前編
僕は人生において心に余裕を感じた瞬間がほとんどない。
今現在、高校2年の化学の授業中においては特に余裕がない。
毎回授業の度に担当教諭の渡部から罵声を浴びせられ、パワハラを受ける。
「おい! 玖来夢! ちゃんと話を聞いているのか?!」
玖来夢。僕の名前だ。フルネームで上堂玖来夢。読みはかみどうくらいむ。父が名付けた。父の名は登。
「はい……」
僕は自信なさげに返事をする。
頭が悪いので授業の内容が全く理解できず、実質何も聞いてないのと同じだ。
渡部から今、何を指示されたかすら分からない。
「すみません。どこを読めばいいんですか?」
「教科書の音読じゃない! 73ページの演習問題を解けと言ったんだ! ちゃんと話を聞け!」
クスクスクス。
周囲のクラスメイト達が僕を嘲笑する。
必死に聴こえないふりをして席を立ち黒板の前に出て問題を解こうとする。
しかし、解き方などさっぱり分からない。
この状況はもうどうしようもない。
「すみません。分かりません」
「分かりませんは答えになってない。どう解けばいいか説明だけでもしろ。何も考えずに逃げるな」
「……………」
僕は押し黙ってしまった。
逃げるなと言われても対処のしようがない。
不安で僕は泣き出しそうになるのをぐっと堪える。
「すみません。どう解けばいいのかも分かりません」
必ず怒られてしまうがこう答えるしかない。
渡部は授業の度に俺に説教するタイミングをこうやって意図的に用意する。
「ゴラァッ! 普段から居眠りばかりしているからこういう事になるんだぞ! もういい。話にならん! 席に戻れ!」
僕は席に戻った。
居眠りをするなと注意を受けたにも関わらず早速眠い。
中学に入学した辺りからずっと昼夜逆転の生活を送っている。
全授業を居眠りに使い、夜中中、スマホでアニメを観たり、ゲームをしたり漫画を読んだり、ネットを観たりと夜更かし三昧の日々。
一度ついた悪習は中々元に戻らない。
このままなし崩しに高校を卒業したらどうなるのだろうか。
アルバイト経験がなく、毎日のように昼間居眠りをしている人間が職務を勤め上げられるはずがない。
そもそも就職できるか以前に高校卒業できるかすら怪しい。
僕は将来の夢も希望もない。
常に余裕がなく生きづらい。
僕は生きるのに向いていない。
○
休み時間。
スマホで音楽を聴き、机に座ってライトノベルを読み、外界を完全に遮断する。
にも関わらず僕はいじめっ子達に呼び出される。
「おーい。玖来夢。ちょっと来いよ!」
森田と黒崎が僕を廊下へと呼び出す。
「ちょっとここに横になれよ。うつ伏せにな」
目下にはスケートボードがあった。
「なんでそんな事しなくちゃいけないんだよ……」
「早くしろよ。お前に拒否権ないから」
実際、僕に拒否権はなかった。
肉体を鍛え上げられた運動部員5人に対し、虚弱体質で帰宅部の僕一人。
反抗して敵うはずがない。
しぶしぶ僕はスケートボードの板にうつ伏せに寝た。
そして森田と黒崎が僕の身体とスケートボードをスズランテープでぐるぐる巻きにして縛り付ける。
「ちょっ……止めろよ! 危ないだろっ」
「逃げられないように固定してるの。こっちのが安全だからある意味!」
「ギャハハハ。マジウケる!」
この学校は下品な笑いで満ち溢れている。
地域で1番偏差値の低い高校だから仕方がない。
スズランテープで固定された僕はスケートボードと一体になった。
「スリーツーワンゴー!」
森田のかけ声の直後にスケートボードは思い切り蹴り付けられ、僕は廊下を急滑走させられた。
「ギャー! 怖い! 助けてぇ!」
スケートボードはすぐ右に逸れて壁に、顔面と肩を思い切り激突した。
非常に痛かった。
少し鼻血も出た。
「ギャハハハッ」
森田と黒崎とその取り巻き達が僕を見て爆笑している。
僕をいじめる森田や黒崎達はいつか殺してやりたいほど憎い。
そう考えているうちに休み時間が終わり、またついていけない苦痛の授業がはじまるのだった。
○
