ある不良生徒について-2
俺が教室に戻ってしばらくすると、昼下がりの授業が始まることを知らせるチャイムが鳴った。確か次の時間は化学だ。正直なところ、結構苦手な授業である。
チャイムが鳴り終わって少し経っているが、先生はまだ来ない。授業が始まっていないのをいいことにクラスの奴らは周りの人間と話し始めている。
ざわざわ、ざわざわとまるで某ギャンブル漫画のように、話し声はヒソヒソと大きくなっていった。
しかし教室が話し声に満ちたのも、ほんの一瞬であった。
ガラン、と教室のドアが開く音がした。その音と共に教室も俺も一気に静かになる。いや、俺は元々静かだったな。
コツコツと甲高いヒールの音を立て、カーディガンのような上着を袖を通さず見に纏った先生が教卓の前に立った。
まるで獣のように獰猛な目と、眉を顰めている姿は、怒りを露わにしていると一瞬でわかる。しかしその雰囲気さえ、まるで美しさの一部と感じさせるような顔立ちを持つ化学の教員、朝顔夏目は教室を見回している。
「諸君、授業が始まっているのに雑談というのはいただけないね。予鈴が鳴っているのを聞いていたなら、前回の予習や復習をしておくべきだろう。」
いの一番に、朝顔先生はそう言った。教室全体の生徒を威圧するような、鋭い視線で生徒たちに視線を配る。何かが体の中から突き刺さったような冷たさが背中に走った。周りの生徒も視線に気押されているのだろう。教室に妙な緊張感が流れている。
「今回は例外的に認めるが、次回もこのような状況だった場合少しペナルティを与えることも検討する。教科書78ページを開きなさい。」
朝顔先生はそういうと、体を180度捻って黒板の方を向いた。体の動きに少し遅れて、身につけていた白衣がひらりと舞う。朝顔先生はチョークを取り出して、板書を始める。
朝顔先生の視線が逸れたことに少し安堵したのか、辺りの生徒たちも多少は落ち着いた様子で教科書を開き始めていた。
…いや、なんで俺たちだけ悪いみたいになってるんですかね。なんかまるで雑談しているのがダメみたいな雰囲気じゃねえか。まあ授業中に話することはこの国では良くないことだけどさあ。朝顔先生も堂々と遅刻してるんだよなぁ。しかも5分。結構長くね?全く汗かいてないから走っても来てなさそうなんだよな。
しかも次回からはペナルティってなんだよ。先生昨日もだいぶ遅れてたし遅刻は今年だけでもう10回くらいしてるんじゃないかな。なんだよ次はないって。その場合朝顔先生もうダメじゃん。
ていうかなんで遅れておいて堂々と教室に入ってくるんだ、せめて時間ギリギリなら急いでる感じ出してくれ。なんで汗水ひとつ垂らしてないんだよ。教卓の前であんなに凛としているのってめだかちゃんと朝顔先生くらいだろ。
それともあれか、日本でよくある重役出勤ってやつか?まあ確かに先生って結構歳言ってるよな。確かもうすぐ
「何かあるか、篠末。」
「いえ、何も。」
教科書を手元に開き、今日の単元のページを黒板に書いていた朝顔先生は、急にその手を止めた。さっきまで黒板の方に向いていたはずなのに、なぜか視線は俺の方に注がれている。一応、窓際の後ろの方の席なんだけどな。なんでこっち見るんだ。
「少し余計なことを考えているような気がしてな。」
「いや、全然そんなことないですよ。」
「杞憂だったか…しかし、教科書を開けていないのはいただけないな。授業は集中して聞け。」
朝顔先生はそれだけ言うと、また黒板のほうへ立ち直る。コツコツと、黒板に文字を連ねる無機質な音が聞こえてきた。
俺は授業前に出すだけ出しておいて、開いていなかった教科書を手に取る。先生の方をこそっと伺いながら、先ほど指定されていたページを開く。
先生ってもしかしてエスパーなのか?なんであんなに生徒がいて俺を直接指名してきたの?なんで余計なこと考えてるってわかったの?怖すぎるだろ。
今度から朝顔先生の前では余計なことを考えないようにしようと決意しました。
「であるから、炭酸ナトリウムの濃度は〜」
50分間ある授業の半分が過ぎたくらいになった。朝顔先生は黒板に書いている計算式の解説をしている。確か、この前やっていたところの続きだ。
俺は時計をぼーっと眺めている。ぶっちゃけ眠たい。別に退屈ってわけではないし、化学は苦手ではあるが嫌いな科目というというわけではない。ただそれはそれ、これはこれだ。よほど集中していたり、あるいは好きな教科でもなければお昼上がりの授業ってだいたい眠くなってしまう。
なんなら5時間目が体育の時でも眠くなることあるからな。大体2人組作ってという流れになって、ペアが作れないからだ。1人でやってる風出しておいていつも見学している。
