地獄の夢想家
人間の持つ欲望や業がたっぷりに詰まっている場所なのだと思った。全知全能の場所。試されてるようにすら感じるし、大したことないようにきっとやり過ごすのだろうとも思う。あるがままの出来事が自分自身でなんでも出来るとしたら、どうしようか。本物ではなくとも、そこにある万能感に酔いしれる自分自身は確かに本物だ。間違いなく、そこには強烈な陶酔感がある。音楽も。映画も。漫画も、素晴らしい小説だって。望むがままの人生がそこには詰まっているのだ。
「起きてる?」
「…起きてる」
結局僕は布団で、そこから5メートルぐらい離れた場所でビッキーはベッドで寝ていて、さっきまで歯ぎしりが聞こえてきたけど、どうやら起きたらしい。無視すべきかと思ったし、今が地球ならきっと無視してた。今は特別な場所で、ありえないおこりえない場所で、地獄だから、返事をした。一度でも意識してしまったら、まるで深海の中にいるようなどうしようもないような気分になってしまった。息が詰まるような。夢幻の世界では、人間は人間としての形を保てない。全てが自由の世界では、そこはもう、きっと人間ではいられないのだ。人間を辞めてる僕とビッキーだからなんとかやってこれてるのだと思う。それとも、ビッキーもまた、この夢幻の世界に、息が詰まっているのだろうか。
「なんかさ、私達って500年後、死んだような顔をしながら、お互い貪るように体重ねてたりしてそうじゃない?」
否定できないなと思ったのは、僕の精神状態がやっぱり弱くなってるからだと思う。人間は50年で社会の形態が変わる。100年で江戸の街は電飾の街へと変貌した。それが200年、300年、500年となると、一体どうなっていくのだろうかと思う。ここが過渡期で、人類はいつもこのあたりぐらいから絶頂を迎えて終末で絶滅していったのだろうか。そうでなかったらどうなるのか。この先、人類はどういう風に向かってくのだろうか。そして、僕達はどうなってしまうのだろうか。漠然とした不安な未来が、僕に臆病風を吹かせる。
「先の事は考えすぎないのが、人生のコツ」
実際のところ、超越した人間になってから、ちゃんとした交友関係を持てるような人間関係がずっと続くんだろうか。吸血種もいるけど、仲間もいるけど、ビッキーとは血肉を見て、殺し合って、挙句拒絶して、やっとちゃんとした人間としての距離感を整備できた、生まれて初めての関係性だ。こういう関係性は、もう多分無いだろう。もう世界を天秤にかけるような事はしたくない。こういう話し方だと、ビッキーには悪いのだろうか。
「わかんないよ。そんなこと」
自分の肉体がどうなるのか。自分の死後どうなるのか。死んだあとの世界を気に掛ける人間はそう居ない。普通そうだ。大体そう。死ぬことだってこれっぽっちも考えないものだ。それが普通だ。怖い事なんて、誰が好きこのんで考えるだろうか。挙句、自分の知らない宗教の地獄に連れていかれて、よくわからないままよくわからない事をされることだって。あるのかもしれない。
「それで十分かな」
どういう意味なのか分からないし、分かりたくない。まるで大人の会話じゃないか。
「ここの地獄の事ってさ、あんまり僕達が介入すべきことじゃないよね」
「わかってんじゃないですかぁ。どうでもいいですよぉ。こんな場所なんて」
そして、大きなあくびが聞こえてきた。
「私達の住む世界じゃない。ここは、未来とは隔絶した過去の世界なんですよ。私達の場所じゃない」
そんな事を言われた。納得して腑に落ちるものがあった。
「そうかもしれない。過去の世界か。過去か。灰色の世界」
「もっと言うなら、この世界を私が独占してもいい。この地獄の世界から生み出された芸術的価値は途方も無い無限の可能性を秘めている。人類の発展に大きく寄与できるし、人間の在り方そのものを変えると思う。社会だって文化だって変えるかも。でも、それは少なくとも、今じゃない」
