愚か者の涙
「残念だけど私にも、もう何年も貴方のお母様からの連絡はないわ。力になれなくてごめんなさい」
そう侯爵夫人が残念そうな声で謝ってくる。
最後の手がかりと期待していただけに、残念な答えだった。
肩を落とすがせっかくだからと侯爵夫人から母との思い出話を聞かせてもらい、礼を言い屋敷を後にする。
屋敷から離れ足を止め、空を見上げる。
憎いほどの晴天。真っ青な空に白い雲がよく映えている。眩しさに目を細め思う。
母さん。あなたはこの空の下、どこにいるのですか?
◇◇◇◇◇
母が家を出たのは姉が六歳、弟の私が五歳の時。今では二十歳となった姉マリは来月、結婚式を挙げる。ぜひとも母に参列してもらいたいと姉は願い、そこで私が母の居所を探しているのだが……。最後の頼みの綱も消えた。
母が結婚前、見聞を深めるため我が国を訪れた侯爵夫人と友人になり、結婚してからも手紙のやり取りをしていたと最近になって知り、外国に住まう侯爵夫人を訪ねたが……。
夫人も手紙のやり取りがなくなり、今ごろ母がどう暮らしているのか分からないと安否を気にかけていた。
国内に暮らす母の友人、親戚全員に頭を下げ情報収集に奔走したが無駄だった。今回の結果に姉も気を落とすだろう。
母が家を出たのは私たち姉弟にも責任がある。
両親は幼い頃より親……。つまり私にとって祖父たちにより婚約を結んでいた。
当人たちの仲は悪くなく、問題なく結婚生活を迎えられると考えられていたが、ある日母は気がついた。
父が自分の妹……。ベッカに恋情を抱いていると。
成長して知ったが、両親の結婚前のこのスキャンダルは社交界で有名な話だった。父はいつも叔母とダンスを踊り、その時に熱のこもった視線を向けていると。誰が見ても明らかに特別な思いを寄せていると分かったそうだ。それをフロアの片隅から眺めていた母と叔母の婚約者は、どのような気持ちだったのだろう。
叔母も憎く思っていなかったのか、必要以上に密着するダンスを拒むことはなかったらしい。それがまた二人の下世話として拍車を掛けた。
このことから婚約者を入れ替えてはどうかという案が一度は浮上したが、叔母の婚約者側の家が拒んだそうだ。なにしろ父の家より格上だったので、プライドが許せなかったのだろう。
そうして婚約者を変えることなく二組は結婚し、母は私たち姉弟を出産したが、叔母は妊娠できなかった。さらには子を宿す前に夫を落馬により亡くした。後継者を産んでいない叔母が嫁ぎ先から追い出されたのは仕方ない話だろう。
だがここからが問題だった。
この時、私たちは五歳と四歳。まだ父たちに関する風評を知らなかった。
「なぜ⁉ 嫁ぎ先から出るのなら、実家に帰るのが道理ではありませんか⁉」
ある晩、母の大声が響き渡った。気になり姉と両親のもとへ向かうと、二人は向かい合って言い争っていた。
「仕方ないだろう。君の兄君と結婚したエモーネ殿とベッカ殿の仲が悪いのだから」
「だからとはいえ、我が家が引き取る道理はありません!」
「道理がない? 君の妹だろ⁉ つまり私の妹でもある! 妹を引き取ることのなにが問題だ‼」
同居している父方の祖父母も駆けつけてきた。そして私と姉に部屋へ戻るように言うと、大人たちは話し合った。
それから間もなくし、叔母が一緒に暮らすようになった。父が祖父母の留守中、招き入れることを強行したのだ。祖父母は風評を知っていたので強く反対していたが、一度受け入れた者を追い出すのもまた醜聞となる。仕方なく祖父母は折れ、母はこの日からあまり笑わなくなった。
なにも知らない私たちは、単純に優しい叔母が好きだった。だから大好きな叔母とも一緒に暮らせるようになり、ただ無邪気に喜んだ。幼かったこともあり、家族が増え賑やかになったくらいの感覚だった。
「さあ、買い物へ行こうか」
それまで買い物には親子四人で出かけることが多かったのに、そこに叔母も加わるようになった。
当時それに違和感を抱くことなく、馬車を降りればどちらが叔母と手を握るかとよく姉と争った。結局叔母が右手と左手を使い、私たちの手を握る機会が増えた。父は私たち三人と並んで歩き、母はそんな四人を後から追いかけるよう歩いていた。
その光景を、母はどんな気持ちで眺めていただろう。