端の方で目立たないように突っ立っていると、単純に眠たくなる。というか先生が授業の方に集中してるなら思いっきり寝てる。バレてなけりゃサボっても大丈夫だ。
しかしこの化学の授業では寝ることができない。なぜなら朝顔先生は寝てる生徒にはしっかり注意するタイプだ。しかもいくら上手く隠しても寝てるのはすぐ見つかる。
この前なんかがチョーク飛んできたからな。某忍者アニメのなんとかかんたろうで土○先生がやってるやつ。アニメとかマンガとかでよく見るヒューンって投げてるやつ。
あれ実際にやる人なんていないと思ってたんだけど、朝顔先生は実際にやる人だった。しかも最前席から窓際の後ろの席で爆睡していた俺にクリティカルヒット。なんであの距離で俺の頭に当てられるんだ。もうチョーク投げ選手権あれば先生が世界一でいいよっていうくらい正確だった。
とにかく、化学の授業中に寝るのは物理的に不可能だし、先生が許してくれないので俺は仕方なく目を覚ましているというわけだ。
「じゃあ、2番を誰かに答えてもらうか…そうだな。篠末。」
ぼーっと時計と睨めっこをしていると、教科書を手元に開いた朝顔先生に指名された。黒板に書いてある問題を解けということらしい。
「あ〜えっと、27ですかね?」
黒板に書かれている問題は、今日の授業でやった復習だ。そんなに難しいものではなかった。
「正解だ。眠たそうにしていたが、ちゃんと授業は聞いているようだな。」
「ええ、まあ。」
俺は曖昧な返事で返す。眠そうなことすら見破られてた。もうなんだよあの先生。
「じゃあ次の3番を…菜名宮、答えてくれるか?」
俺はその単語を聞き、視線を右隣に向ける。
「…って、いないじゃないか。あいつどこに行ったんだ?」
隣の席には誰も座っていなかった。そこにいるはずの菜名宮の姿はどこにもない。昼前までは、そこにずっといたはずだ。
あいつ、またサボってるのか。さっき会議室を俺が後にした時、菜名宮はまだあそこに残っていた。昼休みが終われば帰ってくるはずだと思っていたがまだ帰ってきてない。もしかすると今もまだ、会議室3にいるのか?
朝顔先生は呆れたように小さくため息をつく。
「またあいつは欠席してるのか。仕方ない。じゃあ3番を…隣の篠末、答えてくれ。」
「は?」
思わず、そんな反応をしてしまった。なんでだよ。
「篠末、3番の答えは?」
朝顔先生は問題が書かれた黒板をトントンと叩く。有無を言わせず、答えさせようと圧力がすごい。
なんで?こういう時、隣の人当てるのはわかるけどなんでもう答えた奴にまた当てるんだ。せめて反対側の人当ててくれよ。
しかもその問題、多分だけど俺が聞いてなかったところだ。だって記憶がない。多分睡眠と一番格闘していた10分前くらいにやってたところだと思う。
「なんだ、わからないか?」
俺が黙っていると、朝顔先生がまた圧をかけてくる。今どきそんなパワハラ良くないと思うんですけど。
「…すみません、わからないです。」
「やっぱりちゃんと聞いてなかったな?授業には集中しておけ。」
「はい。」
俺の返事を聞くと、先生は振り返って問題の解説を始める。先ほどのやりとりを見ていたのか、あたりの生徒もノートを真剣に取りながら授業を受けている。
先ほどまで爆睡していた3つ隣の石田も、今は真面目に教科書を覗き込んでいた。なんで俺だけバレるんですかね。あと石田、教科書反対だ。今時そのボケは流石に流行らない。
そんな教室の様子を眺めてから、俺は視線を左隣に移した。世間一般で主人公席なんて言われるそこにはもちろん菜名宮の姿なんてなく、机の上も綺麗さっぱりしている。
ていうか何もない。いつも菜名宮が机の横にかけているハンドバックすらない。俺の席から全部は見えないが、多分机の中にも何もない。今日の午前中にはあったはずなんだけどなあ…菜名宮の奴、多分帰りやがった。おそらく昼前に荷物を全て回収して、会議室3から直接撤退していったな。
相変わらず菜名宮という人間は恐ろしいほど自由である。授業はほとんど遅刻するし、そもそも結構休むし、学校に来たとしても早退する。良い言い方をすれば自由だが、ようはただのサボり魔だ。高校になってしばらく経つが、いまだに菜名宮のサボり癖が治ることはない。
そこにいない菜名宮の姿を思い浮かべ、俺は大きなため息を一つついた。
「篠末、少し話がある。」
なんとか地獄の5限を終え、次の授業の準備をしていると、朝顔先生が俺の席の元にやってきた。え?なんで?さっきの授業のこと?