僕がいじめを親や教師に告発できないのにはいくつか理由があった。
一つは、親と教師に告げ口しても仲間内の悪ふざけ扱いしてまともに取り扱ってもらえない事。
二つは、告げ口する事自体が屈辱的であるという事。
三つは、告げ口した事による彼らの報復が怖いからだ。
いじめは日に日にエスカレートしている。
そのうちいつか、体操マットの下敷きにされて圧死させられるなどの事件になり殺されてしまったらどうしようと不安になる。
そうなる前に僕を虐めている奴らには一矢報いたい。
毎日、どう反抗しようか考えているが良い策がなかなか思いつかない。
憂鬱な気分のまま一日を終える。
○
放課後。
帰りのホームルームが終わると、帰宅部勢と部活勢が教室で十数分間駄弁っている時間がある。
僕はその駄弁っているクラスメイト達の間を早足ですり抜けて真っ先に校舎を出る。
「何あいつ(笑) 帰るの早っ(笑)」
クラスメイトの女子が嘲笑する。
いつかその顔面をナイフで引き裂いてやりたい。
早々と高校から逃げても家には帰らない。
僕は家にも居場所がないのだ。
折りの合わない父と姉と極力接したくない。
だから僕が家路に着くのはいつも午後9時過ぎだ。
まずは考え事をしながら学校の周りをひたすら自転車で巡る。
そして古本チェーン店に行き、立ち読みをして時間を潰す。
何日かに一回は2、3冊100円のマンガか文庫本を買う。
夕食はスーパーの休憩所で摂る。
半額になった惣菜弁当を買って食べる。
休憩所には近隣の進学校の生徒たちが勉強している中、僕は貪るように弁当や菓子パンやカップ麺を食べる。
勉強中の進学校の生徒はそんな俺の姿をいつも訝しげな目で見てくる。
一回、食べ方が意地汚いと注意を受けた事があるが無視してやった。
ご飯を食べ終わるとスマホをひたすらいじり9時になったら帰る。
玄関から2階の部屋に行く間、必ず居間を通りがかる。
居間では飲んだくれの父が酒を飲み酔い潰れて寝ている。
ブルーカラーの仕事なので朝早くに家を出るが帰りも早い。
帰ってからテレビを観ながらずっと酒を飲んでいてこの時間には居間で寝落ちしている。
母親は僕が小学生の時に他の男のところへ逃げてしまった。
母の気持ちは痛いほど分かる。
父は低収入かつ下品で小汚く下劣で愚鈍な男なのだ。
一緒にいるとどうしても不愉快な気分になる。
中学に上がってからはほとんど口を聞いていない。
僕の部屋は姉の部屋とパーテーション越しで繋がっている。
姉は一個上の18歳だが高校中退で既にバツイチで子どもがいる。
姉は赤ちゃんが泣いているのを放置して、今彼とセックスをしている。
赤ちゃんの鳴き声と、姉の嬌声が入り混じりただただうるさくて気持ち悪い。
「オギャアッオギャアッ」
赤ちゃんが泣く。きっとお腹が空いたのだろう。
「うるせえ! だまれ! ガキ!」
姉の彼氏が赤ちゃんを怒鳴りつける。
僕は居た堪れなくなってタバコを持ってベランダに出た。
ベランダに出ても煩わしい姉の嬌声と赤ちゃんの泣き声が聞こえる。
姉と姉の彼氏と赤ちゃんが大人しくなるまで外気の冷たいベランダでタバコを吸って過ごす。
結果的にベランダに追いやられた僕はなんだか感傷的な気分になった。
生きづらい。
ただひたすらに生きづらい。
居場所がない。
クラスの皆は毎日笑顔で人生が楽しそうで羨ましい。
僕はちっとも楽しくない。
毎日が辛い。
希望がない。
救いがない。
社会が憎い。
気に入らない奴は全員皆殺しにしてやりたい。
「今日もそうやってそこにうずくまってるんだ」
隣のベランダから女の声。
隣の部屋に住んでる同級生の上川白湯子だ。
学校のクラスは違うが、隣同士のよしみで、こうやって毎日のようにベランダでうずくまって落ち込んでいる僕に話しかけてくれる。
「どうしようもない人生を憂いて、うずくまっている」
「なんかポエマーみたいだね」
「生きていても何もいい事がない」
「これから先、いい事があるかもよ。目指してるんでしょ、公務員」
「でも全然勉強に身が入らないんだ」
