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携帯の中の幽霊  作者: なち島 景将
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第3章-11

お酒を振る舞ってもらえるかどうか、それが問題だ。ハムレットの一節になぞらえて、唯は直面している課題を整理した。整理といっても、その一節が全てだった。どうすれば、桜町通りでお酒が飲めるか。いくつか代案を立てたものの、やはり最初の計画を進めることにした。もう四回目になる、ディミアンへのトライだ。他の案と言えばどれも、結局桜町通りの中で別の店を探すことになる。この通りにも慣れてきたとはいえ、今更知らない場所を歩くのは避けたかった。それに、あのママさんほど寛容に受け入れてもらえるお店などそうそう無いことも予想できた。

 桜町通りに入り、容易くディミアンの前に立つ。ブルーのネオンで書かれた店名が、今日も薄明かりを作っていた。四月になってもまだ春らしさはなく、夜はコートが恋しいような肌寒さ。唯は躊躇なく、暖でもとりに来たかのようにドアに駆け寄った。初めて来た時は店の前で何度も右往左往したっけ、と軽く懐かしさを覚える。ママさんに見つけてもらいやすいようわざとゆっくり階段を下りると、カウンターから旅館の出迎えのような笑顔が向けられた。

「あらいらっしゃい。そこにどうぞ」

 ママさんが手招きしたのは、いつも唯が座る馴染みになっていた席だった。L字のカウンターは、六席ほどある長辺の部分に大半のお客さんを迎え入れる。入ってすぐの短辺側には、二席しか用意されていない。これまで見る限り、ディミアンに来るお客さんのほとんどは六席のカウンターに陣取るようだった。奥のテーブル席は、一度四人組が座っているのを見たきりだ。

 唯は手招きの方へ吸い込まれるように進み出て、すぐに二の足を踏んだ。招かれた席には恰幅のいい作業着姿の中年二人がいて、一斉に目が合ったからだ。ママさんは埃をハタキで払うような勢いで、有無を言わさず二人に移動するよう促した。唯が申し訳ない気持ちで会釈すると、スーツの二人組は豪快に笑い声をあげる。ご機嫌そうにグラスを持って、長辺側のカウンター席へと移っていった。重そうに上げられた腰で、三席先で降り立つなりグラスの酒を飲み直している。

「まったく、デカいのが二人も狭いところにいたんじゃ暑苦しいでしょうに」

「そりゃないよママ、俺の努力を認めてよ。自粛をちゃんと実行したんだから」

「自粛、ですか?」

 好奇心に負けて、唯は茶色い作業服姿の男の方へ首を伸ばした。場に合わないと疎まれたとしても、気になったことをやり過ごす方が嫌だった。

「そうだよお嬢ちゃん。この前ここでオッサンと揉めてママに迷惑かけたからさ。隅っこで大人しくしてたんだよ」

「くだらないこと気にしなくていいの。酔った時の喧嘩なんてどっちもどっちなんだから。ねえ?」

 ママさんに促されるがままに、唯は曖昧に笑って頷いた。

「ご注文は? お嬢ちゃん」

 ママさんは冗談めかして、初めての呼び名で呼んできた。

「オレンジジュースを」

「あら、お酒はやめたの?」

 分かりやすくママさんの口がすぼまる。意外そうに口元だけで「そうなのね」と口ずさんでいるのが分かった。

「さすがママさん、こんないたいけなコまで酒飲みに育てたの」

 カウンター自粛中オジサンの手前の、もう一人の作業着の男が称賛するようにビールジョッキを掲げた。

「なにを馬鹿なことを。未成年に酒を出すほどボケちゃいないよ」

「へ? でも今そんな話だったでしょ」

 手前側の男が、気の抜けた声を上げる。説明するべきか迷っていると、ママさんが「飲みすぎでおかしくなってるんじゃないの」と言いオレンジジュースを渡してくれた。自粛中オジサンが「そうだそうだ」と手を叩く。本当は飲みすぎは自粛中オジサンの方だろうな、と思いながらも唯はただ笑っておくことにした。

 中年二人がママさんと盛り上がり始めたところで、唯はオレンジジュースを見つめゆっくりと口にした。グラスから離した口が緩んで、にやけ顔になるのを抑えられない。自分のしていることの可笑しさと、わずかでも目的に近づけているのかもしれないという達成感。自分が追い求める、母の見ていた世界とはこんな視界、匂い、味、会話だっただろうか。きっと違うな、と自嘲気味な吐息と笑みが出る。何度思い返しても変わらない、母の最期が唯の頭をよぎった。