今さらただの言い訳になるが、叔母はお客様で一緒に暮らすのは一時のこと。いつかは家を去ると子どもながらに思っていた。だからえらく長く宿泊しているなとは思いながらも、家を出るまで甘えたいと余計に叔母へ懐いた。
しかし一年経っても叔母は去らない。やがて我が家で暮らすことが当たり前となり、自分たちの行動も無意識に『特別』ではなく、『いつもと同じ』に変わっていた。それに気がつかないまま日は流れ、やがて……。
「そうねえ……。明後日の茶会には、こちらのテーブルクロスを使いましょう」
「お姉様、ヴェチーノ様もお呼びするのでしょう? あの方は花柄より無地を好むから、絶対に無地ですわ。だからこちらにしましょうよ」
「駄目よ。茶会にお呼びするお客様の中で一番立場がおありなのはソット夫人だから、そちらの好みに合わせないと。いくら貴女が個人的にヴェチーノ様と親しくされていても、それは駄目よ。それにね、ソット夫人は花柄を好まれるの」
こうやって母と叔母の意見が対立することが増え、そこに父が居合わせた場合……。
「無地でいいではないか。ソット家より我が家が格上だ。ソット夫人ではなく我が家の趣向に合わせるべきだ」
と、妻である母より叔母の肩を持つ。
しかしここにいつも別の者が参加する。そう、当主夫人である祖母だ。
「なりません! ミーテの言う通り花柄のクロスを使用します! 私たちはもてなす側。ご招待する客人に不快な思いをさせてはならないことを忘れないようになさい。それからベッカ様、貴女はただの居候。我が家のことに口出しをしないようお気をつけなさい」
祖母は母の肩を持つことが多く、結局いつも当主夫人である祖母の案が採用されていた。それを面白くなさそうに、父は舌打ちすることが増えた。
思えば母は嫁いだ自覚があり、家の伝統などに沿った言動を取るよう心がけていた。だが叔母は居候という立場であり、本気で我が家の醜聞などを考えていなかった。本来であれば祖母の言う通り、叔母は口出しをする立場ではなかった。そして父もそれをたしなめる必要があった。それなのに叔母に味方するという異常な状況だった。
当時祖父母は何度も二人を諫めた。だが父は何処吹く風という態度を改めず、叔母も客人感覚を持ち続け、余計な口を挟む癖も治さなかった。また次期当主と言われていた父に気に入られているせいか、叔母も馬の耳に風状態だった。
「……限界にございます」
ある晩、尿意を覚え起きた私は母の沈んだ声を漏れ聞いた。
「申し訳ない。止められなかった私たちに責任がある」
「いえ……。悪いのはお義父様たちではありません……」
話し相手は祖父母のようだった。
「私もエモーネ様に尋ねましたが、確かにそりは合わない。だけど家を追い出された義理の妹を迎えないつもりはなかったと話しておられました。そもそも帰る相談すら受けていなかったとも……。あなた、ミーテさんの前で言うのもなんですが……。あの二人は最初から……」
「分かっておる。なんと恥知らずか……。育て方を間違えた。本当に申し訳ない」
「それを言うなら……。私の両親も同罪にございます……」
会話の内容は、当時の私には理解できなかった。だからすぐトイレへ向かい、そのまま寝室に戻ると再び就寝した。
この頃なにかあれば叔母が味方になってくれるので私たちは調子に乗っており、母が小言を口にするたび、叔母様ならそんなことを言わないだの、叔母様の方が優しいから好きだと言っていた。
叔母が優しいのは、自分の子ではないからだと気がついたのは後のこと。
他人の子だから責任なく甘やかすことができる。子どもの教育は両親が行うものだから自分は関係ないと、叔母はそんな考えの持ち主だった。
そのことに気がついていなかった私たちは、母に叱られると叔母に泣きついて慰めてもらい……。時に叔母から母へ文句を言ってもらい……。得意気になっていた……。
母より叔母が良い。
何度そう言ったことか。
それを聞いた母はいつも顔を歪めていた。まるで泣くのを堪えるように……。
記憶の中の母は、いつもそんな風になにかに耐えている表情が多い。そう、私たちは自覚ないまま母を追いつめていた……。
子どものしたことだからと許されないこともある。その身で思い知ることになるとは知らずに……。
ある日二人で遊んでいると、祖父が尋ねてきた。
