ。」
「それは俺でもできるのか?」
「もちろん。」
菜名宮は振り返ると、そう頷いた。
さっきまで吹いていたはずの、まだ来てもいない夏の残りのような、暖かい風はいつしか肌で感じられなくなっていた。
あいも変わらず、教室は喧騒に満ちている。
時刻は昼時、4時間の授業という試練を乗り越えた学生たちに許された、自由な時間。財布を手に友人数名と学食に行く奴がいれば、教室で机を合わせて弁当を食べる奴もいる。俺はクラスの半分くらいが残り食事をとっている教室の中で1人、購買で買っておいたパンを食べていた。
俺の席は教室の窓際の端、主人公席とか言われている窓際の席の一個隣のところに当たる。
普段の授業中でも、目をかけられにくい意外といい席だ。朝顔先生は容赦なくこちらを睨んでくるけど。
さて俺は普段、会議室で昼を済ませることが多い。理由は単純明快で、会議室はいつも静かだからだ。最近じゃ菜名宮が頻繁に出入りするようになったため1人で過ごすことは少なくなったが、あいつが現れるまで人との関わりそのものがなかった俺にとって、あの場所は天国そのものだった。
というより教室がうるさすぎる。俺は会話の中に入ることは決してないのにクラスで話してる声が耳に入ってくるのはよくない。
一年生の時に、知らず知らずのうちに文化祭や体育祭の打ち上げがあったにも関わらず、全く誘われなかった俺がそのことを知ったのもクラスメイトの会話からだ。
誘われないことくらいなんとなくわかってたが、実際にそういったことを耳にすると悲しくなるもの。だったらせめてそんな話すら、耳に入らない方がいい。
ではなぜそんな苦手意識のある昼頃の教室で、昼ご飯を食べているのかと言えば単純明快だ。菜名宮の指示によるものである。
話は1時間ほど…屋上から出て、階段を下っているあたりに遡る。
「タキ、今日はお昼を教室で食べてくれない?」
「なんだ?新手の拷問か?」
「3割くらい違うよ。もっと別の目的がある。」
「3割は拷問じゃねえか。」
「タキにしてほしいことがあるってさっき言ったでしょ?そのためだよ。」
やっぱこの子ちょくちょくさっきからスルーしてるよね?わざとなの?それともたまたまなの?
「俺が雛城のためにすることと、教室にいることになんの因果関係があるんだ?」
スルーされたことについて追求する気も起きず、変わりに頭に浮かんでいた疑問を菜名宮にぶつけると、菜名宮はよくぞ聞いてくれたという風な表情をとっていた。
「簡単な話だよ、ワトソンくん。私がさっきしようとしたことを覚えているかい?」
「やめろ菜名宮。探偵キャラはお前には似合わねえ。」
「一度やってみたかったんだよね。意外かもしれないけど、私はシャーロック・ホームズが割と好きだったりする。」
「意外だな。てっきりモリアーティ教授の方が好きだと思っていた。」
「モリアーティ教授も嫌いではないよ。ただシャーロックには及ばない、というだけ。」
そういう菜名宮の表情はぱっと見笑っているが、それは不気味なものに感じられる。
「さて、私がさっき何をするっていったかな?」
「ああ…話が逸れてたな。確かインタビューだっけ?雛城についての。」
「ご名答。私はこの学校の人に、芽衣奈ちゃんがどんな人なのかを聞いて回ろうと思ってる。これは私にしかできないことだからね。」
「さりげない俺へのディス。」
「そこでタキには、私にできないことをしてほしいんだ。」
「屋上でさっき言ってた奴か。」
「その通り。」
「俺にはできて、菜名宮にはできないこと。いや、性格に言えば、インタビューしている菜名宮にはできないことか?それってなんだ?」
「それはね、」
とたとたと菜名宮は俺の数歩先を行って、階段を降り切っている。そこは文化棟の2階。渡り廊下を渡れば、俺たちの教室へと着く。
菜名宮はこちらへと振り返ると、端的に一言。