「すみません、許してください。」
とりあえず、謝った。先に謝っておいて反省の色があることを見せれば先生も強くは言えない。そんな打算があった。というかそんな打算しかない。多分さっきの授業で寝かけたことだろうし。
「さっきの授業のことではない。まあそれはそれで問題だが、また別件だ。」
しかし返ってきたのは意外な返事であった。なんだ、授業で寝かけたことじゃないのか。
朝顔先生は呆れたように、ため息をつく。にしても先生さっきの授業からため息ついてばっかだな。教師って仕事は大変らしいね。その原因が俺であるかもしれない、という考えはそっとどこかに投げ捨てておいた。
「じゃあなんですか?」
「ここでは話せないことだ。放課後、職員室に来てくれるか?」
「嫌と言ったらどうなりますか?」
「明日、君は退学になっている。」
「わかりました…行きます。」
この先生はどんな権力持ってるんだよ。一教師が持っていい権限じゃないだろ。
正直めんどくさいと思いながらも、流石に退学にはなりたくないので、俺は渋々職員室に放課後向かうことにした。
俺は割と昔のドラマを見たりする。昭和世代に放送されている学園ものだったりすると、職員室では教員がタバコを当たり前のように吸っている光景が広がっている。職員室は端っこの方が煙たい場所で、一部の生徒が職員室に行くのを嫌がる理由になっていることもある。
でも実際、今の時代になると受動喫煙やらなんやらで、職員室でたばこを吸うような先生はほとんどいない。そもそも業務中に吸うのが怠慢だとか、生徒への影響を考えてやらで、昔のドラマのようにタバコを職員室で吸うことが問題になっているのだ。まあ吸わない側からしたらタバコって迷惑だからな。
今現在、俺は職員室の端の方にある応接スペースのソファに座っている。先ほど朝顔先生から放課後に呼び出されたため、帰りたい欲を我慢してここに来ているのだ。
辺りを見回すと、部活や授業の準備をしている先生たちが忙しなく動いているのが見える。ガヤガヤとした話し声は聞こえないものの、書類をめくる音やコピー機が動く音なんかは、教室の喧騒にほんの少し似ている。
視線を前の方に戻せば、目の前のソファには誰も座っておらず、外の景色が見える。職員室の外で、朝顔先生はタバコを一服吸っていた。
なんで人を呼び出しておいて自分はタバコ休憩してるんだあの人。流石に職員室内で吸ったらまずいと思ったのか外で吸っているが、そういう配慮ができるなら人を待たせない配慮をしてほしい。
朝顔先生はタバコを口から離すと、ふぅーっと大き雛く煙を吹き出す。朝顔先生の姿はひどく様になっていた。さすが顔とスタイルだけはいい先生のことだ。タバコを吸う構図も似合っている。まるで一枚の完成された絵のように、美しい姿と構図だ。
朝顔先生はしばらくすると満足したのか、外から職員室へと戻ってくる。カツカツと甲高いヒールの音を鳴らしながら俺の姿を確認すると、手に持ったタバコのケースを胸ポケットにしまう。
「なんだ、もう来てたのか。」
「もうって、15分くらい待ってましたけど。」
「そうなのか。全く存在感がなかったから来ていないかと思ったぞ。」
「先生が生徒に言っちゃいけない言葉でしょそれ。」
「他の生徒には言うはずがないだろう。お前だけだよ。」
「そんな特別いらなさすぎる。」
「お前以外の生徒はしっかりと存在感があるからな。そもそもこんなこと言わないよ。」
「もっとひどくなってるんですけど。」
朝顔先生は俺の前に腰掛ける。肩にかけていたカーディガンのような上着は、その勢いでふわっと揺れるが、先生の肩から落ちることはない。
「さて、急に呼び出して悪かったな。」
「本当に突然すぎてびっくりしましたよ。」
「私からのドッキリ、嬉しかったか?」
「いや全然です。突然来ていいのは気になってるあの子から急にかかってくる着信だけでいいですよ。」
「そんな着信、君に来たことあるのか?」
「ないですね。」