「お前たちは、そんなに叔母が好きなのか?」
「うん、大好き」
「優しいし、お母様のようにうるさくないし」
「ねー」
姉と二人で顔を見合わせながら叔母を褒めた。
「そうか。なら母より叔母が好きなのか?」
さすがに即答できず、答えに詰まった。
だけど愚かな無知の子どもたちは言葉の重みを考えず、互いの様子を探り……。やがて二人して頷いた。
「だって叔母様……。味方してくれるし……」
「お母様みたいに、叱ってこないし……」
「分かった」
祖父はそれだけ言うと立ち去った。
姉と顔を見合わせたが質問の意図は二人とも分からなかった。
奇妙な質問だったが遊びを再開するといつの間にか忘れ、数日経つとそんな質問をされたことすら忘れていた。
この自分たちの過ちを知ったのは、母の誕生日だった。
「お母様への誕生日プレゼントを買いに行こう」
父に誘われ、叔母と姉との四人で買い物へ出かける。朝から出かけ昼は四人で外食し、結局誕生日プレゼントを抱え帰宅したのは夕刻だった。
「ただいま帰りました! お母様どこ?」
「お母様、お母様?」
各々プレゼントを抱え二人で母を呼ぶ。
返事はなく、さてはかくれんぼをしているなと思い、姉と笑いながら各部屋を覗いて歩き回った。だが母の姿はどこにもない。
「お母様?」
最後に向かったのは母の部屋だった。
声をかけるが返事はなく、祖母が近づいて来たと思うと、頭痛が酷く寝ているからそっとしておきなさいと声をかけてきた。
「でも誕生日プレゼントを渡したいの」
「お母様の誕生日は今日だから、今日渡さないと」
「休ませてあげなさい。それより夕食の時間だから、早く食堂へ行きなさい」
いつ母が姿を現しても良いようにプレゼントを抱え、食堂へ行く。
ところがいつも誰かの誕生日にはケーキが置いてあり豪華な食事だというのに、この夜は普段と変わらぬメニューでがっかりした。
「どうしてケーキがないの?」
「必要ないからだ」
「お母様、そんなに調子が悪いの?」
「ああ」
祖父に尋ねても簡素な答えしか返ってこなかった。
結局母は一度も姿を見せず、就寝する時間を迎える。
眠る前にせめてもと、母の部屋の扉をノックし伝える。
「お母様、誕生日おめでとう」
それでも返事はなく、寂しく思いながらベッドに潜った。
翌朝も母は食堂に姿を現さなかった。まだ体調が悪く寝ているのだろうか。それとも熱が出たのだろうか。心配していると、父と叔母の食が進んでいないことに気がついた。
「叔母様も調子が悪いの?」
尋ねると叔母は引きつった笑みを浮かべるだけだった。
なにかがおかしいと本能で察した。父もばつが悪そうに俯く。
「お父様、なにかあったの?」
姉もなにか感じたのか父に尋ねるが、黙りこんだまま答えてくれない。代わりに答えたのは祖父だった。
「今日からベッカ殿がお前たちの母だ。ミーテ殿は昨日、屋敷を去った」
それを聞き食事の途中だというのに音をたて椅子から飛び降りると、急いで姉と母の部屋へ向かう。それを咎める者はいなかった。
「お母様⁉」
飛びこんだ部屋に母の姿はなかった。窓も閉められ人の気配はない。部屋の荷物も減っていると気がついた。母お気に入りのアクセサリーを収める小箱もない。
それでも信じられず夢中で他の部屋も見て回るが、どこにも母の姿はない。
ついに泣き始めた私の手を握ってくれる姉と食堂へ戻る。しかし祖父は冷たかった。
「どうした、なぜ泣いている。母より叔母がいいと選んだのはお前たちではないか」
ついに姉も涙を流し、二人で大声を出して泣く。それを誰も宥めようとしなかった。
そんなつもりはなかった。
私たちにとって母はミーテという人だけで、他の人が母ではない。ただ他人が羨ましい。あっちの洋服が良かった。そういった幼稚な感情から答えただけで、本心ではなかった。
それに母が私たちを捨て去るとは思いもしなかった。
結局我が家への醜聞を最低限に抑えるため、初恋の相手と夫が結ばれるように、あえて自分から身を引き黙って家を去った女性と、今では人々の間で母は語られている。
しかし事実は違う。
『母』である自分より『叔母』である妹になつく子ども達。妻の『自分』ではなく初恋相手の『妹』の味方をしてばかりの夫。
そんな生活が耐えられなかったのだ。