「聞き手だよ。」
俺が喧騒と揶揄する、クラスで聞こえてくる声は大抵クラスの奴らの雑談の声だ。彼ら彼女らは、昼休みや放課後に仲のいい数人と集まっては自分の周りで起きたことや面白いこと、趣味の話。話題はいろいろあれど、雑談に興じている。
俺の今までの人生において、少なくとも無縁だった休み時間にクラスで駄弁るなんて行為は、大抵周囲では当たり前に行われている。それは当然、今も例外ではない。俺が教室で亡霊のように影を隠して食事をしている間にもクラスの至るところで何個かのグループが形成されており、話し声が聞こえてくる。俺はそれを横目にしながらパンを頬張る。何回も言うけど決して悲しくなんかない。
2つあるパンの1つ目を食べ終え、ビニール袋をくしゃくしゃにした時だった。クラスの喧騒の中央に位置している、男女混合の6人くらいのグループの1人が、その名前を発した。
「そういえばさ、雛城芽衣奈って子のこと知ってる?」
グループの女子の中でも、一際容姿が整っているように見える、名前を知らない女子生徒がふとそんなことを呟いた。
俺はその言葉が聞こえると同時に、聴覚の意識をそちらのグループへと動かす。決して話を聞いてると悟られることなく、慎重に。耳の意識をそちらに寄せても、目の前のパンを開ける動作はごく自然に。
「雛城って…うちのクラスのやつだっけ。」
といったのは、グループの男子。
「そうそう。」
「雛城って、2年になってからほとんど来てなくね?」
「確かに。同じクラスのはずだけど、姿を見たことないな。」
「単位とか大丈夫なんかな。知らんけど。」
男子Cお前絶対関西に親戚いるだろ、なんてツッコミを脳内でしつつ俺はパンを食べ終える。手元の袋をゴミ箱に捨てに行こうか迷うが少し考えて、 やめた。めんどくさいし話聞きそびれるかもしれないし。
…ここだけ切り抜くとすげえヤバいやつなんだよな。クラスの奴らの会話をひたすら聞いてるやつって。でも今回の場合はちゃんと理由があるから許して。じゃあ理由がない時はやってないのかというと…うん。
「ていうか、なんでいきなり?」
男子の1人、確か竹内とか言う奴だったか。高身長でサッカー部でイケメンでモテモテというなんかもう殴りたくなるような奴だ。
神は人に二物を与えないとか言うけど、実際は全然そんなことない。竹内は多分二物どころか二十物くらい貰ってる。多分神様が人に何を与えるのかを考えるのがめんどくさくなって、もう全部与えちゃえっていう感じで生まれたのが多分竹内。神様が職務放棄した結果生まれたタイプの人間だと思う。
グループの中にいた竹内が、話を切り出した女子に向かって質問を投げかける。
「六乃がね、さっき質問してきたんだ。雛城芽衣奈ちゃんって知ってる?って。」
受け応えた女子生徒が、顎に手を当て何かを思い出すような仕草をしているのが横目に見えた。
「なんでそんなこと聞いたんだろう。」
女子生徒の隣にいた女子生徒…ややこしいな。女子Bでいいか。が、そんな風に疑念を呈した。
「わかんない。でも、六乃の行動っていつも突発的だし。」
「まあ確かにな。菜名宮の考えてることはわからん。」
「それが菜名宮の魅力でもあるけどなぁ。」
グループ内でうんうん、と同調するような流れになったのを感じ取った。
「菜名宮がなんでいきなり雛城のことを気にしたんだ?」
「あれじゃない?六乃ってさ、いつも周りに気を配ったりして優しいじゃん。だからクラスで見かけないことの子を気にして、調べ始めたって感じじゃない?」
「ああ…ありそう。菜名宮さんならやりかねんな。」
竹内もまた、うんうんと同意する。
そんなことを聞きながら…俺は内心、うんざりとしてしまった。別にクラスメイトの奴らに対してではない。俺はクラスの奴に対して何か感じるほど、慈愛の心を持っていない。相手が何も感じていないようのと同じようにだ。互いのことを何も感じない理由が違うとかいうツッコミはなしで。相手が俺のことにそもそも興味を持ってないってのはなしで。それは俺に刺さる。
