月の怪物
ビッキーが神様になってしまった。
「ちょ…」
もう間に合いそうにない。世界が一変し、かつての世界は崩壊し、これからの新しい時間は進み始める。かつての神であった赤ん坊が、産声をあげた。
「ヴィクトリア家の目的は神になる事だった…。まぁ人間大体皆そう。でも別にマッキーにとってそう特別な事じゃない。だって、マッキーはもう最初からずっとそうだったでしょ?だから別にこれといって大したことじゃない」
玉座に座りながら、赤ん坊をあやしつつもそう言う。
「私は地獄王を元々信用してないし、これがベストの選択肢なんですよ」
「だからって…」
人間じゃなくなることの恐怖は、僕は身に染みてる。未知の闇が迫る恐怖は、狂気よりもまず先走ってくるのだ。これはもう、気が触れてるような人間じゃないと無視できない。
「人間として生きていけないのに」
「それはマッキーも同じでしょ。別に、今後はこれまで通りの世界でいい。特に人間の設定を変えようとは…。今のところは思ってないですしぃ」
「どういうこと?」
「座った途端に、自分には何が出来るのかが直観で分かったんですよ。何をすべきかは教えてくれなかったけど、この玉座は全知全能の一端を教えてくれた。例えば、人間の寿命や身長、筋力や脳の企画規模を自在に変更出来たり」
「怖…」
凄まじい邪悪が脳裏に浮かんだ。そんな薄氷を歩くようなシステム構成だったのか。悪人が神の主人核になったら、世界が滅ぶぞ。
「そんな顔しないでって。別に、人間滅ぼそうとか今のところ思ってないし」
「なんだよ今のところって!」
「それはマッキーも同じでしょ。言ってしまっても、私は今でもマッキーより格下。私がこの椅子に座った事を咎める権利も義務も無いんですから」
「忠告ぐらいは出来たはずだよ。だってもう、これからの人生…」
全知全能の存在が、普通に学校に通って、普通に就職して、普通に結婚して、普通に家庭を作って、普通に死ねるか?僕ならそれは問題無いし、大丈夫だって言える。でも、普通はどうだ?ビッキーは普通じゃないサイコ野郎の自己中でヤバイ奴だけど。
「そんなのあんまりだよ…」
「別にこれから何か変わるわけじゃない。何一つ変わらない日々がひたすらに地味に続くだけ。他人から言えば、人類を強制的に進化させることも出来るだろうし、犯罪者を死滅させることが出来るだろうけど、私は別に、ここに座っていなくても、元々人類の女王だと思ってたわけだし、特別なことなんて、何一つ起こってない」
「え?その力を悪用したりしない?」
「するわけないでしょ。こういうのはね。使わないに越したことが無いのよ。例え人間という種に利益があろうともね。私は、ヴィクトリア家は、大空の支配者として、沈黙を守ったままだった。ずっとそうだった。今後もそう。だからきっと、マッキーにとって心配するような事は何一つ…あっ」
「なんだよ!?」
今あって言ったよね!?
「私でもコントロール出来ないのがあるみたい。現在月を侵攻している天使の軍勢は、既に私の支配権を逃れてるみたい」
「地球の終末は?」
「それはもう止めた。ただ、月の先代の人類を滅ぼそうとする月の軍勢だけが、何かの支配力を受けてるみたい。私はここからそれを止める事は出来ないみたい」
ビッキーが向こうの空を見ながら言う。
「マッキー。後始末はお願いね」
「え。どういう意味な…」
重力で支えられた地面が無くなった。まるでポッカリ開いた穴に落ちたみたいに、そのまま重力の力で真っすぐに落下。
「なんでそうなんだよぉおおお!」
凄まじい煙と硝煙の大空に落とされた。ツキコモリさんの実家で見た、月面内部の空洞世界の光景。
「月か…!?」
凄まじい速度で加速度的に落下していく。顔面の皮が引っ張られる。僕のアイドルで今写メを取られたら間違いなく人気は急落下だろう。僕がアイドルじゃなくて良かったな。そう思えるぐらいの気持ちの切り替えはもう出来た。
「ヴァミリオンドラゴン…!」
ドラゴン変化第一形態。両翼に翼を生やし、一度の羽ばたきで落下速度を抑える。
「酸素も無いし、マナも薄い、人工の太陽の光源は煙がかってまばら…」
人類が到達するには結構準備が必要な過酷な環境下だ。
「…」
地上からどれぐらいの高さか分からないが、地上に降りる必要があるか?後始末って、具体的に何をすればいいんだ。
「…」
激しい汽笛のような音が聞こえた。目の前に、巨大な潜水艦のような飛行船が現れた。
「…ぅ」
異常な表面を帯びた飛行船だ。赤黄青といった、様々な色の毒々しい植物で生い茂っている。
「マジかよ…」
そして目の前に、美しかった天使が僕に襲い掛かった。天界に居た天使のような逞しい肉体が、グロテスクなカビに侵食されてしまっている。お茶の間のテレビで不意に出てきたらえづいてしまうような、気持ち悪さ。人間という本来根付いている美的センスから著しくかけ離れた怪物。
「…」
天使のオーラはまるで感じない。美しさはどこかに置いてしまって、まるで肉体だけを操る植物の化け物のような感じがした。
「殺す…のか」
グーを握りしめる。生まれてこの方、人間を当然ながら殺めた事はない。怪物なら始末するのも当然だろうが、今のこの化け物は、天使なのか。それとも植物なのか。ただ一つ言える事は、こいつ等が人間の、僕達よりも前の時代の人類を滅ぼそうとする事は確かだ。だからと言って…。
「…」
心に、誰かが、やってくれって声が響いたような気がした。幻聴かもしれない。気のせいかもしれない。でも僕は、その直感に心が従う。
「…」
振り下ろした拳は、化け物の塵一つ残さずばらばらに霧消していった。それと同時に、温かい何かが僕の身体を通り過ぎて行った。
「…」
例えそれが化け物だったとしても、その魂は、ただの兵士だったのではないか。天使って、ひょっとして僕達人間と似ていて、子供がいて、結婚して、家庭があって、死んでいったりするんだろうか。僕に殺された魂は、ちゃんとあるべき場所に還れるのだろうか。救われるのだろうか。
「…」
生まれて初めて、この世の中には牧場があって飼育されて、人間に食べられるための動物が存在して、それがスーパーで売られてるって事を知った時を、思い出した。悲しく、涙が出ても、それが人間である事を続けるための一歩であって、子供が子供なりに人間社会の仕組みを知るための第一歩で、生まれてきたまっさらだった魂が少しずつ汚れていくような、既存社会の人間になっていくための罪悪感を背負った瞬間に似ている。ずっとそういうのが続てく人生だった。
「…きっついなぁ」
久しぶりに感じた感覚が、とてもヘビーに感じる。涙で滲む先に、化け物の大群が現れた。せめて僕が、浄化の光によって、魂の救済になるのだと信じて。拳を振るうしかない。そしてこの仕事は、他の誰にも任せられない。
「…行くよ」