十七 小雨降る振る②
楊に冗談めかして彼を悩ます婚約の破棄の提案を口にしてしまったが、水野の想像したとおりに、楊は彼女の立ち入った言葉をそのまま受け入れて流した。
「好きだよ。殆ど娘みたいな感じ。俺は枯れているし、どうせこの先も恋人も出来ずに加齢臭が溢れる親父になっていくんだからさ、俺が親父だって気が付いて嫌われるまで約束してあげていてもいいかなって。」
楊の汚れてしょぼくれた姿を今まさに目にしていると、彼女は笑いながら彼を上から下まで眺め直した。
そして、目の前の家なき子となった男のみすぼらしさこそ、彼の魅力をより引き出しているような気がした。
この姿の今の彼が自分の家の戸口に立っていたら、確実に自分は彼を中に誘い込むだろうと、いや、いつだって水野は楊が自分の部屋の玄関ベルを鳴らす事を待ち望んではいなかったか、と。
「やばい。」
「どうした、みっちゃん。」
「なんでもない。ほら、これあげる。そんで元気出せ。」
水野はいつも持ち歩いているチョコバーを楊に握らせた。
彼は本当に嬉しそうに包み紙がぐしゃぐしゃに皺のあるお菓子を受け取って封を開け、感動に打ち震える演技をしながら頬張った。
眺めている水野の頬のあたりがなぜかきゅっとし、彼女はきゅっとした自分に少し慌て、そして楊を見返せば、そんな彼女を全部知っているという顔で微笑んでいた。
「なに、親父みたいな顔になっているよ。」
「酷いね。でも、あの子も君達みたいな同性の友達が出来れば世界が広がるかな。」
「そしたらかわさんが解放されるって?あたしらが彼女を合コンにでも誘ってやろうか。未成年だから山さん達がお気に入りのスィーツ屋ぐらいだけどさ。」
「ありがとう。俺もその店に行きたいのにね、あいつら俺にはその店を内緒にしてやがるのよ。酷いと思わない?アメリカンワッフルが凄くおいしいんでしょう?今度教えて。」
「上司がいる店には行きたくないんじゃない?」
「上司と認めてもらえていると知って嬉しいよ。」
水野ははははと笑い声を立てると、軽い足取りでエントランスの外に駆けていき、残された楊は髙からのスマートフォンを受けていた。
「水野は外に出たよ。佐藤は?」
「あの子も出しました。よく気が付きましたね。」
「うん。絨毯が変だなぁって上にあげたら血痕と黒い粉でしょう。火薬だった?」
「火薬プラス小麦粉とアルミニウム粉末の混ぜ物でした。マットレスを動かしたり重量がかかったら作動する仕掛けもありましたから、遅ければ今頃僕達は丸焦げでしょうね。いや、粉々かな。何もない部屋にアルミニウムを混ぜた粉塵をまき散らして火花が散れば、粉塵爆弾の大爆発だ。」
「そうしたら俺が君達を殺した事になっていたね。」
「それはどうでしょう。これはあなたを狙ったものでは?あなただったらすぐにマットに横になるでしょう。部屋に入ってすぐにドカン、でしたね。大体、今のところ唯一田口殺しの動機のあるあなたに、田口の部屋の検証を命じるなんておかしいじゃないですか。」
「そうかな。そうしたらちび殺害未遂も俺の身代わりかな。田口の死で俺は自宅謹慎を命じられたでしょう。車が故障して足止めされなければあの家に俺は確実に帰っていた。」
「そうでしたね。…………あ、それであなたはそんな変な格好なのですね。いつもと違うけれど、みすぼらしくて目立つ。」
「いや、あの。洗濯できないから。残った服はクリーニング中だし、皮のコートはエンジンオイルがついてぽしゃっちゃったじゃん。」
髙は楊がペットを預かってくれた松野を振り切って、ガスも電気も止まった自宅に帰っている事を思い出したのである。
恐らく松野の家に行けば一生出られないと脅えているのだろうと、髙は楊のみすぼらしい姿を哀れんだ。
「……可哀想に。どうぞ。」
「どうぞって。」
背中に固いものが当たり、楊が慌てて後ろを振り向けば、右手にスマートフォン左手にミントケースを持った髙がにこやかに微笑んでいた。
彼はいつものように肩を大きく竦めて楊ににやりとすると、スマートフォンを片付けた。
「爆発物処理班が到着しましたから、役立たずな僕達も出ましょう。」
楊も少々乱暴にスマートフォンを片付けると、相棒の差し出したミントケースをケースごと奪ってポケットに突っ込んだ。
「ありがとう。」
「いいえ。そうだ、山口が無理矢理退院したそうです。リハビリ課題を与えましたら情けない声を出していましたよ。」
「じゃあ、可哀想ついでに佐藤達と合コンでもさせてあげて。親父は参加できなくて悲しいよって。」
「かわさんたら。」




