二 ブルーシートはかく語りき③
僕が田口を楊の別れてくれない彼女と名指ししたのには理由がある。
以前に楊が飲みの席で言っていた事があったのだ。
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「断っても諦めてくれない女ってさぁ、男を駄目にするよね。男はさ、もう嫌われるようにって駄目な男ぶるしかないじゃない。それなのに、そんな駄目な所が好きって、包容力のある私って素敵でしょう、さ。怖いよねぇ。駄目な男は女に作られるのよ。きっと。」
「普通に別れればいいじゃないですか。別れたいって言えば。」
「馬鹿!付き合ってもいないんだから別れられないだろ。普通に断ってもな、好きな人が出来るまでいいでしょって流されるのよ。私はあなたを想っているだけなんだからって。お友達になりたいだけなのに酷いって。そんでいつの間にか恋人とか婚約者って吹かれるから彼女の作りようが無いでしょ。嫌われるしか方法ないじゃんか。」
「それってかなり具体的で実感が篭っていますけど、かわちゃんの実体験?」
楊はスッと僕から目線を逸らすと、ハイボールを僕の為に追加してくれたのだった。
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それを思い出したから、ブルーシートの外に出た所で僕は思わず口にしてしまったのである。
眉根を寄せた変顔の楊が僕に何か言おうとしたが、そこで聞きなれた声がかかった。
「逆セクハラお疲れ様です。」
声を掛けて来たのは楊の部下の一人である山口だった。
僕は彼に軽く頭を下げる。
彼は一見特徴のない風貌の長身の男だが、ちょっとした所作に凄みがある少々捉えどころのない人である。猫のような綺麗な瞳を持つ形の良い目はいつも微笑んでいるためか小さく細く見え、微笑んでいる表情でありながら整っている顔が目立たない。
凄く特徴がありながら、彼はその他大勢に埋没してしまう不思議な人なのだ。
先月に僕と良純さんが巻き込まれた事件から、僕と彼とはメールもする仲になった。
彼が僕のスマートフォンに登録した彼の情報によると、彼の下の名前は淳平で七月四日生まれの二十七歳、楊と同じRHプラスのO型だ。
手元にスマートフォンが無いので確認できないが。
ちなみに僕はマイナスのOだ。
さて、彼とここまで親密であるのにそっけない挨拶のみであるというのは、疑われている僕達にこっそりと情報を漏らしてくれた恩人である事が理由で、僕達は親しくないと人前では振舞わなければならないのある。
秘密の恋人だね、と人目の無い所で僕の手を握って揶揄うのは止めて欲しいが。
「いいのか、山口。俺はセクハラ野郎の濡れ衣持ちだ。本気でセクハラパワハラして暴れたい気分なんだよ。俺の手の中にチビのスマートフォンがあるからねぇ、ヒヒっ。」
「あぁ、かわさん。それでクロトから何の返信もなかったのですね。酷いですよ!」
「お前なぁ、監査が入ってんだからよ、ちったぁ遠慮しろよ。べらべら情報流した事を反省もせずに、それを逆手にメールで口説いてんじゃないよ。」
「あぁ、もう。監査が入っていたのはかわさん一人じゃないですか。これは単なる嫌がらせですね!クロトと連絡取れなければあなたのパーティもおじゃんですよ。わかってそういう嫌がらせをしているんですか!」
「俺は、十二日も潰れたんだぁ!」
楊は両手で顔を覆っての雄たけびだ。
僕のスマートフォンが奪われた理由は他にもあったらしいが、僕は今までの計画やら高揚感やらもぽしゃりと潰れた音も聞こえていた。
面倒だと騒いでいたのだが、僕はとてもそれを、かなり楽しくその日を心待ちにしていたらしい。
「あぁ、クロト泣かないで!大丈夫だから!かわさんいなければ僕達のさぷらいず飲み会にすればいいだけだから。パーティはおじゃんにしないから泣かないで!ほら、友君だって、絶対に参加するって言っていたでしょう。」
山口の口にした友君とは、彼の相棒であり、楊の部下の一人だ。
