第4章-5
恵太は遥に渡された、光を発しないままのスマホを見つめていた。以前は、唯がこの場所で使っていた事だろう。それが今、自分の手の中に残されるとは。胸の奥の、締め付けるような感覚を受け入れながら、恵太はスマホを起動させた。
黒い画面に浮かび上がるように光る、ただ一つのアイコン。ビデオの再生ボタンに見える。恵太は眉をひそめた。通常あるべき、電話やカレンダーといった表示が何も見当たらない。戸惑いながら画面の背景に触れてみると、隠されるようにしていた電話帳などのアイコンが飛び出してくる。暗がりのホーム画面にただ一つ残していた、再生ボタンに唯の確かな意思を感じた。吸い込まれるようにそれに触れると、画面が切り替わって唯の顔が現れた。画面の中の小さな唯が、何やら話し出している。恵太は微かな風の音も煩わしく、音量を上げるボタンを押し続けた。
「こんにちは、恵太。それともこんばんは? 絶対、おはようじゃないでしょ」
唯だ。あの日、前触れなく恵太の世界から消えてしまった唯が、自分の名前を呼んでいる。あれから一か月も経っていないのに、懐かしさで胸がいっぱいになる。
「どう? 本当に幽霊に繋がったでしょ、あの電話番号。まあ、こうして喋っている私は今はまだ生きてるんだけどね。こんなまどろっこしいやり方しちゃったから、恵太の元に届くまで面倒だったかもね」
悪びれず、唯は自分のことを幽霊と言って笑う。本当に、なぜこんな遠回しな方法をとったんだと、恵太は文句を言ってやりたくなる。お陰で妙な幽霊が間に入って、恐らく唯が想定していた何十倍も面倒なことになった。幸い、現れた幽霊との出会いは悪いものでもなかったが。
「恵太、私が急に死んじゃってびっくりしたよね。実は私、病気でどっちにしろそのうち死んじゃうの。その変はさ、ウチの親に聞いてみて。お母さんはもう死んじゃってるから、お父さんにね。」
「もう知ってるっての」
恵太の乾いた呟きは、時折唸る風の音に紛れて消えていった。唯は考えながら話しているのか、目を伏せてなかなか次の言葉を始めようとしない。
「無茶苦茶だな、ほんと」
恵太は無意識に沈黙を埋めていた。ようやく唯が話し始めて、また耳を澄ませる。
「何から話そうかな。ねえ、なんで恵太のことを、生け贄って呼んだんだと思う?」
「ああ、少しは分かった気がする」
「私、十三歳の時にお母さんが死んだの。私が見つけたんだよ。ヒドイでしょ? 残された方は辛いんだよ。ずーっと、どんなに頑張ったって忘れることなんてできないんだから」
唯が、微かに声を詰まらせる。恵太が見たことのない、抱えようのない重圧と戦う唯の姿がそこにあった。
「だから、決めたの。私は死ぬまで誰とも関わらないって。仲良くなると、後で辛い思いをさせるだけだって。私のことなんかで傷つくの、誰だって嫌でしょ?」
彰高から聞いた話と同じだ。二度目の話であっても、唯に対して苛立っていた事実が恵太に後悔を迫る。恵太は渇いた喉へ、無理やり唾を押し込んだ。
「でも、学校に行くと辛くなっちゃってさ。誰とも話さないのも嫌だなって。だから、仲良くなってもいい人を一人だけ探すことにしたの。ごめんね恵太。本当は、今もそれで良か
ったのか分からないの」
「それで生け贄か」
「そういうこと」
返ってくるはずのない返事に、恵太は目を見開く。
「もう分かったでしょ? 一人だけ犠牲になってもらうから、生け贄ってこと。でも結局、竜海や莉花ちゃんとも関わっちゃったんだけど」
恵太の驚きに気づくはずもなく、唯は話続ける。こちらの言葉は届かないという当たり前を思い知らされ、恵太は苦笑いを浮かべた。
「ね、恵太。私のこと、忘れない?」
当たり前だろ、と心の中で呟く。
「三分あげるから、私のこと思い出して。私と一緒にいて、楽しかったこととか、嫌だったことでもいい」
「なんだよそれ。いいだろ、そんなことしなくたって」
「いいから、三分計ってるからね。よーいスタート」
どうやら真剣らしく、唯は画面に映っていない横の方を見つめている。時計でもあるのだろうか。
訳も分からないまま、恵太は唯の誘いに乗った。きっと、唯とこんな風にやりとりができる日はもう来ないのだから。
唯のことを思い出す。まずは初めて会った時だろうか。あの時からすでに、変わった奴だった。初対面の相手を生け贄呼ばわりするとは。確かに、唯が言った通りお人好しじゃないとできない役回りを承ったというわけだ。
最後に会った日も印象に残っている。嫌いだと言う癖に観覧車に乗りたがった。後から思えば、いっそのこと観覧車を止めて望みを叶えてしまえば良かったのに。そんなことを考えたがすぐに思いとどまり、恵太はかぶりを振った。本当に実行したら事件になってしまう。二人で警察に捕まるところを想像すると、それはそれで笑えてきた。
唯が死ぬ日まで、他にもたくさんのことを話して、行動を共にした。最後の日の直前の記憶を、恵太は一つでも多く思い出そうと辿る。
不意に、記憶に靄がかかった。恵太は予想外の異変に戸惑う。靄の向こうから手招きされているような、引き付けられる感覚。そこに思い出さないといけない何かがある気がするのに、思い出せない。なんとかその在り処に漕ぎつけようと目を強く閉じる。
『地球上にはたくさんの生物がいますが、笑うことができるのは人間だけです。さて、それはなぜでしょうか』
