奈落
お久しぶりです。
メインで書いているものの傍ら、こちらも少しずつ更新を再開していきます。
文学フリマも抽選が当たれば2025年11月の東京文学フリマに出展できると思いますので、良ければお立ち寄りください。
本作の1冊目をそこで販売する予定です。過去作も2冊持っていくと思います。
それは突然やって来た。
前触れなんてものは無かった。
もしかしたら私が見落としているだけかもしれないと思って、思い返せる限りで直近の記憶を掘り返し、私の記憶が確かなものに限るけれど、隅から隅までを確認した。
けれど、なのに、どこにも何も見当たらなかった。
前触れはどこにも見当たらなかった。
泥臭く手探りで探ったけれど、どこにも伏線は散りばめられていなかった。
なのに…………なのに、だ。
ある日突然、私は死にたいと考えてしまった。
そう考える前触れはどこにもなかった。
伏線なんてどこにも散りばめられていなかった。
どこかに理由があるはずだと記憶を無我夢中になって漁ったけれど、死にたいと思うようなキッカケはどこにも全く見当たらない。
いつもと違う事は何もなかった。
朝に寝て、夕方に起きて、煙草を吸って、散歩をして、煙草を吸って、何もせずにゴロゴロとして、煙草を吸って、ご飯を食べて、煙草を吸って、お風呂に入って、寝て。
強いて言うなら、いつもよりも長めに寝たぐらいだけれど、長めに寝たからといって死にたいと考える筈がない。
解らない。本当に解らない。
自分自身の感情なのに、どうしてそんな感情を抱いてしまったのか、それが理解できなくて困惑する。
死にたいというその考えは、本当にふとしたものだった。
けれど、とても切実なもので、確かに心の底からの感情だった。
いつもよりも長めに寝て、長い長い夢を見て、走った後みたいな息切れをしながら夢から覚めて、そうして溜め息を吐きながら『あぁ。死にたい』と、切実に願ってしまった。
目が覚めて直ぐ、胸の真ん中には『うん。死のう』という感情がごく自然な流れで居座っていた。
寝覚めの一本の煙草と同じように、当然な顔をして私の日常に入り込んでいた。
あまりにも突然のことで、それがあまりにも自然なことで、私は自分の思考や感情を疑うことがなかった。
なにせ、それが自然で当然なものだと無意識に認識してしまっていたのだから。
だからだと思う。
死のうだなんて、突然考えてしまった自分の思考を悪くないと思えてしまう私が確かにいた。
まるで毎日の習慣の一部のように、ごくごく自然な流れで組み立ててしまったその思考を疑問にも思わず、悪くないと受け入れてしまう私自身の異常さに、私は気付けずにいた。
それどころか、むしろいつもよりどこか清々しいと感じていたぐらい。
私がその感情に違和感を覚えたのは、起きてから暫く経った後、吸い終わった煙草を灰皿に押し付けた時のことだった。
まるで日常のような顔をして私の日常に滑り込んできた希死念慮。
その異常なまでの滑らかな心地よさにあと少しで手を伸ばしていたという事実をようやく理解して、私は怖くて怖くてたまらなくなった。
私の両腕は綺麗なままなのに、そこに刃物を押し当てた形跡なんて少しもないのに、なのに死のうと考えてしまった自然の流れが怖くて怖くて、自分で自分が分からなくなった。
以前から、自分で自分の感情が分からないという事は何度もあった。
けれど、それとも違う感覚だ。
まるで、自分自身が他人のように感じられてしまって、大切で失う事の許されない歯車が狂ってしまったみたいな、そんな感覚だ。
違う。いや、違うのかどうかも分からない。
上手いこと言葉にできない。
自分の感情に何が起きているのか分からない。
自分の思考に何が起きているのか分からない。
自分の体に何が起きているのか分からない。
けれど、何かが起きているのは確かだ。
そうでなければ、突然死のうだなんて考えるハズが無い。
何かがおかしい、けれど、その正体が分からない。
突然死のうと考えてしまった事が怖くて、何かがおかしいけれど、その何かが何なのか分からない事実が怖くて、私は、突然襲い掛かって来た強迫観念から逃れようと煙草に火を点けた。
じりじりと煙草の先が燃えて、ゆっくりと息を吸い込んで煙を肺に送り込む。
葉を燃やした事で生じる酸味を帯びた苦みが下を撫で、口蓋垂を洗って肺へ入って行く。