さわやかな好青年で山口よりも一つ年上の葉山友紀は、武道どころか茶道も嗜んでいそうな立ち居振る舞いの静かな男性で、僕に和菓子をくれる事から僕は彼を武士と呼ば崇めている。
「あ、友君もがっかりするね。」
「ちょっと待って。どうして友君?僕が山口さんで、どうして友君?ねぇ、クロト。」
「いいじゃない。そんなこと。でも、う、うううう、う。」
「あぁ、泣かないで!」
よそよそしい振る舞いなんて山口はすっかり忘れ、おろおろとしながらも、なんと兄のように自分のハンカチで僕の涙までも拭ってくれるとは。
しかし、そんな気安い行為を受けたからこそ僕は、パーティの幹事を成功させようと頑張ってきたのは彼らに認められたいという気持ちがあったからだと再確認して、こうして慰められるだけの自分の情けなさで一層悲しく涙が止まらなくなってしまった。
山口には申し訳ないけれど。
「う、う、う、ううううう。」
「ちくしょう。泣くんじゃない。」
僕の涙に本気で耐えきれなくなったのは楊であった。
彼は僕を山口から奪うようにして引き寄せると、そのまま自分の胸に僕を押し付けた。
それだけでなく、左腕でぎゅうと抱きしめた僕の背中を右手で優しくポンポンと叩いてあやすという行為付きなのだ。
「大丈夫だ。大丈夫だって。俺は絶対に生還する。俺には髙という切り札がいる。」
「かわさん、自力じゃない所が情けない。」
楊の相棒の髙悠介は楊よりも年上の三十六歳。そのせいか大人の飄々とした雰囲気を持った様になる格好いい人であるのだが、元公安の怖い人らしく、大体は彼の思惑で進むという噂まである。
楊の出世は髙の差し金によるものともっぱらの噂だ。
上司であるはずの楊でさえ頭が上がらない御仁なのだ。
「そうか。髙さん。髙さんがいましたね。」
山口は人頼みの上司が情けなく思うだろうが、髙は疑われていた僕を最初から庇ってくれた人でしかない。
僕が彼の名前に希望を持って反応するのは正しいはずであり、その流れとして僕は楊の胸から喜びを込めて顔を上げたのだが、不思議なことに山口と楊は僕を怪訝な表情で見下ろしていた。
「どうしたの?」
「べつに。」
楊は別にじゃない顔つきで答え、山口も困り顔だ。
「ねぇ、もしかして髙さんは具合が悪いの?そういえばこの現場に来ていないですね。」
「うん、そうだけどさ。ちびは髙に会いたいの、かな?」
楊の伺うような言い方に、僕が最近忘れていたことを思い出してしまった。
僕は気持ちが悪い生き物だってことを。
僕の体は男の子と言える特徴を示しているが、XXYという染色体異常により第二次性徴は迎えていない。
無毛の幼児のような性器にがりがりの子供のような体は成長せず、僕は手足だけが伸びた蜘蛛のような体型なのだ。
以前に女の子だと思われて誘拐されて乱暴されそうになったのだが、僕の裸体を見た男は「気持ちが悪い」と吐き捨てただけだ。
その場は髙に救われ、暴力行為よりも「気持ち悪い」と言われたことに傷ついていた僕を、彼は「きれい」だと慰めてくれたのであるが、やはりあれはその場しのぎの慰めだったのだろうか。
僕は知られるほど嫌われる。
両親が僕を決して見ないのは、きっとそういう事なのだ。
「ちび。こら、勝手に暗くなるな。お前は俺に集中していろ。」
「かわちゃん。急に僕の体をぐらぐら揺らさないで。脳みそがおかしくなっちゃう。」
「いや。お前の脳みそは既に十分おかしいからそこは気にするな。それよりもお前はさ、髙がお前に渡した防犯ベルがスタンガンだったってわかったんだろ。――それでも髙に会いたいのか?」
「はい。だからこそ会いたいです。でも、髙さんは、……僕に会いたくないんですよね。」
「え、そんなに会いたいって、復讐?報復?罵りたいだけ?ちびは髙に一体何をしたいの、かな?お前は百目鬼のようなろくでなしじゃないよな。」
僕は再び楊によってぐらぐらと揺らされ、今度は山口に抱きしめられるようにして楊の手から助け出された。
「いいじゃないですか。クロトにはその権利がありますって、かわさん。クロトの好きにやらせてあげましょうよ。」
