十七 小雨降る振る①
田口美樹の部屋は遺族によって整理されたと見るには整頓しすぎており、そこに人が住んでいたと感じさせるよすがさえも完全に消えていた。
家具付きの八畳ほどのワンルームの部屋には、ベッドの代りに布団も何もない黒いマットレスがぽつんととり残されているだけなのだ。
「着替えどころか、歯ブラシ、化粧水までも無いのはやりすぎですね。彼女は別に部屋を持っていたか、殺害者がこの部屋を片付けたか、どちらかでしょう。」
部屋から出てきた男は、部屋に入れてもらえずに共有廊下で寒さに震えている男に耳打ちした。
すると、元は良品だっただろうが今は毛羽だった厚手の紺色のガウンを羽織る男は、形の良い眉毛が眉間でくっつくほどに皺を寄せて耳打ちした相棒に言い返した。
「横浜市へ移動になった時に引っ越したんでしょう。それでこの部屋、じゃないの?なんもないんだったら部屋に入れてよ。俺はもう、寒くて。」
「そんなガウンなんか来ているからですよ。」
髙は楊に眼も向けずに、自分のスマートフォンで報告書らしきものを打ち始めながら、どうでもいいように楊に言い返すだけである。
そんな相棒に痺れをきらしたか、楊は子供のように体を揺らしながら相棒に子供のように声を上げた。
「ねぇ、寒いって言っているじゃん。お願い、寒いから中に入れて。」
「ダメですよ。かわさんが入ったら証拠隠滅って濡れ衣決定ですよ。いいんですか?」
楊に答えたのは彼の相棒の髙ではなく、四月から刑事昇格が決まっている佐藤萌巡査である。
彼女は軽く勢いをつけて顔を上げ、顔にかかって黒髪を前に跳ね上げた。
前下がりのショートボブに縁どられた顔の輪郭は卵型で、重なり部分が小さい二重だが大きく見える瞳は少し吊っていて、署内では妖精に例えられる美人でもある。
「なんかもうさ、それもいいかなって。おうちも壊れたし、俺の大事な宝物も救出不可能みたいじゃん。追い打ちみたいに今夜は雨予報じゃないの。あのベッド、もう駄目だよ。」
髙と佐藤は楊を慰めることなく室内に戻っていき、楊は妖精が優しくなく暗黒な生き物だったと自分を慰め、相棒共々を心の中で罵りながら振動し始めたスマートフォンを取り出した。
「はい。楊っす。」
「俺は警察官だが刑事じゃないぞ。」
「いいじゃん。坂ちゃんの山でしょうが、緑丘は。ついでに今日見つけたばかりの遺体を差し上げますから、そっちも貰って。」
「いるか。もう面倒だから緑丘は自殺で片付けたいね。」
「あ、いいね。こっちの田口と今田の死亡も不倫の上の心中でいいじゃんって。」
「それは駄目だよ。お前の昇進テストだと思ってそっちは頑張りな。お前の邪魔をしないようにって、根本さんが竜さんを抑えてくれているんじゃないか。」
「え、何それ。え、誰が昇進するの?」
「お前。四月から新しい課を作っての、そこの警部で課長でしょう。オカルト課だって?今泉がそっちに行きたいって部署替えを申し出てね、俺は快く彼女の後押しをしてあげたんだ。ははは、彼女の為にも頑張ってくれよ。」
坂下はかけて来た時と同じに唐突に電話を切り、楊はスマートフォンに怒鳴る気力もなく、そのままその場にしゃがみ込んだ。
下がった視線は階段から共有廊下に貼られたシート状の絨毯を漠然と眺め、内廊下の物件ならまだしも、どうして雨水を受けるだろう外階段に絨毯を敷いているのかと首を傾げた。
そこで、彼はポケットからボールペンを取り出すと、ボールペンの先を使ってそっと絨毯を持ち上げてみたのである。
「ありゃ。ああそうか。この絨毯は引っ越し用の養生の奴か。林葉は引っ越し屋だったものね。でも、この粉はねぇ。あら~。」
楊は自分のスマートフォンで絨毯の下の写真を撮ってから相棒に送ると、のそのそと階段の方へと歩いていき、そのまま階段を下りてエントランスに向かった。
エントランスに明るい色の癖のある髪をショートヘアにした水野美智花がおり、人除けを名乗り出て現場に上がらなかった彼女は、人気が無い事を良いことに壁に寄りかかって缶コーヒを飲んでだらけていた。
「あ、ずるい。自販機どこにあった?」
「このマンションの裏に。小雨が降っていて寒いですよ、外。」
「うそ、もう降っているの?駄目じゃん。俺の大事なベッドはもう駄目だ。」
「一生モノの家具はメンテナンスが出来るって、クロが言ってましたよ。大丈夫ですって。」
「あぁ、そうか。俺には家具屋のちびがいたか。」
にっこりと微笑んだ水野に、楊は佐藤の親友で相棒である水野が署内で「癒し系」と持て囃されている事を思い出していた。
大きな二重の目元が佐藤と反対に垂れているところも猶更そう思わせるのであろう。
楊はポケットから小銭を取り出すと、水野に手渡した。
「暖かければ何でもいいから買ってきて。あ、お汁粉はやめてね。君に惚れられたら困る。」
「あははは。かわさんの婚約者さんはお汁粉をかわさんに買ってきたんだっけ。」
「そう。甘いのって言ったらそれだった。でもさ、何でもいいって言ったのは俺でしょう。お汁粉を突き返すわけにはいかないから、ありがとうって受け取っただけなのにね。」
少々疲れた顔で印象的な目元に笑い皺を寄せる楊の顔はいつもよりも渋みがあり、水野はこの男は自分の顔の良さを知らないのだろうかと考えながら、いつもの間抜けな上司へ自分の考えてることをぶつけていた。
それは、冗談に聞こえる軽さの声を出して、だったが。
「好きでも無くて困っているんだったら、婚約解消をしたらいいじゃない。」