そうして、肺を介して血液と一緒に前進へ生きた心地が巡っていく。
でも、その生きた心地は煙草から口を離して一呼吸するだけであっという間に消えてしまった。
ほんの一呼吸だけ煙草から口を離しただけで、薄れたハズの恐怖心がすべてを薙ぎ払って姿を現す。
死のうという思考を先陣に、私の感情を、私の思考をぐちゃぐちゃにかき回してくる。
姿を消したと思っていた『死のう』という思考がなぜか再び姿を現してきて、私はパニックになる。
心臓がドクリと一つ、深く脈打った。
そして、それが合図になったかのように、呼吸が自分の呼吸が浅くなっていくのが分かった。
このままだとマズい。
何がどうマズいのかは上手く言葉にできないけれど、このままだと良くないことになる。
気が狂いそうだった。
まるで地獄にいるみたいだった。
とにかく、突然現れて私の日常を歪めたこの思考を、感情をどうにかしたかった。
だから私は慌てて家を飛び出した。
何とか財布と携帯だけは手に持って、私はすっかりと暮らしなれた狭い地獄から慌てて逃げだした。
狂いに狂った私の生活リズムのせいで、私にとっての朝は空が茜色に染まる時間帯だ。
今日だって例外ではない。
朱に染まる街並みを、かき分けるほど人のいない住み心地の良い街並みを、私は私を抱き寄せようとにじり寄ってくる希死念慮から逃げるために必死になって走っていく。
迫りくる心地の良い滑らかな感覚から逃れるために、必死に、必死に。
スニーカーなんてものは片端から捨ててしまったから、今の私にはドクターマーチンのブーツとクロックスしかない。
普段はオブジェのように大切に飾ってあるブーツでまともに走れるハズもなく、今の私はクロックスで必死になって走っている。
スニーカーではなくクロックスであることが悪いのか、それとも普段運動はしないからなのか、少し走っただけで息切れがした。
ぜぇ。はぁ。ぜぇ。はぁ。
踏み出す歩の数よりも呼吸の数の方が圧倒的に多かった。
喉風邪をひいてしまった時のような、今にも死んでしまいそうな自分自身の濁った荒い呼吸がうるさい。
でも、それをうるさいと思えている間は確かに希死念慮を忘れる事が出来ていて、私はやっぱり必死になって走り続けた。
すれ違う人々が私を訝しむような眼で、嘲笑うような眼で無遠慮に見てきた。
普段ならそれは酷く心地の悪いものだったけれど、今の私はその心地の悪さにある種の救いを感じていた。
たぶん、時間に換算すると三〇分も経っていないと思う。
やがて私の体は両足を交互に持ち上げる事も出来ないと悲鳴を上げ始めて、走るどころか歩くことさえできなくなった。
呼吸は相変わらず荒いままで、体は重くて動かない。
立っている事すら苦しくて、歩道の真ん中に座り込んでしまう。
「危ねぇだろ邪魔だ!」
背後からチリンチリンとベルの音がして、次いで年配の男性の怒号が聞こえた。
その音と声に体が硬直して、荒い呼吸がどんどん短く浅くなっていく。
振り返ることもできなくて、頭の中がぐちゃぐちゃになって、『死のう』という滑らかで心地の良い感情がすべてを塗りつぶしていく。
急ブレーキをかけるような音がして、誰かに背中を蹴られた。
私の体は重くて、頭は何も考える事が出来なくなっていて、蹴られたままで私はその場に倒れ込んでしまう。
視界には、自転車に乗ったおじさんが私のことを親の仇のように睨みながら走り去っていく姿が映っていた。
私はこんなにも辛くて苦しいのに、どうしてあの人は私を蹴って、そのうえであんな目をしてみる事ができるのだろう。
そう考えたのは一瞬だけだった。
だって、次の瞬間には滑らかで暖かな、心地の良い感覚が私を満たしていたのだから。
死にたいという感情が優しく私を抱きしめる。
死のうという感情が優しく私の手を引いていく。
怖くて怖くてたまらないその感覚に身を委ねながら、浅くなる呼吸に吸い寄せられるように私は意識を失った。
まるで、春先の風に吹かれながら昼寝をするみたいな、そんな心地だった。
嗚呼、なんだか楽園にいるみたいな気分だと。
意識を失うその瞬間、私は確かに感じたのだった。
以前、軽度の躁鬱症状が出た事がありますが、僕がそのことを実感したのは良く寝た後の朝にふと自然な流れで死のうと考えていたその瞬間でした。
あの瞬間の確かな心地よさと、のちに自覚した時の恐怖は今でも忘れられません。