そもそもほとんど人と連絡交換してない。というかする必要がない。クラスのやつと連絡取る必要がないからな。通知がうるさくないのはメリット。デメリットは時折めちゃくちゃ虚しくなることだけど。
「まあ、だろうな。」
朝顔先生は俺を馬鹿にするように、フッと嘲笑した。なんなんだこの先生。
「めちゃくちゃ馬鹿にしてます?」
「馬鹿にしていないよ。篠末らしいと思っただけさ。」
「俺らしいってどういうことですか…」
「そのままの意味だよ。」
俺らしいという言葉の意味がわからず、朝顔先生に質問したが、帰ってきたのは返事になっていないものだった。
これ以上聞いても無駄だと思い、俺は話を追求するのをやめる。やっぱり馬鹿にされてるような気がするんだけどな。
朝顔先生は改めて俺に向き合うと、さて、と話を切り出した。
「今回呼び出した件だが…端的に言えば篠末、君の力を借りたいんだ。」
「俺の力を借りたい?どういうことですか?」
「まあ正確には篠末と菜名宮の力、なんだがな。」
ふう、と小さく朝顔先生は息を吐いた。かすかに煙の匂いがあたりに充満する。
「うちのクラスにいる雛城って知ってるか?」
「そんな人いましたっけ。」
頭の中で雛城、という同級生に心当たりがないか探してみるがそんな名前に覚えはない。というか、クラスメイトの名前半分くらい覚えてない。石田はめちゃくちゃ寝るやつだから覚えてただけだ。
「相変わらずだな…と言いたいところだが、今回は仕方ない。篠末でなくとも、覚えていないのは割と不思議でないかもしれないな。」
「俺でなくともってどういうことですか。」
「雛城はな、2年になってほとんど教室に来ていないんだ。」
スルーですかそうですか。朝顔先生って段々俺への当たりが酷くなってる気がするんだよな。初めて会った時こんな感じじゃなかっただろ。
「たまに来てもほとんど授業を受けずに帰ってしまう。1年からそもそも素行の悪さが目立つ生徒ではあったが、2年になってからはひどくなっている。」
先生は頭に手を当て顔を顰めている。あまりにも苦しそうな顔から、先生が苦労しているのが容易に想像がつく。
「それに、家でもずっと反抗的な態度でいるらしい。たまに家に帰るのが遅いこともあると親御さんが言っていたな。」
「なんというか、典型的な非行学生って感じですね。」
「言っちゃ悪いが、まあそうだな。教師陣もその振る舞いを注意したり、何度か話し合いの機会を設けたんだが結局ほとんど効果がなかった。」
「なるほど…それで、なんで俺が呼ばれたんです?」
俺が最初から持っていた疑問を改めてぶつける。すると先生は案の定というか、俺が予想していた通りの回答を突き出してきた。
「簡単な話だ。雛城を更生させてほしい。」
「更生って…具体的にどうやってですか。」
「普段の素行の改善であったり、授業を受けないことをなんとかしてほしいな。」
「なんで俺なんですか。」
「こんなことを頼めるのが篠末くらいしかいないからだよ。」
朝顔先生は、さも当たり前のように言った。
それに対し思わず鼻で笑ってしまう。
「俺しかって言いますけど…今回の案件に関しては俺、むしろ向いてないような気がするですけどね。」
「ふむ?」
「だって一番近くにいる奴がまともに登校してない状況を直せていないんですよ。」
そんな事を言いながら、頭の中に浮かぶのは菜名宮の姿だった。今朝遅刻しながら教室に入場し、そして昼頃相対した隣人のことを思い出すとそれだけで頭が痛くなる。
「それはそうだな…」
「でしょう?それに生徒の更生なんて、俺には到底無理ですよ。なんせクラスメイトとまともに話すことすら堪らない。」
「自分で言ってて悲しくならないのか?」
自信満々に言ったけど、実のところは悲しい。自分が人と話すのが得意ではないって言うのは事実だが、それはそれとしてそのことを自覚するのは割と辛いものがある。
「だから、俺には無理ですよ。その雛鳥?とかいうやつの更生なんて。」
片手を空にあげて、自分にはできないと言うことをアピールする。