 母ほど身勝手な死に方を、唯は他に知らない。中学二年の時の冬休み、クリスマスも年の瀬もあまり関係のない家で、母が作ってくれたシチューを一人で食べたことを覚えている。必要以上に広い自分の部屋のベッドで寝ていると、玄関の開く音に起こされた。まだ寝入りに近い感覚に、午前一時か二時あたりだろうかと考えていた。何度か枕の上で居所を探し、ただ一つ聞こえる物音に聞き耳を立てる。以前、酔って帰った母が玄関先で打ち上げられた魚のようにのびていることがあった。唯は目を開けるかどうかの基準をそこに設定した。玄関を過ぎる足音がすれば、リビングにはソファーがある。そこで寝てもらえれば、風邪を引くこともないだろうと。

あの時起きていれば結果は違ったかもしれない、という後悔は無意味だと分かるまでに一年以上かかった。 

次の日の朝、唯は母だったものと対面することになる。唯の想像通りソファーの上で毛布にくるまっていた姿は、酔って寝ているようにしか見えなかった。真っ先に父の出張先に電話をしたのは、もう手遅れだと気付いていたからだろう。父に言われてようやく救急車を呼んだらしいが、そのあたりはよく覚えていない。

唯は小さく咳をして、自分の居場所を確かめた。きちんと、ディミアンのカウンターに座った自分は存在している。母を思い出すと決まって起こる感覚。自分があることを確かめていないと、この世から消えてなくなってしまったのではないかという錯覚に陥る。

気付けば店内は、唯からみて反対のカウンターの端に男が一人いるだけになっていた。唯はママさんが出してくれるお任せ料理を食べ終え、頃合いを計る。ちょうどママさんが唯の方を気にしてくれたので、思い切って声をかけた。

「ママさん、お酒やっぱりダメかな?」

「ほら、やっぱり諦めたわけじゃなかったのねえ。ダメっていつも言ってるでしょ」

 ママさんは立ったまま煙草をくゆらせ、細長い煙を吐いた。その目の優しさが、唯の後ろめたさを倍増させる。

「でも、どうしてもお母さんの気持ちが知りたくて」

 前回訪れた時、唯は苦肉の策として正直に自分がお酒にこだわる理由をママさんに話した。死んだ母が見た世界を、自分も体験したい。いつか父にも同じことを話した。初めはとりあってくれなかったが、あまりにしつこかったからだろう。とうとう願いを聞き入れてくれ、ついには母の仕事場だった会社がある街に引っ越しまでしてくれた。

「もうあと三年か四年でしょ? それまで待った方がお母さんも喜ぶわ」

 もっともな話だった。その常識的な意見を覆すために、最後の手段に出ることにする。

「私、もうすぐ死ぬんです」

「どういうこと?」

 疑い半分、気掛かり半分といった様子で、ママさんが眉を上げる。後戻りするわけにもいかず、言葉を続けた。

「病気で余命半年って言われてて。だから二十歳になるまで待てないんです」

 我ながら卑怯な嘘だ、と唯は思った。ママさんは一歩も動かなかったが、じっと見つめられると逃げ出してしまいたくなる圧力がある。それが彼女の経験に基づく洞察力ゆえなのか、勝手に自分が後ろめたさを感じているからなのか、唯には分からなかった。

「そう」

 短く言い、煙草を灰皿に押し付ける。

「しょうがないコね。何が飲みたいの」

「いいの?」

 唯は自分の声が上ずるのが分かった。

「もうババアは疲れたわ。ただし、今日だけね」

「ありがとう。ごめんなさい、無理を言って」

 桜町通りのバーでお酒を飲む。それが母の楽しみだったと、教えてくれたのは父だった。母の真似事に必死な自分に、そんなことを教えればどういう行動に出るかは父も承知の上だっただろう。それでも教えたのはきっと、娘が壊れるのを防ぐためだ。

唯は目を閉じ、もう一度開いたのを合図に物思いをやめた。ママさんが許してくれたこの機会を楽しもうと決める。父から聞いた、母が好きだというお酒の名前の記憶を手繰り寄せる。いくつか浮かぶ横文字からどれがいいか、ママさんに注文を相談してみることにした。

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