「ちゃんと勉強しなきゃだめだよ。まあ私も看護大学受験の勉強まだ全然捗ってないけど」
「もう進路決めて勉強始めてるだけ凄いよ」
「凄くないよ。平均年収が高くて私の学力レベルでもなれそうだから目指してるだけ。医療とかぶっちゃけ興味ない」
「実際のところ仕事なんて安定してて収入が良ければなんでもいい」
「分かる。やりがいとか面接練習の建前でしか言った事ないわ」
「やりがいを求めて自己啓発本とか読んでるサラリーマンとか、やたら仕事熱心なコンビニ店員のパートのおばさんとかまじで意味分かんない」
「それ私も思ってた。側からみると滑稽なだけだよね」
「ほんとそれ」
白湯子と僕は多分どこか気が合う。
そんな気がする。
白湯子は毎晩、ホットミルクを持って夜の外の景色を眺めにベランダに出てくる。
星空を眺めながらたわいもない事を話す彼女の横顔を僕は目に焼き付くくらい見惚れてしまう時がある。
どこにでもいそうなただの地味な女の子なのに。
「じゃあ私そろそろ部屋に戻るね」
「じゃあな。おやすみ」
「おやすみ」
ベランダで白湯子と話すと心が少し温まる。
○
姉達が寝静まってからは、僕の本当の自由時間だ。
スマホにイヤホンをつけ深夜アニメやVtuberの配信を明け方まで観る。
この時間が僕が唯一心が休まる時間。
これが僕の唯一の生きがい。
ずっとこの夜が続いていればいいのに。
僕は朝3時を過ぎた辺りでVtuberの可愛い声にうっとりしながら寝落ちした。
○
翌朝。
眠い。
学校に行きたくない。
後期はまだ出席日数に余裕がある。
授業の出席率が8割以上ならば単位は手に入る。
裏を返せば2割欠席しても高校は卒業できるという事だ。
しかし父は不登校や遅刻、無断欠席を良しとしない。
だから僕は一度学校に行くふりをして一旦、家を出る。
そして、担任の先生に体調不良で休むとスマホで電話をかけて学校をサボり、父親が出勤してから家に戻る。
今日も家に引き返し、ベッドに横になって二度寝をしようとしていた。
ガチャンッ。
誰かが家に戻ってきた。
姉の部屋とのパーテーションは開いていた。
僕はとっさに押入れの中に隠れた。
「うーい。入って入って」
姉の彼氏だった。仲間を二人連れてきた。
姉はなぜか留守だった。
赤ん坊を放っておいて。
「お邪魔しまーす。赤ちゃんいるんですね。可愛い〜」
「そんな事ねーよ。俺の子じゃねぇし」
「そういえばそうだったな」
「みらの(姉の名前、未来乃と書く)さんは?」
「パチンコ行った。だから今日は俺が子守りの日」
「みらのさんまたパチンコですか?好きですねぇ」
「パチンコなら全然良いよ。浮気してたらこのガキそこのベッドにぶん投げてやる」
3人は勝手に姉と僕の部屋に居座り雑談を繰り広げる。
そして赤ちゃんがいるにも関わらず全員部屋の中でタバコを吸い始めた。
3人は座り込み部屋を出る気配がない。赤ん坊はすやすや寝ている。
物の詰まった押入れに無理矢理入ったので態勢がキツい。
少しでも物音を立てたら勘づかれてしまう。
姉の彼氏は俺の事を嫌ってる。
俺が部屋にいる事がバレたら十中八九ウザがられる。
そんな中、非常に難儀な事態が起きた。
おしっこが漏れそうだ……。
尿意は時間が経てば経つほど増していく。
そして、1時間後。
「ヒマだからドンキでも行くか」
3人は部屋から立ち去った。
僕は押入れを飛び出してトイレに向かった。
しかし間に合わなかった。
僕は年甲斐もなくおしっこを漏らしてしまった。
○
夜のベランダにて。
「ひっくっ。ひっくっ……うぅっ」
「どうして泣いているの?」
「かくかくしかじかで、自分自身が不甲斐なくて……」
「あははっ」
「笑われても仕方ないよね……」
「ゴメンゴメン。まああんたの立場だったら私もキツいわ」
白湯子は僕に同情してくれた。
白湯子だけがいつも辛い時、僕のそばにいてくれる理解者だ。
○
土曜日。
学校が休みなので僕は出かけていた。
行き先は大体古本屋か図書館だ。
街中の古本屋で立ち読みをしていたら白湯子が話しかけてきた。
