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毎週木曜日の昼休憩

新しいスマホを買った時、一緒にガラスフィルムなどを買う人も多いのではないだろうか。

私も例に漏れず、ガラスフィルムを購入する。

そして、その家電量販店ではフィルムコーナーにこんな風に書かれていた。

『フィルム、プロが綺麗に貼り付けます!!800円〜』

私は、その後フィルムを買い、800円と少しを支払って、フィルムを貼ってもらった。


という話を先日友人にすると、「信じられない!」と言われた。

「自分で貼ればいいじゃん。」

そう言われれば身も蓋もないのだが、私は不器用だ。

ガラスフィルムを貼って、新しいスマホなのに、綺麗に貼れなかったら、とかスマホケースと干渉してしまったら、とか考えると、プロに綺麗に貼ってもらった方が満足度が高いと、私は思っている。


そう、如何せん「不器用」なのだ。

私は、何に対しても。

生きることに対して、も。


時々、思うことがある。

「なぜ、自分はこうなのだろうか」

「どうして、もっと『上手く』生きられないのだろうか」



だから、少し、私の人生を振り返ってみようと思った。

上手く生きられないのにはそれ相応の理由がありそうだ。


両親に言わせれば、私は小さい頃から「変わった子」だったそうだ。

その頃から両親は私の将来を憂いていたらしい。

そして、その憂いは的中する。


幼少期、私は外で遊ぶよりも保育所内で絵本を読んだり、何もせずにいる方が好きな子どもだった。

それは、小学校に入学しても変わらず、昼休憩や放課後、みんなが競うように外に飛び出していくのを、ただただ、見ていた。

小学生の時、私は少しだけ勉強が得意だった。

小学校時のあのカラフルなテストでは基本、満点以外とった記憶がない。でもそんな人は世の中にたくさんいると思う。だけど、当時、小学校と家庭しか世界を知らなかった私。小学校のクラスには自分よりいい点数を毎回取る子はいなかった。

満点を取ると、両親は褒めてくれた。

その頃から、自分は自分が中にいる小さな世界で「勉強ができる」ことが自分の価値なのだと、感じ始めていた。

一方で、運動は全くできなかった。走るのはクラスの男子の中で一番遅かった。

都心部で進学塾に通う子も多いような小学校なら別かもしれないが、私の通っていたのは田舎の小さな小学校で、塾に通うような子は一人もいなかった。

その世界で、「運動ができない」というのは致命的な欠陥だった。

小学校の時一番女子から好かれたのは、クラスで一番足の速い男子だった。


私のクラスでは、毎週木曜日の昼休憩にクラス全員で何かしらの遊びをする「遊び係」という謎の係が設営されたことがある。小学生だから、そんな凝ったゲームなんかなく、サッカー、ドッヂボール、ケイドロ(どろけい?)のローテーションだった。ただ、厄介なのはそれを「クラス全員」で行わなくてはならないことだった。「参加しない」という権利を剥奪され、運動ができないという致命的な欠点、傷口に毎週、毎週、塩を塗り込まれるような苦痛な45分を味わっていた。


小学校3、4年の時の担任の先生のモットーは第一に「正直」だった。正直に生きることがこの世で一番大切で、なにより美しいことで、嘘をついたり、ズルをすることは何よりも醜いことだ、と3年生の始業式の日にそんなことを言っていたのを今でも覚えている。

当時の私は「この人は何を言ってるんだろう」と子供心に思っていた。

その先生、A先生としよう。

彼は漢字の書き取りで漢字を覚えるために、漢字を広告の裏に何度も書いて、右手でそれをすると、紙についている手が真っ黒になって、でもそれくらいやり込めば漢字を覚えられる、という勉強法を推していた。ただ、漢字の書き取りの宿題自体は毎日漢字ノートに300字(か600字?)を課されていて、その「広告勉強」は自主勉強としてオススメだよ、という話であった。当時の私は、「そんな何回も書かなくても覚えられる」と思っていたし、実際覚えていたので、その「広告勉強」をしていたなかった。そして、そのことである日突然叱られた。「みんな『広告勉強』をしてるのに、なぜ君はしないんだ?」と問い詰められた。私は平然と「え、だってあれ自主勉強ですよね?」と言った。そうするとA先生は「自主勉強でも俺が勧めたらやるんだよ!」と意味不明なことを言い始め、任意だったはずの広告勉強を、強制的にさせられた。彼の中では自主勉強は強制だったらしい。その意図を汲めなかった私は彼の餌食になってしまった。

その時、明確に私はA先生に対して「面倒くさい人だな」と思った。

A先生は今のどこかの小学校でこの広告勉強を強制しているのだろうか。少し、気になる。


4年生になっても、クラスの「遊び係」という謎の係は存在しており、やはり参加を拒否する権利はなかった。そもそも「外で遊びたくない」と思う児童なんてこの世に存在しない、という空気感があった。

でも、私はどうしても外で遊びたくない。サッカーなんて、運動のできない者からすれば地獄のような種目だ。自分にパスが万が一回ってこようものならこの世の終わりだった。

当時の私は、考えた。

ズルや嘘や、わがままではなく、自然と木曜日の昼休憩を回避できる方法はないか、と。

そして、考えついた策が「木曜日の図書係」であった。

私の小学校では3年生から委員会に入ることになっていた。美化委員会、児童委員会とかいくつかある中に図書委員もあった。図書委員の主な仕事は毎週決まった曜日の給食の時間に本の読み聞かせをすることや図書室の本の管理、修復、そして貸し出しカードの受付があった。図書室の本を借りれるのは昼休憩だけと決まっていた。だから毎日図書委員が交代で昼休憩に本の貸し出しの受付をしていたのだ。

私はその受付係に木曜日の昼休憩に入った。

するとどうだろう。

「木曜の昼休憩は委員会の仕事があるので、外で遊べないんです。」

というそれっぽい、ズルでもわがままでもなく、週1度の地獄を回避できる理由が出来上がった。

私はこの手口で、「遊び係」から逃げ出した。

クラスみんなで週に1度は遊ぶ、という謎に強制された地獄を回避した。

ただ、それと同時に私がクラスで「浮いた」存在になるのは言うまでもなかった。

「みんなと遊ばない」代償であった。

ただ、当時、それを感じつつも、私は特に気にはしていなかった。

自分が浮いていると言う感覚にあまり興味はなかった。どうでもよかったのだ。

浮いていても別に嫌われているわけではないから、と。


この頃から、「上手く生きられない」片鱗が見えていたんだな、と振り返って思う。小学校や幼稚園、保育園の休み時間にみんなと遊ぶ中でしか得られないコミュニケーション能力的なものや、幼いながらの駆け引き、人の気持ちを想像するためのきっかけ、そういうものがあったんだろう。それは本を読んだりするだけでは得られない、ナマでないと得られないもの。

それを私は「運動ができない」という自分の弱点が露わになることが嫌で逃げていた。体育の時間にいやでもみんなに知られるのに、どうしてその時間以外でその気持ちを味合わなくていけないのか、そう思って、逃げていた。もしこの時、逃げなかったらどうなっていたかなんて、もう分からないが。





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