非行学生を更生させるなんていうアニメ的な展開は、現実ではできる奴なんてほとんどいないのではないか。少なくとも俺は確実に無理だ。
俺はクラスの不登校児を学校に通うように説得する熱血教師ではもちろんないし、心に訴えかけるラノベの主人公でもない。ただ一人のありふれた高校生である。悪い素行が目立つ生徒の更生なんてできるようなタマじゃない。
「ふむ…困ったな。」
朝顔先生は顎に手を当て、考えるような仕草を取った。ほんの少し表情が歪んでいる。
一見すれば問題解決の頼みの綱がなくなり、悩んでいるように見えるだろう。しかし俺はそんな仕草を見て、思わず苦笑してしまった。なぜなら悩んでいるようなポーズを取っているように見えて、朝顔先生の口元が笑っていたからだ。
その表情を見た時点で、この後の展開が容易に想像できてしまう。それは決して心を読む能力なんてオカルトめいたものではなく、ただの経験則からきている想像だ。
「ならば、依頼の仕方を変えようか。」
案の定、朝顔先生はこんな事を言う。
朝顔先生はきらりと口元に星が出ているかのような、素晴らしい笑顔をしていた。
「同じ要件を菜名宮六乃に頼もう。篠末は、菜名宮に掛け合ってくれるか。」
「でしょうね…」
考えていた通りの展開に、呆れてしまう。
「なんだ、不服か?」
「いえ、もう想像してた通りだったんで笑っちゃっただけです。」
おそらく、朝顔先生は鼻から俺がこの件に対して首を縦に振ることを考えていなかっただろう。絶対に俺が拒否する事を想像していた。
朝顔先生が本当にこの件を依頼しようとしていたのは、おそらく菜名宮だ。
あいつなら、こんな無茶でも引き受けてしまう。だって、菜名宮はそういう奴だから。俺は人の心を動かすような力もなければ、そんなやる気もない。正統派主人公のように、どんどんと周りのものを味方につけていくようなそんなカリスマ性なんて持ち合わせていない。
しかし、それはあくまでも俺の話だ。俺の隣の席の菜名宮ならまた話は変わってくる。先生もそれを理解しているのだろう。
「まあそうだろうな。実際、これは菜名宮に依頼しようとしていた事だ。」
「なんて回りくどい…」
「そうするしかないからな。菜名宮はまず教師の呼び出しに応じない。話があると言っても職員室には来ないやつだからな。それに我々の話を聞かないことの方が多い。」
「そういうやつですからね。」
「よくわかっているじゃないか。菜名宮は教師の話を聞くことはないが、なぜか篠末の声には耳を傾ける。だから、君にこの話をする必要があった。」
菜名宮は、いつも自由気ままなやつだ。割と自分の都合でずっと過ごしている。自分の時間を捻じ曲げられるのが大嫌いで、教師の引き止めには応じない。
おそらく授業を休む時も、菜名宮は自分のやるべき事と信じた事をやっているのだろう。その時、授業はあいつがするべき事の妨げになっている。だから菜名宮は授業を時々サボる。朝は多分ただの寝坊だけど。
「一度篠末に依頼をして、それがダメなら菜名宮に依頼してもらうように声をかける。こうでもしないと菜名宮は動かない。」
ふっと、軽く朝顔先生は笑った。菜名宮という生徒の扱い方を心得ている。
「まあそうですよねえ、なんてめんどくさい。」
俺は両手を広げ、口端を少しだけ歪ませた。
「というわけだ、篠末。菜名宮に話を通してくれるか。」
「嫌だと言っても意味ないんでしょうね。」
「ああ。」
はあ、とため息が溢れ出る。もう俺がするべきことが決まってしまった。
「わかりましたよ。菜名宮に声をかけておきます。」
「協力感謝するよ。」
朝顔先生はさっきよりもわかりやすく、笑っていた。
同日夜、家に帰った俺は荷物を自室のベットの横にほっぽり出すと、ポケットからスマホを取り出す。普通ならスマホは学校の時間はカバンに入れておかなければならないのだが、俺はいつも制服の腰ポケットに常備している。それは、スマホがいい暇つぶしの道具だからだ。