「ちびイコール百目鬼だろうが。まかりなりにもお前の教育係だった髙を血祭りにあげたいのか、お前は。この薄情者。」
「僕は今クロト一筋ですから。」
「ねぇ、どうして僕が髙さんに報復しないといけないの?」
言い合いをしていた二人はぴたりと口を結び、同時に僕を訝しそうな目で見つめた。
「ねぇ。どうしたっていうの?」
二人の訳の分からなさに、僕の目からは涙がポロリと一粒落ちた。
やっぱり最初に落ちたのは楊だった。
僕は再び楊に抱きしめられた。
「泣くなよ!だって、髙のスタンガンでお前は病院送りだったじゃないか。」
僕は髙に渡されたスタンガンを防犯ベルだと思い込み、「お守り」とぎゅうっと自分の胸に押し付けた馬鹿者だったのである。
「う、う、うううう、う。」
「ほらぁ、泣くなよ。あいつはお前をこれ以上傷つけたくは無いの。あいつはあれをすごく反省して後悔しているんだよ。だからさ、お前にスタンガンだって知られてからお前に会い辛いんだよ。わかってやって。」
髙は僕が気味が悪いと思っていない?純粋に、あの時の事だけを苦にしていたの?僕は再び楊の胸から顔を上げると、彼に嘘が無いか見通せるほどじろじろと彼を見つめた。
楊は大嘘つきの男でもあるのだが、僕に微笑み返したその顔には嘘よりも僕への心配が浮かんでいるようであった。
「な、少し時間をあげてやって。あいつが汚名挽回できるようにね。」
汚名は返上するものだと思うのだが、僕は髙に嫌われていないという事実が嬉しかった。
「えと、あの、かわちゃん。それじゃあ僕からはごめんなさいって伝えてくれる?」
「え?」
「せっかくの心遣いを台無しにしてごめんなさいって。」
「え?」
「だって、あのスタンガンって、僕が一人で心細いって言ったからくれたんでしょう。身を守るお守りだよって。それなのに自爆しちゃって髙さんの気持ちを台無しにしちゃった。ごめんなさいって。次からはちゃんと敵に使うからって、僕も反省しているからって伝えてくれる?僕が気味が悪くて会いたくないんじゃないなら、僕を許してって。」
楊は僕に答えてはくれなかった。
僕の後ろに立つ、僕一筋だと公言した山口でさえも。
彼らは僕が言い終わるや、どさり、と音が立つくらいに一斉にしゃがみ込み、僕に対する嫌味のように頭を抱えてしまったのである。
「ねぇ、どうしたの?僕が何か間違った事を言ったの?」
両手で顔を覆ったままの楊は微動だにしないが、僕に一筋男だけは僕に答えてくれた。
半分涙目の赤い目をしていたが、出来る限り真面目な顔を作って、だ。
「クロト、スタンガンは二度と君に渡させない。約束するよ。」
「あ、信じていないですね。もう!もう!僕だって学習します。しました!もう二度と自分に使いませんよ!酷い!二人とも。いいです。僕はもう帰ります!」
酷い二人から踵を返して振り向けば、振り向いた先、今まで山口がいた僕の真後ろがブルーシートの現場だったのだと思い出させた。
「ひょえ!」
ブルーシートから顔だけ出したクレオパトラ田口が僕達を物凄い目で睨んでおり、僕はあの目としっかり目線があってしまったのだ。
「どうした!ちび!うわっ。」
「クロト、どうしたの?ひえ!」
楊は上げた顔を再び両手で隠して丸まり、慌てて立ち上がった山口は僕を田口の目線から彼の体に隠すようにか僕を抱き締めた。
だが、彼はえっと奇妙な声を出して固まってしまった。
固まっただけではない。
彼は唖然とした顔でブルーシートから鑑識のバンへと歩いていく田口の姿を凝視しているのである。
「どうか、あの、しましたか?」
「いや、なんでもないよ。」
僕の問いかけに僕に顔を戻した彼はいつもと違う笑い方で目を細めると、僕にのしかかるようにぎゅうっと抱きしめ直した。
「田口はもういいからさ、君はあの遺体が何に見えたの?思い出して。」
急に山口が思い出したくもない死体を尋ねてきて、そこで思い出し、山口を振り払うとしゃがんでいる楊の背広を両手で引っ張った。
「かわちゃん、来る最中にあった不法投棄の洗濯機。あの中にあの遺体の人がぐるぐると回っていたんですよ。」