端的に言えば、菜名宮に対してだ。この会話を聞いてそんな感情が芽生えてしまう。それは目の前の光景が、あまりにもあいつの想定通りであったからだ。
菜名宮六乃という人間は、この学校では有名人である。おそらく全校生徒が菜名宮の存在を知っているくらいには。その理由はさまざまあれど、活動的でいろんなところでの目撃情報。誰に対しても声をかけ、接するそのコミュ力。そして入学わずか1ヶ月で校則を変えたという実績。これらのことから、菜名宮という人間を知らないのは、学校の中では変わり者扱いされるほどにあいつは有名人だ。
そんな菜名宮が、新たに動いた…今回の場合には、『雛城芽衣奈という人間について調べ始めた。』ということは当然、多くの人間の耳に入る。菜名宮という人物が与える影響は大きいからだ。そうすればその話を聞いた多くの人たちが、『菜名宮が質問してきた。』ということから雛城についてのことを話題にする。それは当然、話を聞いた全員ではないだろうが、菜名宮の言葉を聞いた一定数はあいつに聞かれたことを思い出して仲のいい奴や友人との話題としてその話をするだろう。
それを菜名宮は利用した。自分自身の影響力が高いことを理解し、そこから菜名宮は学校で自分のことが話題になることを見越してインタビューを行うと言った。
教室、あるいは廊下で、クラスの奴らが雛城についての話をすればするほど、菜名宮が単純に雛城について話を聞くことで得られることよりも多くの情報が得られる可能性がある。それに質問で聞かれた当時は思い出せなくても後になって雑談していたら、情報を思い出すなんてことがあり得るかもしれない。そうすれば、雛城という人間について更に知ることができる。
だが、学校の人たちがそんな話をしていてもそれを聞いていなければ何も情報を得られていないのと同じだ。だから、菜名宮は俺に「聞き手」となるようにと言ってきたのだ。
俺は教室のグループの会話を横目に、テーブルに頭をつけ…そのまま突っ伏した。周りから見れば、机の上から頭だけが見えている状態。もちろん寝てなどいない。寝たふりだ。
「菜名宮がいきなり気にしだした雛城か…どんな奴だっけ。」
「俺はほとんど見たことねえわ。教室に居たことはあるけど、全然印象ねえな。」
「私たまに見るよ。文化棟からたまに、カバン持って出てくる所。」
「え?文化棟にいるの?」
男子Bが驚いたような声音をしている。
「そうみたい。私もたまに部活行く時とかに見かけるだけだけどね。一年の時もクラス一緒だったから見間違いとかもないと思うよ。」
そう言うのは女子B。
「でも授業は受けてないでしょ?雛城さん。」
「だよねえ。なんで学校にいるんだろうか。」
んー…と、会話を切るのが少し憚られたのか、遠慮がちな声が聞こえた。
「私さ、雛城さんと中学一緒だったんだけどね。その時は学校サボるような人じゃなかったはずなんだよね…」
今まであまり口を開いていなかった女子Cがふとそんなことを言った。…誰だっけ、確か佐川とかそんな感じの名前だったはず。多分家は宅急便の会社やってる。
「あれ、雫って雛城さんと同じとこなの?」
竹内はどうやら、佐川の話に食いついたようだった。
「あ、うん。私西中出身なんだけどね。中学2年生の時、雛城さんとクラス一緒だったんだよ。」
「へえ、そうなんだ。」
「中学校2年の時の雛城さんって、めちゃくちゃしっかりしてた子だったんだよ。とっても真面目で、テストではいつも順位上の方だった。」
「え、それほんと?1年のの雛城さんってそんな感じの子じゃなかったような気がするけど。」