「そうだよね。なんか。結構さ。なんだかんだいって、結構似てるよね。僕達って」
「そういうきもい事マジいいから」
「…」
そして拒絶。言った後も、自分自身できもいかもって思ってしまった。こういうのって、えもいっても言うんだよね。えもえも。感情的なみたいな。エモいなぁ。とか。そういう風に言えないかなぁ。男子学生って女子の何気ない一言に傷つけられるってことを女子は知らないんだよね。逆に、何気ない一言で、一年間まるで馬鹿みたいなハッピーになれることだってあると思うし。大切なんだよなぁ。女子と話す時。まぁ、僕の近くで寝てるのは女子というか化け物が着せ替え人形で整った顔してるってだけの話ぐらいに思ってるんだけどね。
「…」
現実的に微妙に絶妙に嫌な事をされてから、不思議と眠くなってきた。それがあまりにも現実的でマトモな事で、日常のような感じがしたから、僕は呆れて一周回って正常な考えが出来てしまったようだ。
「…」
おやすみなさい。声に出して言うと、構って欲しいモード全開の痛い男子になっちゃうので、そんなアニメみたいなわざとらしい事は決してやらない。ここは過去の世界か。想像すらしてなかったな。過去の世界か。そう考えると、この夢幻の世界に、うまいこと折り合いをつける事が出来そうだ。だからきっと、僕は地獄の芸術に手を出すべきではないのだ。目の前にコカインが置かれていて、手の届くところにあったとしても、興味本位でやってみるべきではないのだ。無数の残酷さと、無慈悲な結末が、口を開けて未来は邪悪な顔をして待っている事もあるのだ。そう考えると、やっぱりここに招いた地獄王は、相当ヤバイと思う。僕達をただもてなそうなんて考えてるのではなく、やっぱりテストも兼ねているのだと思う。
「…」
よそはよそ。うちはうち。そんな言葉を思い出した。地球は地球。RealはReal。地獄は地獄。だから、別の世界なのだ。そもそも、僕なんて、欲望や快楽といった脳内麻薬に溺れるだけの一瞬にはそう興味なんてあるわけじゃないし。やっぱり僕はまだ子供なのだろうか。男子高校生だけど、根っこの部分は大人じゃないのか。大人ならきっと、もっと賢くやってのけるんだろうか。僕は僕だからそんなことを考えてもしょうがないのだろうけど、いつか僕もまた、ずる賢い大人になって、僕が軽蔑するような底の浅いような人間になってくのだろうか。普通ってそういうことだとしたら、ちょっとガッカリだし、そういう期待もある。ツキコモリさんとの一件だってある。未来はもう絵に描いてあるのに、普通の未来は邪魔をしてる。
「ががががぎぎいいいいぎぎい」
歯ぎしりが聞こえてきた。はっとした。不安が心を塗り潰していくところだった。心が現実に我に還った。
「…しょうがないな」
そう呟くと、寝入っていった。本当に、どうでもいいことを考えるような余裕があるもんだな。次元を突破し、天界へ向かって、業を成すというのに。いまだかつてない、誰もしてない事をやろうってのに。新しい学級が始まるからって、気になってる好き一歩手前の女子と同じクラスになれるかどうか考えて眠れなくなった小学生を思い出す。
「っち」
思わず舌打ちをしてしまった。一年か二年ぶり。そう、二年あって結局一度も同じクラスにならなかったのだ。中学の三年間も。同じ区域ならクラスメイトにできない規則とかあるんじゃないだろうか。毎年味わう失望感で、僕の絶望耐性はそうとう研磨されていったのだ。
「…」
眠れなくって来てるんじゃないか?
「…」
どうしてそんなどうでもいいことを。考えてしまうんだろうか。
「…」
過去よ、さらば。決別し、断つのは脆弱な僕の心の楔。妄想でこれ以上ないカッコいいマッキーがデッカイ剣を両手で持ってでっかい心の心臓にくっついてる鎖を斬り落とす。
「…」
そんな劇画に、ちょっと満足して、やがてうとうとと…。