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九 決してこの手を離すな②

「玄人は死ぬのか!」


 あの日、処置室から玄人が病室に移動し担当医が処置を行っている最中に、聞きなれない男の叫び声に顔を上げれば、病室の戸口には玄人の父、はやとが青い顔をして立っていたのである。

 継母の詩織は、ドアに隠されて病室からは見えないが、彼の右後ろ側にいるらしい。


「それは本当なのか。息子は死ぬのか。ここで死んでしまうのか!」


 俺は取り乱している男の姿に、玄人が本当に望んでいた親の愛がようやくここで手にできるのかと、相談役として喜んでやるよりもむなしい感情に陥ってしまっていた。

 俺が握りしめている玄人の手は冷たく、骨が入っているのかと疑うほど柔らかい。

 俺に縋りついて来ないのであれば、俺が手放すしかないのかと思わせるほどに心もとないのだ。

 しかし、詩織の物言いで俺は彼の手を決して放すまいと決心した。


「あなた。世田谷に連れて帰りましょう。この子も親のそばなら安心していられるんじゃないかしら。今すぐ転院の準備を。」


 彼らは玄人の顔を覗き込むどころか病室に入ることもせずに、勝手に玄人の処遇を相談し始めたのである。

 俺は彼らを張り倒したい激情が湧いたが、病室でバイタルを確認していた医師が物凄い勢いで顔を上げ、俺が暴力を行うよりも早く隼たちへ異を強く唱えた。


「ダメです。今は動かせません。脳が出血で腫れている状態です。ようやくバイタルが安定したんですよ。」


「う、動かしたら、どうなる?」


 戸口から発せられた震える隼の声に対して、玄人の担当医師、キリンによく似た顔つきの伊藤医師は、優しそうな顔つきながら断固とした声と表情を作って彼らに向き合った。


「命の保証はできません。」


 戸口では隼が息をのむ音が聞こえ、否、息を呑んだのは俺も一緒か、しかし、一人冷静な女は耳当りのよい声音で俺達に猶予を与えたのである。


「わかりました。では、動かさなければ命の別状は今のところ無いのですね。転院については後程相談に参ります。」


 詩織の言葉に彼らが退くと判り一瞬ほっとはしたが、彼らの足先が病室の戸口から遠ざかろうと動いた事で、俺は俺の家で泣いていた玄人の姿が思い出された。

 居間の押し入れを彼の荷物や衣服が片付けられるクローゼット仕様に俺が改造したのだが、彼はその押し入れの襖を開けて俺による改造を知ると、驚愕の顔のままその場にペタンと座り込み、放っておけば何時間でもそこを見つめながら泣いていただろう。


「僕の、僕の思い出の品が、こ、こんなにたくさん。」


 思い出の品、笑ってしまうが、これは彼の哀れさの一片かもしれない。

 人とコミュニケーションが上手に取れない彼は、所有物を継母に捨てられ続けている事情も相まって、他人から受けた形のあるものを必ず「思い出の品」として執着するのである。


 二月に起きた大火災の惨事の後、その放火犯罪の主犯か教唆犯だと思われたのか、俺は一週間ほど警察に監視されていた。

 当り前だが玄人は俺から引き離されて、両親がいて守られるはずの自宅に戻されたのである。

 俺への疑いが消えた日に彼は俺の家に喜び勇んで「帰って」来たのだが、その姿は収容所帰りの捕虜のようなみすぼらしさだ。

 見た事もない毛羽だった安物ジャージを身にまとい、彼の両手に持つ彼の荷物は、かわやなぎが与えたスケッチブックと惨事の時に着ていて駄目になったぼろ服を詰め込んだゴミ袋しかなかったのだ。


 俺がその姿を目にして、彼を決して自宅に戻すまいと決意したのは当たり前だ。

 再会したあいつは、保健所で殺される寸前だった野良犬のように、隠せない喜びを全身から発していながらも、俺に追い出されはしないか脅えながら伺ってもいたのである。

 俺はすぐにでもその哀れさを奪い取ってやりたくて、少々強めに口に出していた。


「そんなぼろ服なんか捨ててしまえ。」


「でも、この服はかわちゃんや坂下さんと鈴子さんを助けた時の思い出の品だし。」


 彼はゴミ袋を胸にぎゅうと抱きしめた。


「馬鹿。そのビニール袋じゃなくて今着ているジャージの方だ。」


「でも、これは服が無い僕のために警察の人がどうぞって。家には僕の服が一枚も無かったから、このジャージはすごく、すごく、僕を助けたから思い出の品で。」


「わかったよ。まず着替えろ。その服は俺が洗濯してそれなりにしておく。」


 俺は彼の願い通りにぼろ服を洗濯して整えて、だが、彼のみすぼらしい姿を思い出したくはないと圧縮袋に入れて押し入れの奥深くに片した事も思い出した。


 俺は玄人の手を、本人の意識があれば痛いという風に握りしめていた。


 彼が死んでしまったら、俺は彼の「思い出の品」達に襲いかかられるだろうと。

 戸口から彼の実父が一歩も入れないのは、彼が過去にこのような状態になったからか?

 愛しているからこそ彼に近寄れないのか?


「お前達はいいのか。こんな時ぐらいこの子の手をつかんでやらなくて。」


 俺の掛けた言葉に隼はびくりと体を震わせた。

 それでも彼は戸口から動きもしなかったが、手だけは病室にそっと伸ばしてきた。しかし、その手はすぐに横にいた妻に押さえられ、妻の手にしっかりと掴まれてお終いだった。


「あなた。玄人も信頼している和尚様が傍にいてくれる方が安心するはず。私たちは一先ず帰りましょう。」


――お母さんが僕の持ち物を間違って捨ててしまうんです。


 俺は目の前の女と玄人の言葉が重なったと、彼女を見据えながら座っていたパイプ椅子から立ち上がった。

 俺はこの目の前の女を玄人から遠ざけねばならないだろう。

 隼はどうでも、この女は完全に玄人の害となっている。


「転院はさせません。」


 彼女は俺の視線を受けると、脅えるどころか顎を上げて睨み返してきた。

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