「だから、さっきの話聞いた時びっくりしたんだよね。雛城さんって中学時代、真面目すぎてクラスであまりよく思われてなかったくらいだからさ。」
「へえ…そうなんだ。」
「恵理子の話だと、中学の時と正反対じゃんか。」
女子生徒と女子Bが口々に頷く。
「真面目な子…なんかあったのかな。」
「あれじゃね?高校デビューとか。」
ふと竹内の隣にいたであろう男子Bが、そんなことを呟いた。
「確かにあるかもな。中学まで真面目だったけど、高校で陽キャになりたくて自分を変えたとか。」
「あ〜、それありそう。」
女子生徒、ややこしいな。女子Aにしよう。が、男子の意見に賛同するように頷く。
「なんかそれ、雫みたいだね。」
女子Aの意見に賛同するように女子Bがそんなことを言った。
「え?どういうこと?」
それに食いついたのは竹内。
「ちょっと恵理子、それは言わないでよ〜」
佐川が女子B、恵理子と言われた女子生徒に少しおどけるような口調で言った。
「あ〜実はさ〜」
女子Bは、声のトーンを先ほどよりも一個上げて声高に話し始めた。
俺はその話になって、グループの会話を盗み聞きするのをやめた。おそらくあのグループの話題が別のことに切り替わった。
俺が今やるべきなのは雛城についての情報を聞くことである。それ以外の情報に関してはどうでもいい。多分話の流れから見るにさっきの佐川の過去を掘り下げるんだろうが、その会話は何も有益にならない。
俺は寝たふりを続行したまま、聴覚の意識をクラス全体に広げた。教室には竹内がいるグループ以外にもクラスメイトは多くいる。誰か別の人が雛城について話をしているかもしれない。
そんな期待をしたが、俺の耳元には少なくとも雛城の話題についてクラスでしているような奴はいなかった。
ある男子グループ…多分野球部の奴らだ。そいつらが部活の顧問の愚痴を話している。あるいは隣のクラスの誰と誰が最近別れた、なんて話をしている女子のグループもいた。教室の対角、廊下の前側では今期のアニメの作画がどうだ、なんてまるで自分たちが批評家になったかのように語り合っている声も聞こえる。
彼らは皆、己が好きなことについて自分たちと同じカテゴリーの人間と、共通した話題で盛り上がっている。おそらくこんな光景はいつも通りの昼休みの風景で、いつも通りの日常なのだろう。
俺は教室の喧騒をよそに、窓から差し込む光を少し煩わしく思いながらも意識を虚にしていくのだった。
時計は16:00少し過ぎを指している。一般的には夕方に分類されることが多いこの時間帯でも、まだまだ空は青に覆われている。
HRが終わった瞬間、俺は荷物をまとめて教室を出ていく。放課後の教室では、掃除の担当の生徒が箒を手に持ち掃除をしていっていた。
廊下に出ると喧騒が聞こえた。決して広いとはいえない、一般的な学校の大きさの廊下の窓側に詰め寄って多くの奴らが雑談に興じている。これから部活に行く奴もいれば帰宅する奴もいるのだろう。
俺はそんな風景を横目に、ほんの少し早歩きで廊下をかけていく。他者に自分の存在を気づかれたくないため、ほんの少し気配を消して。
特段深い意味はない。ただ、普段から喋らないクラスのモブAが、彼ら彼女らのひとときを邪魔する筋合いもないだろうなんて思っているだけ。彼ら彼女らの青春において、俺は自分がそれらの癌になりたくないのだ。俺自身の、そして皆の平穏を守るためにいつからか人が多い所では気配を消すようになった。
そうして俺は、廊下を抜けた。特に用事もないので学校に残る意味もない。部活に所属をしていない俺にとって、放課後は暇な時間だ。
家に帰ったら撮り溜めていたドラマでも見ようか、なんて考えた時だった。ぶーっという音が近くでなった。同時にポケットから振動を感じる。
「…なんだ?」
俺はポケットからスマホを取り出す。うちの学校では、スマホは授業後であれば自由に使用してOKだ。
