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三十 楊の家の前で②

 僕が手の中の子猫に語りかけると、子猫はかすかだがにゃあと鳴いた。


「いい子だ。それに猫だった。」


 寒さから守る様にガーゼで幾重にも包んだ子猫は黒に近い灰色で、まるで肉まんの中のあんこのようだ。

 あんこの耳は通常の猫と違い丸く、頭の上ではなく顔の横についている。

 猫の要件を備えていない様に思えるが、獣医も周囲も猫と言うのなら猫なのだろう。


「とても可愛いけれど、この子は猫としては不細工ですよね。顔立ちが鼠みたい。」


「ふふ。生まれたての子猫ってそんなものなのよ。すぐに猫らしくなるわよ。」


「詳しいですね。」


「父がね、子猫を見つけると拾ってくる男だったの。私に養母役を押し付けてね。」


「かわちゃんみたいだけど、かわちゃんと違って酷い人だ。」


「あら、父よりも勝利まさとしの方が酷いわよ。あの子は生き物なら何でも拾ってくるでしょう。ネズミ捕りにかかったドブネズミや、尻尾のないトカゲを拾ってきてどうするつもりなのって。父はひたすら猫だけだったもの。」


「どうして猫だけなのですか?」


「泣き声が赤ん坊みたいで嫌なんですって。きっと思い出すのよ、死んでしまった息子達の事をね。母と弟達が亡くなって、私達は二人ボッチになったのよ。」


「対象が出ます。上注意。」


 僕は何も言葉を返すどころか彼女の過去の不幸に喉が詰まってしまった状態で、作業員の掛け声をありがたく思いながら、彼の掛け声の対象が浮かぶ別の風景へと目線を動かした。


 楊のベッドが宙に浮いていた。

 メインベッドではなく、メインベッドから引き出されたサブベッドの方だったが。


「あなたはロシア文学の教授でしょう。嘘つきですね。」


「ふふ。専門じゃなくても、建物の構造計算は私の特技なの。父とよく建物を爆破するにはどこが一番狙いどころかって、ゲームのようにして遊んでいたから。」


 僕は彼女の父親は一体どんな男なのだと尋ね返そうとして、ベッドを見つめる千代子の目が涙でいっぱいであることで再び言葉を失ってしまった。


「あの子はあのベッドに固執しすぎよ。そんなにあのベッドの王様になりたかったのなら、弟にメインベッドの使用権を譲らないで順番に使えば良かったのに。」


「なんですか?それは?」


「あの子はね、待つのが辛いからって別居をしておいて、夫の不在を嘆く馬鹿な母親のために道化になっていたのよ。兄弟喧嘩で母親を患わせたくない。弟を悲しませたくないから持ち物だってなんだって全部譲る。そして空っぽになって、空っぽだと泣くべきところで笑顔しか見せない。馬鹿みたい。私の父もそんなところがあったけれど、父はもっと上手くやっていたわ。」


「どんな風に、ですか?」


「言いたくない。だってあの子に父の生き方の真似をして欲しくないもの。奴は誰のベッドにも潜り込む猫みたいな男でもあったから。」


 僕はハハハと千代子の軽口に乾いた笑い声をあげた。

 笑って口が開いたからか口元に塩辛い涙が入り込み、僕はガーゼでできた饅頭に顔を埋めた。


「玄人君。」


 千代子は僕の肩に腕を回し、僕と同じように涙を流しながら、僕の頭に彼女の頭を乗せる様にくっつけた。


「あの子達は生きているわよ。」


「生きていないと困ります。僕は猫なんて大嫌いだ。こんなに、こんなに小さくて臭い。あぁ、くさい。目に染みる臭さだ。生き物って臭い。生きているって臭い。」


 でも僕は、目覚めた僕を抱き締めた時の、あの二人の臭い匂いをもう一度嗅ぎたい。

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