自分が居るべき場所に妹が立つ姿を何度も見せられ……。
あの晩限界だと言っていたのは、そんな生活を送ることだったに違いない。
また母の誕生日だというのに深く考えず、朝から夕刻まで四人で出かけ、プレゼントを買い終わっても家に帰らず、一日かけ主役である母を祝おうとしなかった私たち。母に捨てられても仕方ない。先に私たちが母を捨てたようなものだから……。
あの日を何度悔んだことか……。もし出かけず家にいれば……。もしプレゼントを買ってすぐ帰宅していれば……。もし祖父からの質問に違う答えを口にしていたら。そんなもしもの中に違う未来があったかもしれない。
そして父と叔母は正式に夫婦になると、逆に会話が減った。母が居た頃の方が、よほど楽しそうに親しく会話を交わしていたのに。結局今も二人の間に子どもは産まれておらず、冷めた夫婦関係となっている。
それは母への贖罪なのか。母という障害が無くなったので互いの情熱が冷めてしまったのか、私には分からない。その答えを知りたいとも思わないが。
叔母を家へ招き入れた時点では、まだ父に未練があったのは確かだろうが。
とにかくこの一件により、当主である祖父は後継者を父から私へとすげ替え、私は祖父から教育を受けることになった。もちろん祖父母は父と叔母に、教育への口出しを許していない。
このことから父と叔母は社交界から爪はじきとなり、ほとんど外出すらせず、ただぼんやり家で一日を過ごしている。
私たちは当時幼かったので大目に見てくれている方が多いが、母の兄である伯父など一部の方々には今も快く思われていない。
ある日茶会に出席した姉が顔を真っ赤にして帰宅した。
「気持ち悪い! お母様が家を出て後継者がお父様からストルに変わった訳だわ! 自分が好きだった女を……。しかもお母様の実の妹を……! お爺様たちが反対したのに、無理やり家に住まわせていたなんて!」
茶会の席でその情報を仕入れた姉は父を責めた。それは私にも衝撃の内容だった。
それ以来、私たち姉弟と父との会話は減った。いや、皆無に等しい。
叔母への見る目も変わった。自分を慕っていると知りながら父の誘いに乗り、実の姉の気持ちを考えず平然と暮らす神経の図太さに嫌悪した。そして成長するにつれ、よく母に意見できていたものだと呆れた。
しかしいくら二人が元凶とはいえ私たち姉弟にも非はあり、二人だけを責められない。
母にとっては私たちも同罪だろう。伯父もまた然り。なにしろあの頃の私たちは、母より非常識な叔母の味方だったのだから……。
真実を知った私たちは母を探すため伯父のもとを何度も訪問し、頭を下げ、土下座し居場所を尋ねたが、知らないと一蹴された。母と交流の深かった夫人方にも尋ねたが、家を出て以来音沙汰はないと言われた。
そんな中、外国に母と親しくしていた人物がいると知りここまで来たが……。
「無駄骨だったか……」
後は船に乗り帰国するだけ。
潮の匂いが充満する波止場は出発を控え、乗船する人と見送る人で混み合っていた。
人ごみの多さのせいか息苦しくなりネクタイを緩め、大きく深呼吸する。それだけで少し息苦しさが緩和された時だった。
「しっかりとイエーネさんをお守りしてあげるのよ」
喧騒の中で一人の女性の声がやけに響いた。聞き覚えがあり、はっとなる。
驚いてそちらに顔を向けると、叔母や姉の顔立ちに似た人物が若い男女と向かい合っていた。
「旅ではなにがあるか分からないから、くれぐれも無理をしないでね」
「心配しないで母さん、新婚旅行だから楽しむだけさ」
姉より幾つか年上に見える青年が笑って答える。
「母さんが言っていた菓子を買い忘れるなよ? お前は忘れっぽい所があるから心配だよ」
叔母たちに似た女性の隣に立っている男性がからかうように言うと、二人と向かい合っているイエーネと呼ばれた女性が任せて下さいと答える。
「お義母様がお好きなお菓子ですもの。この人が忘れても私は忘れません。必ず買ってまいりますわ」
「はっはっはっ。新婚早々、すでに主導権を握られているな」
その人たちが話している菓子は私が暮らす国の有名な菓子で……。日持ちもするので外国客からの評判も良く……。
まさか……。まさか、まさか……‼
貴女は……。母さんですか……? ずっと捜していた母さんですか?