スマホにきた通知をクリックし、通知アプリを開くと、菜名宮とのトークに通知がついていた。
『会議室にタブレット忘れてきちゃった。私取りに行けないから、回収しといてくれない?』
そんなメッセージと、熊のスタンプが送られてくる。
ちなみに熊といっても、可愛らしいデザインではなくやけにリアルでなんかめっちゃ怖い。多分人間の味知ってる方のやつ。そんな熊が「できるよな?」っていう圧力を掛けてくるスタンプが送られてきていた。もはや脅迫だろこれ。
菜名宮のイメージにある意味でぴったりなそのスタンプに目をやりつつ、俺はメッセージを返す。
『わかった』
画面には、すぐに既読の表示がつく。
『ペンシルも多分置いてきてたから、回収しておいほしい。』
そんなメッセージと共に、マッチョでスキンヘッドのおっさんがぶりっ子のように「よろしく」と言っているスタンプが送られてきた。どこに需要があるんだよそのスタンプ。
スマホを閉じ、足の矛先を変える。左に行けば帰宅道、右に曲がれば文化棟。俺は体の向きを右に変える。この時間帯なら部活動はまだ活動開始してないだろう。文化部の生徒もそう多くないはずだ。今のうちに取りに行ってしまおう。
ぶーっと、通知がまた鳴った。多分菜名宮からだろう。というか俺のメッセージアプリに来る通知は9割が菜名宮のものだ。
『今日の夜頃、電話できる?君の声が聞きたいな。』
メッセージアプリには、そんな文章。なんの脈絡もなく、突然送られてきた。先ほどの通知からはおよそ1分後。
『キモイぞ。頭でも打ったか?』
『どこからどう見ても可愛いJKの頼み事だが?恋する乙女が勇気を振り絞って言ってみたセリフだろ?」
『それがクサイんだよ。』
『そんなことないでしょ。』
『じゃあ仮に、俺が同じセリフを言ったとしたら、菜名宮はどう思う?』
『考えるより先にタキを刺しにいくかな。』
『ほらな。』
多分俺が「君の声を聞きたい」なんて言ったら即刻有罪。裁判もなしに速攻逮捕されて刑務所行きだ。こういうのは美男美女だけにしか許されてないセリフなのだ。後壁ドンとかもそう。
『タキに納得させられてしまった…なんか不服だ。』
『なんでだよ。』
その発言は俺のことを普段馬鹿にしてるっていうことになるんだが。まあ確実に馬鹿にしてるけど。
『てか、なんでいきなり?』
話題が逸れていたため、話の軌道修正をする。
『情報共有したいから。』
『雛城についての?』
『そう。これで伝えるのも面倒だし、話したほうが多分速い。』
『わかった。』
『時間とかはまた追って連絡する。私の用事が終わったらすぐにかけるよ。』
その文面の後に、今度はまるで地域のゆるキャラみたいな、船に顔がついているキャラが刃物を持っているスタンプが送られてきた。「忘れんなよ」という文字が恐ろしいフォントで書かれている。誰だよこれ作った奴。
スマホをポケットにしまい文化棟の方へ歩き出す。菜名宮とのやりとりがあったせいか、文化棟にはいつの間にか多くの生徒の姿があった。
吹奏楽部、美術部、手芸部など、多くの文化系の部活が活動している文化棟は、放課後になると意外と人が多い。この人混みの中歩くのってなんか気まずいから嫌なんだよな。
しかし引き受けてしまってものは仕方ないので、菜名宮の頼み事のために俺は文化棟へと足を向けた。
「ミッション、コンプリート。」
無事会議室からiPadを確保し、なんとか俺は脱出した。普段人が多い時間帯にここに来ることがなかなかないため行き慣れているはずの会議室へ行くのも、なんだかミッションのように感じられた。気分はミッションインポッシブル。多分インポッシブルなのは俺だけ。
iPadがきちんとあることを確認し、俺は廊下を歩き出す。ちなみにスマホはOKだが、タブレットはそもそも持ってくることが禁止なので先生にばれてはいけない。なので少し慎重に行動していたのだ。