唯の声だ。以前、教室でそんな他愛のないクイズをした記憶がある。なぜ今になってこの記憶が蘇るのか、理解ができない。それでもその先に、何かの答えが潜んでいる気がして懸命に続きを思い出す。確か恵太が出した答えは外れで、唯の答えを聞く流れになったはずだ。
『私が思うに、人間って伝えたいから笑うんじゃないかな』
『私はこんなに嬉しい、楽しいって伝えたくて笑うんだよ、きっと』
恵太は笑った。そうか、そうかもしれない。唯が言った答えは、本当なのかもしれない。唯に楽しいと伝えたくて、今こうして笑っている。
「やっぱすげえな、唯は」
それなら、悲しいという思いはどうやって伝えたらいいのだろうか。考えるより先に、自分に教えられた。目から、ボタボタと塊になった涙が落ちていくのを感じる。やっと気づいた。だからあの日から、泣けなくなってしまったのだ。悲しいと一番伝えたい相手が、もうこの世にいないと知ってしまったから。
「なんで」
それ以上は、言葉にならなかった。声を出そうとしても、嗚咽にしかならない。本当はもっと、ぶつけたい疑問だらけだ。なんで唯が病気にならないといけなかったのか。なんで死ぬ前に言ってくれなかったのか。なんでもっと、優しくしてやれなかったのか。
言葉に出せず、恵太はただ泣いた。もう唯がそこにいないと分かっていても、伝えたくて泣いた。伝わると信じて涙を落とし続けた。
「どう? 思い出してくれた?」
唯の声がして、恵太は無理やり涙を拭った。拭っても拭っても足りず、ほとんど画面は見えないのに。それでも分かった。唯の目からも、静かに涙が下り頬を伝っていく。
「なんで、泣いてんだろ。泣かないって決めてたのにな」
唯は戸惑ったように、か細い指で涙の跡を辿った。
「ほんとだよ。明るく話すって決めてたんだけど」
無理に口角を上げ、くしゃっと笑う唯の目からまた涙が零れる。痛いほど、その悲しみが伝わった。恵太は全ての言葉を聞き逃さないよう、嗚咽を飲み込んだ。
「恵太、最後に私のお願いを聞いてくれる?」
恵太は押し潰されそうな思いで唯を見た。最後、という言葉に胸の中が狭くなる。
「私、ずっと考えてたんだ。なんのために生まれてきたんだろう。私が生きてきた意味なんて、何もなかったんだなって。誰にも気にされずに死んで、この世界から消えていく。お母さんが死んだのも、病気のことも、それが私に与えられた運命なんだって。でも」
画面の中の唯が、微かに声を震わせる。
「今さらになってやっと分かった。運命が変えられないとしても、私はちゃんと生きてるんだって。生きた意味が無かったかどうかなんて、まだ分からない」
恵太は、その答えの方が唯らしいと思った。恵太が見てきた唯は、いつだって自分の強い意志を貫いていた。
「だから、最後に運命に逆らってみようって思ったの。もしこのメッセージが恵太の元に届いたらね、賭けは私の勝ち。きっと、私が生きた意味はあったってこと。その時は」
唯が俯く。恵太まで、恐らく唯がそうであるように身を強張らせる。恵太は目元から零れる涙を一つ拭った。
「お願い恵太、私のことを覚えていて。それが、私の生きた意味になる」
唯の声だけが、恵太の耳を通り続ける。
「いつか、誰の記憶からも消えてしまうのが怖い」
頭の中が痺れつくような感覚とともに、恵太は画面を見続けた。呆けたように放り出したままの手の中で、気づけば動画は終わっていた。明るく繕った「今までありがとう。バイバイ」という唯の最後の声が、頭の中で繰り返されては消える。
恵太は立ち上がり、動き出すことを拒む体を奮い立たせる。本当は留まっていたかった。唯が見ていた屋上からの景色が、今なら違う世界に見える気がする。それでも恵太は、その場を離れることを選んだ。唯の、最後の願いを叶えるためにできること。同時に、唯の考えを否定すること。
一歩目を踏み出してからは、夢中だった。呼び出したエレベーターが上がってくるまでの時間さえ、もどかしくて扉にすがりつく。一階に向かうまでの間、恵太は逸る気持ちを抑え考え、得た結論にかぶりを振った。やはり、この機会を逃せば幽霊と再び会うのは難しそうだ。
マンションを飛び出て、恵太は辺りを見回した。予想通り、幽霊の姿はない。学校側か、反対側か。考えるのももどかしく、目についた校舎の方へ駆け出した。
恵太には、どうしても覆したいことがあった。唯が、自分を記憶に残したい人なんていないと言ったこと。関われば後悔するだけだと思い込んでいたこと。
「そんなわけないだろ」
思わず口をついて出る。弾んでくる息を気にせず、あてもなく走った。
唯がどんなに人との関わりを避けても、唯の死を悔やんで、忘れたくないと願う人がいる。竜海も、莉花も、もっと唯と一緒にいたかったはずだ。そして幽霊。彼女もきっと、唯に惹かれた一人だった。
見つけなければ。彼女に会って、どうするのかは恵太自身もまだ分かっていない。それでも、これで終わらせてはいけないという確信があった。額から汗が伝い、目に入る。涙と汗で、どれだけ体の水分を失ったのだろう。唯がいれば、どれぐらいで脱水症になるのか事細かに説明してくれそうな気がする。場違いなことを思い、恵太は笑った。シャッターが下りた店が並ぶ視界の端に、本屋があるのを見つけた。よぎる、鞄の中を本で埋め尽くしていた唯の姿。無事幽霊を見つけたら、本でも買って帰ろうか。恵太はそんなことを考えながら、幽霊を探して辺りを見回した。