あたりが雑談に耽っている中、授業中の休み時間は大抵寝てるかスマホ触ってるフリして過ごしている。大抵菜名宮は隣にいないことの方が多いし、クラスで他に喋るような奴もほとんどいない。だから休み時間の過ごし方は決まっているのだ。
腰を落としてベットにもたれかかると、通話アプリを開く。スクロールする意味がないほど少ない、友人の欄の一番上にある名前をタップし着信をかける。2コールする前に、相手は電話を受け取った。
「どうしたの、タキ?」
電話の主、菜名宮は携帯越しでもわかるくらい透き通った綺麗な声をしていた。
「菜名宮、すまんな。今家か?」
「そうだけど。」
「いつ頃からそこに居た?」
「お昼くらいかな。化学の授業でタキが寝かけていたくらいには家に着いてたよ。」
やっぱりこいつ昼の間に帰っていやがった。机に荷物なかったし、授業結局来なかったからまさかと思ったが案の定だ。
「なんで俺が化学の授業で寝かけてたこと知ってるんだよ。」
「タキのしそうな行動なんてなんでもお見通しだけど?」
「怖すぎるだろ。」
朝顔先生といい、俺の周りにエスパー多すぎない?
それかもしかして監視でもされてる?だとしたら相当暇人だなそいつ。
「んで、どうして私に電話かけてきたのかな。人肌恋しくなった?」
「なんでそうなる。」
「寂しいなら私はいつでもタキの元へ駆けつけるよ。」
「いや大丈夫です。」
「本当に大丈夫?私にできることない?」
「心配の仕方が確実に悪い男に捕まる人のやつ。」
なんかこんなキャラクター、昔妹が見てたアニメであったような気がする。深夜帯に放送してた奴だ。何気なく録画番組の一覧から見てみたらめっちゃ後悔したやつだ。
「私はいつでもタキの味方でいるからね。何かあったら言って。力になるよ。」
「今月金で困ってて…少し貸してくれない?」
「えっと…どのくらい?」
「5万くらい貸してほしいな。」
「…仕方ないよ。タキ、今月で3回目だけど、お金返せそう?」
「いや…少し厳しいかもしれない。」
「返せそうにないの?」
「俺は、ずっと夢を追って行ったいんだ。そのためにはどうしても必要なんだ」
「なら仕方ないね…タキの夢のためだもん。」
「将来悪い男に引っかかるなこいつ。」
こんなにも模範的な、ダメ男に尽くす女性のマネができるのが恐ろしい。
「今のは結局3年くらいして男の方から愛想尽かされて何もかも失う女性の真似。」
「似過ぎているし状況がリアルすぎて怖い。」
「はははっ、どうもありがとう。」
「変なところで変な力見せないでくれ。」
画面越しに、菜名宮のケタケタとした笑い声が聞こえる。
俺は伸ばしている足を動かして交差させる。同じ体制でずっと過ごしていたため、ちょっと足が痺れていた。
「それで、結局要件は何?話逸れまくってるけど。」
「誰のせいだと思ってんだよ。」
「他でもない私だな。」
「よくお分かりのようで。」
どうやら自分から話を逸らした自覚はあったらしい。
「私賢いからね。」
「はいはい、そうだな。」
「少なくともタキよりは賢いのは本当だよ。この前の定期テストが証明している。」
「…この前のテスト何位だったんだ。」
俺は少し間を開けて聞く。
「2位〜」
電話越しから、少し笑いを含んだ声が聞こえる。勝ち誇っているしている菜名宮の鮮明な姿が浮かんだ。
「は?高くね?」
「だから言ったじゃん、賢いって。少なくとも私より上にはタキの名前がなかったから私の勝ちだ。」
実際、菜名宮は俺に定期テストの点数で勝っていた。ちなみに俺は確か115位。 半分よりは上だけど、別にすげえ〜ってなるわけでもないマジで微妙な順位。これでも一応前よりは上がってるんだけどな。
「というか、この前のテストそもそも受けてたのか。お前いなかったような気がするけど。」
「受けてたよ。5日間とも30分くらい遅刻したから別室でだけど。」
「なんで当たり前のように遅刻してんだよ。」
テスト期間中でさえ毎日遅刻できるのはもはや才能なんじゃないかな。というか菜名宮って遅刻してない日あるの?