4階から3階へと、階段を下る。3階は、文化棟の中でも異彩を放っている階だ。4階は複数の部活が活動しており文化部の部室が多く、2階は吹奏楽部の部室があるため、そもそも人が多い。
しかし3階に関しては、その大部分が教材室として利用されているために、普段から生徒の出入りはほとんどない。現に上の階からは時折階段を下る足音が聞こえるし、下の階からは複数の金管楽器が練習している音が聴こえてくる。しかし3階は人の話し声も、楽器の音色も、何も聞こえない。まるでここだけ切り離された空間かのように静かな場所だ。
「何してんだあの人…」
3階には、ほとんど人がいない。だからこそ俺はある1人の生徒が廊下にいるのが、簡単に見えた。
女子生徒は足元にカバンを置きながら、窓の外を眺めている。視線の先にはほんの少しオレンジがかった夕日があり、それに影響されてほんの少し青色を失った空があった。
…黄昏てんのかな。沈みゆく夕日を前に、はあとため息をつきながら、世の中は案外退屈なものだ…とか考えてたりするのだろうか。オレンジ色の空を見ている時は、なんか周りのことどうでも良くなって、自分があたかも世界にとって大きい存在であるみたいな実感が湧くんだよな。ただこれってあくまでも自分だけで、周りから見るとただの厨二病にしか見えない。
女子生徒はふっと小さく息を吐く、と窓の格子から手を外し足元の鞄を手に取った。そうしてこちらの方を振り返ってくる。
まずい。瞬時にそう判断した俺は、目を逸らす。
しかしそれは一歩遅く、女子生徒と目が合ってしまった。
「あっ」
思わずそんな声が出た。こちらを振り向いたその女子は、茶色のショートヘアの髪を束ねて赤と青のピンを2つ、頭につけている。
目の前にいたのは今日の昼前、屋上で会った雛城であった。
「何か用?」
雛城の声は鋭い。明らかにこちらに敵意を向けていることがわかる。
「なんもない。たまたまここを通っただけだ。」
思わずぶっきらぼうな言い方になる。俺は雛城のことを何も知らないが、雛城が明らかに俺のことを拒絶しているのはわかったからだ。
「そう。」
ため息のように雛城は呟くとこちらへと向かってくる。そうして俺の左横の、下の階へと降りる階段に歩を進めていく。
俺はその場に立ち止まっていた。このまま下の階へと行けば、雛城と下駄箱に行くタイミングが同じになる。それは避けたかった。
コト、コト、コト。ローファーが床と触れ合う音がする。雛城は階段を一歩一歩降りていっている。
「ねえ。」
ふと後ろ側からそんな声が聞こえた。俺より先に階段を降りていた雛城の声だ。
「何?」
俺は声の方を振り返る。雛城の表情は、何の表情も浮かべてはいない。言うなれば、真顔だ。
「名前は何ていうの?」
「俺のか?」
「それ以外何があるの?」
雛城は少し怪訝な表情を浮かべる。屋上に行った時も思ったが、雛城が浮かべる表情はどこかどんよりとしている。
「篠末だ。一応お前とクラス同じなんだけどな。」
クラスが同じなのに名前を覚えられていないことを、あえて強調する。
こんなこと言ってるが、俺も雛城の存在を昨日まで知らなかったし何ならクラスの奴らは半分くらいしか覚えてない。というか覚えてるはずの人でもたまに名前があやふやになる。
「篠末ね。」
そう呟くと、雛城は視線を元の方へと戻した。西日が雛城を照らす。俺からは後ろ姿しか見えない。
「変に私に関わらないでって、そう菜名宮に伝えておいてくれる?」
雛城は階段をまた降り始める。すぐに踊り場を曲がって、すっかり姿が見えなくなった。誰もいなくなった廊下は、文化棟の中でも異常なほどに静かで、どこか寂しい。
「なんなんだあいつ。」
誰もいなくなった3階で、俺は1人呟く。
下の階から聞こえる吹奏楽部の音が、やけに耳に残った。