逸る心臓が全身を強く脈打たせる。混乱しつつどうやって確認すべきかあぐねいていると、女性が言った。
「お兄様やエモーネ様にもよろしく伝えてちょうだいね」
その言葉を聞き体に衝撃が走る! 間違いない、母だ! 会いたかった母だ‼ ずっと捜していた人が……‼ 今目の前に‼
自然と足が一歩、一歩とそちらへ引き寄せられるように動き、声をかけようと口を開く。
「か……」
「お兄様、私にもお土産を忘れないでね!」
可愛らしい声が響き、動きが止まる。
それまでほとんど母と思わしき女性の顔しか見ていなかったが、視線を下げると幼い少女が笑顔で期待した眼差しを、兄と呼ぶ青年に向けていた。その顔を見て目を見開いた。幼い頃の姉にそっくりだったからだ。
青年が母を『母さん』と呼んでいたこと。その青年を『兄』と呼ぶ少女。つまり母は再婚したと考えて間違いないだろう。見た目の年齢からすると……。青年は男性の連れ子で、少女は男性との……。
いや待て。そうだとすれば侯爵夫人は居場所を知らぬと言っていたが、本当に? 伯父も知らないと言っていたが本当に? 母ではなく叔母を選んだ私たちに居場所を知らせるなと、母からお願いされ黙っていたとすれば? 現に青年たちは伯父と会う約束を取りつけているような会話ではなかったか?
国内に居るより、外国の方が私たちに見つかりにくい。
だから友人を頼りこの国へ来て、そこで知り合った男性と再婚したのだろう。
誰も居場所を私たちに教えてくれないのは、母に私たちと会う気がないから……?
導き出された考えに愕然とし、どんどん体温が下がっていく。そんな状態でもし私が声をかければ……。
震えるのは体温が下がったからか、それとも……。
そんなことを考えている間にも、母と別れた頃の姉くらいの年齢の少女はぴょんぴょんと飛び跳ね、リボンをつけた髪の毛を揺らしながら、兄や兄嫁の腕にしがみつきながらお土産をせがんでいる。
あの子はきっと……。自分に父親違いの姉と兄がいることを知らないだろう……。そこに突然私が『母さん』と声をかければ……。母を困らせることになる……? いや、拒絶されるかもしれない!
「この子ったら、お兄様たちの無事よりお土産に気を向けているわ」
久しく見る自然な母の笑顔に、胸が締めつけられ苦しくなる。心臓の辺りの上着を強く握り、顔を歪める。
青年たちは乗船する。私が乗る予定と同じ船に。
だが私は乗船せず陸に残り親子三人から目を離さず、その場から動かないでいた。
やがて船は出航し、遠く離れ人の姿が分からなくなると見送りに来た者たちが一人。また一人と帰り始める。
「ねえ、お兄様はいつ帰ってくるの? 明日? 明後日?」
「当分帰って来ないよ。一ヶ月留守にするからな」
両親に挟まれている少女はその位置がとても自然だ。叔母と一緒に暮らし始める前は私たちも……。それを手放したのは……。
「向こうは治安が悪くないとはいえ、長旅だから心配だわ……」
「そう言う君は一人で通ってきた道じゃないか。大丈夫さ」
「そうね、信用しないと。いつまでも子どもではなく成長するものね……」
そう言うと母は一瞬寂しそうな顔で遠ざかる船の方へ視線を送るが、すぐに顔を作り変え笑顔を娘へ向ける。
「どうする、エヴィ。このままお家に帰る? それともお父様とお母様とお買い物をして帰る?」
「お買い物をして帰る!」
三人がエヴィと呼ばれた少女を中心に手を繋ぎ歩き出す。その背中が少しずつ私との距離を開けていく。
なにかを掴むように指を動かしながら、私は腕を伸ばした。
けれど声が出ない。足も動かない。
母さん、母さん……。お母さん……。
会いたくて捜していた人が目の前にいるというのに……。
やがて腕を下ろす。潤んだ瞳で、母の姿がよく見えない。遠い…。こんなに近くにいるのに、なんて遠いのだろう……。
……母さん、貴女も……。貴女もこんな気持ちで私たちを……。
膝をつき、かぶっていた帽子を脱ぎ握り締め、大粒の涙をぽたぽたと地面に落とす。嗚咽は波の音と、響く汽笛の音に呑まれる。
声をかけることもできない、あの頃と変わらぬ愚か者は、泣くしかできなかった……。
お読み下さりありがとうございます。
感想を受け付けるに設定していますが、多忙につき返事は控えさせて頂きますのでご了承下さい。
(令和元年11月13日(水))