「テストを受けただけでも褒められるべきだと思うんだけど。」
「だからお前は何様なんだ。」
「他の誰でもない菜名宮様だよ。」
菜名宮は自信満々に語る。だが実際、よく考えたら毎日遅刻してるのにテスト2位って結構高い。割と化け物じみた順位である。これは確かに菜名宮様だ。でも菜名宮のこと絶対様付けしたくねえな。
「じゃなくて!菜名宮に話があるんだよ。」
なんで菜名宮の成績の話になっていたんだ。さっきから全然関係ないことばっか話してる。
「話逸れまくってるから全然本筋に辿り着けない。」
「誰のせいだと思ってんだよ…本当に」
「他でもない私だね。」
「ちょっと流石に本題に入ろうか。」
「OK」
なんかこのままだとまた同じように話が逸れそうな気がした。ここら辺で軌道修正かけておかないとまずいと、俺は判断した。無限ループって怖くね?
「今日、朝顔先生に呼び出されたんだよ。職員室に連れ出されてさ…」
俺は、菜名宮に今日あったことを話しだす。画面の向こうの菜名宮はふんふんと頷いている。
「菜名宮ってさ、雛城のことは知ってるか?」
「知ってる。雛城芽衣奈ちゃんでしょ?同じクラスにいるよ。」
「知らんけど多分そうだな。」
菜名宮はやはり雛城のことを知っていた。一応同じクラスであるし、いくら授業にほとんど来ていないとしても菜名宮が知らないはずもない。
「知らないって…相変わらずだね。」
「興味ないからな。」
電話越しに菜名宮が笑う。ただ、今度は先ほどのとは違い、どちらかといえば呆れているように聞こえる。
「1年の時から結構問題児で、授業にもめったに出ないから、先生に目をつけられている子だよ。最近じゃそれが当たり前になっちゃってるから、先生も声をかけることが少ないらしいし。」
「自己紹介か?」
なんでいきなり菜名宮は自分の紹介をしたんだ?もしかして電話越しの菜名宮は俺と初対面の奴なのか?パラレルワールドの世界線の奴なのか?
「芽衣奈ちゃんのこと。私と芽衣奈ちゃんは全く違う人間だよ?」
「今の説明聞いてる限りだと、2人の特徴は完全に一致してるんだけど。」
「どこが?」
「全部だよ。」
「嘘だあ。」
さっき聞いた雛城の説明、完全に菜名宮の特徴と一致しているんだけど。遅刻魔だし、授業出ないし、先生に見逃されてる。こんなに完全一致してることそうそうないだろ。それともあれか、雛鳥とかいうやつは実は菜名宮だったりすんのか?
