第八十四話 地獄の楽園に住まうモノ
一面が黄色い湖のようで、浅い水面から血の通ったピンク色の脳髄がびっしりと視えた。
「…」
眼前には一面の異常な湖とも言える光景に息を飲み込んだ。周囲はそんな有様の湖で、僕達の出たゲートは黒い四角形の棒が、まるで田舎の無人駅のように小高い台座に刺さっている。
「どこだここ…」
てっきり地獄王の住んでるラストダンジョンの城って場所を想定してたけど、思った以上の地獄が目の前に展開されて面喰らう。
「この脳、生きてますね」
何万、何千、水平線が視えてる。何億?何兆?人間の脳みそ。しかも生きてる。
「おや。騒がしいと思ったら」
僕達の隣に、箒に乗った魔女が空間を破って出てきた。
「驚いたかな?この絶景にさ」
「あ。え。まぁ。そうですね…」
見てると心がえぐられてくるような光景に絶景なんて表現はしたくないし、こんなところ絶対にツキコモリさんには連れてこられないな。
「あら。どちら様?」
「箒に乗った魔女だよ。好きに呼べばいい。それより君達が質問しなくちゃいけないのは別の事じゃないのかな?」
「地獄の王様の場所に移動したはずなんですけど、こんな場所に繋がってたんですよ」
「ここは間違いなく王直属の領土だよ。上を見上げてごらん」
上を見ると、灰色の曇り空からわずかに何かが視えた。
「なるほど。あそこに居るんですね」
「そうだね」
ビッキーが指さす空の先に、大きな大陸の一片が視れて取れた。ビッキーの実家も同じ感じだし、何か波長が合うのかもしれない。
「ここなんなんですか?」
「良い質問だね。お答えしよう。これは生命の末端の究極だよ。快楽を追求した結果がコレなんだ」
「どういうことですか?」
いまいちよくわからない。
「何。脳みそにあらゆる刺激と快感が永遠に与えられる場なんだよ。個人の一つの天国と断定した場所の一つだね」
「…脳だけで?」
「脳だけだね。考え方の違いだと思うけど、脳は特別だからね」
「…私も老後はここで過ごさせて頂こうかな」
「冗談じゃないよ!」
「どうして?多分最高なんじゃないかな。Realにも繋げるのなら、それで冒険は出来るし」
「うーん。本人達が望んで?」
「どうかな。地獄に落ちた魂の救済かもしれないし。元々人間の味方をするために反逆して追放されたのがこの場所らしいから。導いてあげるなんて慈悲深いね」
「…」
生命の円環から外れて、一つの完成された命として、自信の望む永久を追求する。これもまた、一つの魂の在り方かもしれない。考えてみれば、僕達普通の一般社会は、もっと複雑で単純じゃない分、幸福から遠ざかってる。原始の生活と現代社会の生活を比べてみると、きっと現代社会の方が楽しいだろうけど、実際のところはどうなんだろう。不運や不幸が重なると、現代社会だって十分辛い。動かなくなった分、病気だって多くなってる。生活習慣病の大部分は食生活の乱れと睡眠やストレスなんてものらしいし。そんなバカバカしいアホみたいなくだらない理由で、今の人間は死んでく実態なのだ。人間らしいって、もっと動いて。もっと愛する。自分だけじゃなくて、世のため人のために尽くすべきだと思う。
「…」
きっと人生は辛い。絶望だらけだ。汚れて腐って死んでゆく。僕はたまたま良い出会いに巡り合えたから死を超越した。他のヒトはそうじゃない。僕の考えはあくまでも、僕の意見で、感想だけだ。他の、ここにいるあらゆる脳髄の決定したそれぞれの正解に、水を差すなんておこがましいことだ。
「それでも。見てると、不安な気持ちになってくるんだ。良いものじゃない。実り豊かな大自然の絶景に身を置いたら、最高の気分になれると思うけど、ここはそうじゃない。あなたはどうしてここに居るんですか?土壌学者とか言ってませんでしたっけ」
「ああ。この脳髄達の下に沈殿している土壌を研究してるんだよ。再生と死を繰り返した脳髄からこぼれ出た、叡智の残滓の土。そこから何が発生するのか興味深くってね」
「そ、そうですか」
想像しただけでも気持ち悪くなってきちゃう。そーゆーの好きな人とそうじゃない人分かれるよね。文系と理系みたいな。僕みたいな典型的な頭悪い文系には、そういう高尚なモノの見方には知恵が足りないかな。
「確かに興味深いですねぇ」
ビッキーが食いついてきた。
「つまんない事言う前にさっさと地獄王の元に向かうよ」
「私のフィールドマジックでここら一帯の脳髄を繋ぎ止めて一つの生命体にしたら、どういう生物が出来るんでしょうかぁ。私達だって多細胞生物なわけですし」
「最悪の悪人が出来上がるんじゃないかな?より強い刺激を求めて、暴れまわる怪物だよ」
「意外と優しい生物だったり」
「フランケンシュタインみたいな話は置いておいて、もう向かうよ!」
ドラゴン変化。大分この状態変化も板についてきたな。
「地獄の王様まではどれくらいの距離ですか?」
「行ったことないからわかんないなぁ。でも、飛んで区画のテリトリーに入ると、それなりの交番みたいなところってあるんじゃないかな」
「交番。なるほど」
ビッキーを背に乗せて、舞い上がる。どこまでも広がる楽園を眼前に、僕は少しだけ恐怖を感じた。人間の底すらない欲望に、戦慄を覚えざるを得ない。
「この私が見た事の無い領域を二つ飛びで超越してる…」