「やっほー。せっかくの休みなのにシケたところにいるね」
「僕はこういうところにいるのが好きなんだ」
「せっかくだし今日ちょっと付き合ってくれない?」
「えっ!?」
予想外だった。
ベランダで会話するだけの仲だと思っていたので、僕を誘うなんて微塵も思っていなかった。
「どうせ暇でしょ。ちょっと頼み事があるの」
「ああ、分かったよ」
僕はいつも暇なので承諾した。
○
「彼氏の代わり!?」
「そう。今日、元彼と会う約束しちゃって。でも今彼氏いるから紹介するって嘘ついちゃった」
「それで俺が彼氏役って事か」
「そうなの。お願い! 次の店奢るから」
「奢りはいいよ。元彼ってどんな人?」
「顔はまあまあ整ってて、背が高くて、進学校に通ってて頭が良いの!」
「それは凄い人だな」
「でも私の事一方的に振ったくせに『また会いたい』って言い出してきて『もう新しい彼氏できた』って嘘ついたら今度は『彼氏さんと遊んでみたいから紹介してくれ』って」
「それでOKしたのか」
なんか嫌な予感がする。
大方、その元彼は僕はを差し置いて白湯子とヨリを戻すつもりで、白湯子自身も満更でもない様子。
僕は差し詰め寝取られ風恋のキューピッド役って事か。
○
僕の予測は当たった。
元彼の名は滝沢修二。
白湯子の言う通り顔がそこそこ整っていて、背が高くて、聡明で、人柄も良かった。
喫茶店で一時間程三人で雑談をして、その後特に行くところもなくお金もないのでカラオケボックスに入った。
喫茶店での雑談の途中から白湯子と修二の二人の世界になってしまい、カラオケでの僕は完全に空気だった。
僕は適当に用事があると嘘をつき帰った。
家に帰り、父親からパクったタバコを吸いにベランダに出たら、隣で白湯子が夕陽を眺めていた。
目には涙を浮かべていた。
「帰ってくるの早いな。あの後すぐに解散したのか?」
カチッ。
タバコに火をつけながら僕は白湯子に訊いた。
「玖来夢が帰った途端に抱きしめてきて『寄りを戻さないか? さゆはまだ俺の事好きなんだろ』って言われた」
「ふーん」
「修二。きっと本気じゃない。多分他にも女いるだろうし。弄ばれるのは悔しい」
「じゃあキッパリ振ったのか?」
「何も……答えられなかった。どうしても修二の事、まだちょっと好きみたい。修二の腕を振り解いてそのまま逃げてきちゃった」
「そうか……」
「うぐっ……うわあぁぁぁんっ」
白湯子はとうとう泣き崩れてしまった。
僕は白湯子が悲しむ姿をこれ以上見たくない。
白湯子はいつも落ち込んでる僕を勇気づけてくれた。
白湯子は僕にとって大切な人だ。
「白湯子。僕は白湯子の事が好きだ!」
「えっ!?」
「僕じゃ修二には到底叶わないけど白湯子と付き合いたい!」
「そんな急に言われても……」
「修二みたいにはなれないかもしれないけど、僕白湯子と釣り合うように頑張るから」
「玖来夢……」
僕と白湯子の目と目が合う。
お互いしばらく押し黙った後、白湯子が重々しく口を開く。
「ごめん。正直に言うと玖来夢の事はなんというか異性として意識できないかな?」
「僕じゃときめかないって事?」
「そういう事ではないんだけど……あーなんて言ったら良いんだろうー」
「僕は真剣なんだ。ちょっとやそっとじゃ諦めきれない!」
「ちょっと一旦落ち着きなよ。とりあえず……保留で! 一ヶ月後に付き合う気どうか決めさせて!」
「そんなに待てないよ……」
「じゃあ二週間で! ほらここ二週間ってちょうど定期テストがあるじゃん。それ終わるまでお互い勉強に集中した方がよくない?」
「確かにそうかも。二週間の間もこうしてベランダで一緒に話す時間ほしいな」
「いいよ。私もここで黄昏れている時間勉強の気晴らしになるし」
「お互い頑張ろうなテスト。僕は今回こそ必ず良い成績を取るから。白湯子に見合う男になるために」
「おう。頑張れ……って私が言うのもおかしいかなっアハハッ……」
僕は白湯子と付き合うため、一週間後の定期テストに向け努力する事を決意した。