「んで、芽衣奈ちゃんがどうしたの?」
菜名宮は話題を切り替えるように、口を開いた。
「ああ、その雛鳥とかいう奴についてなんだけどな。簡単に言えば、朝顔先生から更生させてほしいって俺に依頼が来たんだ。」
「ふーん。」
あえて、俺にの部分を強調させて言った。
本当は菜名宮に頼もうと思っていたと朝顔先生は言っていたが、ここで事実を言ってしまうと意味がない。こうでもしないと菜名宮のやる気を引き出せないことを知っている。
「でも、俺にはそんなこと無理ですって言ったんだよ。」
「そりゃそうだろうね。」
いちいち菜名宮の相槌は腹立たしいものだ。でも事実なだけに何も言えないんだよな。少なくとも俺に朝顔先生の依頼を何とかできる未来は見えない。というかそもそも雛城に会うことする無理かもしれない。
「…まあいいか。そんで、そしたら朝顔先生は同じ依頼を菜名宮にしたいって言った。」
「そういうことね。とりあえず要件はわかった。」
様子を見る限り、菜名宮は事の次第を理解したようだ。また少しの沈黙をおいて、声が聞こえる。
「とりあえず、芽衣奈ちゃんの今の状況を改善しすればいいんだね。」
「だいたいそんな感じだな。」
「わかった。依頼を受けよう。」
菜名宮の声には一切の躊躇がなかった。その返答は、やっぱり俺が予想していたものだ。
決して長い期間付き合いがあるというわけではないが、それでも菜名宮は、朝顔先生の依頼を受けないなんて選択肢にはないと思う。
「よくそんな即決できるよなぁ。先生の依頼内容ってめちゃくちゃ抽象的じゃないか?具体的に何すればいいか決まってるもんじゃないのによ。」
独り言のように、俺は呟く。
更生、なんて言葉の定義はあまりにも曖昧なものだ。帰宅途中に調べた意味なんかでは、もとのよい状態にもどること。或いは役に立たなくなったものに手を加えて利用すること。という意味があるらしいが、それはあくまでも辞書的な意味である。
結局どうすれば『更生した』ことになのかが明確になっていない。いわばゴールが全くわかっていない状況なのだ。
終着点が見えなければ、モチベーションなんてものは当然下がってしまう。どこまですることが正解なのか。何をすればタスクを完了したことになるのか。それがわからなければ、自ずとやる気は無くなっていくものだ。
しかし菜名宮に関しては、この問題に興味津々である様に思える。
「だから、朝顔先生は私にこの問題を回してきたんでしょ?何をすればいいか正解ってわからない事は、解決法は自由って事だよ。」
菜名宮の声は心なしか、少しウキウキしているようだった。
「先生の立場じゃ、どうしても生徒にできることは限られている。朝顔先生だって思慮深い人だ。おそらく芽衣奈ちゃんのことを放置していたわけじゃないだろうし。ただ、どうしても教師という立場でできることには限りがある。おそらく出来ることは全てやって、それでも打つ手がなくなったから私にこんな話を持ってきたんだろうね。」
「まあ、そうだな。」
朝顔先生はああ見えて、生徒思いな先生だということは俺も知っている。
普通ならめんどくさいと思う俺や菜名宮に関わることにも全く躊躇がないし、他の生徒と分別することなんてほとんどない。授業に遅刻してくるし、課題は唐突に出すし、たまに俺の存在感を馬鹿にする。時たまタバコ臭いところあるし、あと性格は結構高圧的だったりする。最後の方だけ聞いてるとめちゃくちゃ悪い先生だな。だからあの先生モテないのか。
「だから、私は私にしかできない方法を考えられる。どうやったら芽衣奈ちゃんのためになるのか。何をやるべきかわからない、じゃなくて何をやるべきかは決まっていないだけだよ。」
菜名宮の声には一切淀みがなく、自分の考えに疑いの余地なんてまるでないとでも言いたげだ。菜名宮のこういった発想は俺にはない。
先の見えない暗いトンネルをただひたすら歩き続けたとしよう。真っ暗で何も見えず、永遠に変わらない景色。そんな道を歩くことになったとすれば、俺はいつしかゴールなんてないんじゃないかと思う。
しかし菜名宮は同じ状況に陥っても、ゴールがあると、いつしか必ず洞窟の先に光があると信じて疑わないような違いだろうか。
進んでいけば必ずゴールがあると信じているというより、ゴールがあることを確信しているように、菜名宮は振る舞うことが多い。菜名宮の目には、暗闇の先のゴールが見えているのか、はたまた本当は何も見えていないのに見えているように振る舞っているだけなのか。
「決まっていないだけ、か。まあ菜名宮ならそう考えるか。」
「当たり前だよ。」
やはり、菜名宮はどうしようもないやつなのだろう。思わず苦笑いをしてしまう。
「明日、早速芽衣奈ちゃんに会いに行こう。とにかく現状を知らなければ何も始まらないからね。」
「嫌だと言っても聞かないんだろうな。」
「もちろん。」
「はあ…我儘だ。」
「だって私だからね。」
電話越しに聞こえる菜名宮の声は、憎たらしいほどに明るかった。