序章 3月12日は駄目です②
「それで法事の日にちなのですがね、土曜日の十二日は如何でしょう。」
目の前のホテル支配人はフォルダーから卓上カレンダーの三月分を引き出して、俺に見えるようにテーブルに置いて日にちを指し示し、それを目にした俺は自宅の冷蔵庫に貼られたカレンダーがフラッシュバックした。
赤まるでぐるぐると囲まれた十二日。
「申し訳ありませんが、十三日の日曜日にお願いします。十二日は此方もどうしても外せない予定がありましてね。」
三月十二日は俺の友人へのサプライズパーティがある。
彼の誕生日は十四日であるのだが、その日は彼の婚約者が彼を押さえている。
よってその日に「俺をサプライズしろ」と本人が玄人に命令したのだから仕方が無い。
友人の誕生祝を計画する、という役目を一度もしたことのない彼は喜んで、どういう風に計画するのか、規模はどのくらいなのか、手当たり次第に人を引き込んでは嬉々として準備に勤しんでいるのである。
あの、対人恐怖症の生き物が、である。
「土曜日がいいのですけどねぇ。」
「では、前の週では?」
「いえ、週はこの週でなければいけませんのでね。こちらも色々と都合が。」
「では、日曜で。法事は日曜日が多いですよ。土曜日が休みの会社は多いですけどね、矢張り日曜の方が確実に親族が集まれますでしょう。今回の法事をホテルの業務の一つとして今後提案されるのであれば、一般の方が望まれる事の多い曜日で実行されては如何でしょうか。」
「お坊様にホテル経営を教えていただけるとは考えても見ませんでしたよ。」
「差し出がましい真似を致しまして。」
俺は目の前の慇懃無礼な男に頭を下げながら、世の中の親も子供のためにこんな情けない思いをすることになっているのかと、世の中の親父達を少しだけ見直していた。
そうだ、俺を犯罪者だとしつこく追っていた組織犯罪犯の連中も許そう、と。
あいつらも家に帰れば子持ちの父親ばかりだ。
「いえいえ、お顔を上げてください。私共も実は十二日を目処に動いているところもありましてね、それで十二日にお願いしたかったのです。お坊様が三月には他に法事の話がないとお山から伺っておりましたが、何か外せない御用でも?」
檀家も無いお前には仕事など無いはずだろうと放言してくれた男に、お前なんか俺にとって小用だよ、と言ってやりたい馬鹿な自分がいたのだ仕方がない。俺は未熟者である。
「お話に出ました助手がですね、友人の誕生日パーティの幹事になりましてね。初めてのお使いではないですが、そんな風にあの子が必死で準備しておりまして。あの子を親から預かっている身としましては色々と応援してあげたいですからね。」
目の前の男はハハハっと気安く笑い声を上げた。
「あの子への過保護ぶりは相変わらずだ。」
俺は彼の声音に少々険のあるものを感じたが、そこは簡単に聞き流した。玄人は過去のいじめで記憶喪失であるらしく、その記憶を無理矢理思い出させたら死ぬという変な遺言付きのオカルト物件でもあるのだ。彼の親戚連中はその眉唾を固く信じており、彼に会いたくとも無理矢理に記憶を取り戻す結果になったら怖いと遠くから彼の様子を伺う馬鹿ばかりなのである。
そして、馬鹿は馬鹿なりに愛情豊であり、その状況にかなりのうっ憤を抱いている。
俺は目の前の男も玄人の親族なのだろうと諒解し、今までの彼への愚行を謝罪するべく口を開こうとした。俺がいなくとも誕生会ぐらい開催できる。なにしろ、言い出した祝いを受けるべき男が自分で影から補佐しているのだから、と。
「いいでしょう。いいですよ。十三日にいたしましょう。クロ君には頑張ってと、いや、いいか、内緒で。久しぶりで驚かせたいですから、内緒で。」
「ありがとうございます。十三日にはいい顔をしたあの子をお見せできると思いますよ。」
ここからは気安くお互いに法事の段取り等の話が簡単に決まり、俺は思いの外自宅に早く戻れた。早く戻ったところで、誰が待つってわけでもないがな。
「あの野郎。戻ってきたらこき使ってやる。」
ノートパソコンを開けて七日からサプライズパーティ当日を含めた法事の十三日までのスケジュールを勝手に作って遊ぶ。コイツを見せた時のあいつの顔が楽しみだ。
印刷ボタンを押して、仏間裏の物置に置いてあるプリンターに紙を取りにいった。
此処に自宅の監視カメラの映像用のサーバーとプリンターが置いてあり、隠し扉の向こうにはちょっと容量のある自作パソコンが置いてある。板の継ぎ目を軽く触り、ここは弄られていないようだと改めて確認して安堵の吐息を吐いた。
「何もしない俺を犯罪者だって思い込む奴らって、本当に凄い迷惑。」
連日の尋問から解放されてから、疲れた体に鞭を打って家中のコンセントやらコードやらを全部引き出して、盗聴器などの類を調べるのに丸二日かけた事を思い出した。
「一つも盗聴器が見つからなかったのも逆に気になるよな。警察め。心理戦かよ。」
ドタン。
家に響くほどの重い音が庭で起きたらしい。俺は大きく溜息を吐くと、うんざりしながらも仏間から縁側に直行し、そこから庭に出た。
二月の寒々とした庭の隅にはボケの木が三本間抜けに花を咲かせており、それと対角の何も植わっていない塀側の地面に、茶色い大型の生き物がぽつんといた。塀から落ちた驚きなのか体をこわばらせており、庭に出てきた俺に脅えても逃げもせず、俺の動きを一心に目で追っている。
「ポン子、またそんなに汚れて。お前は白地の多い三毛猫だったはずだろう。」
彼女は近所の浪貝という鬼婆が飼っているメインクーンという化け猫で、彼女が汚れると浪貝が俺の家に彼女を放つのである。
俺は大きくため息をつきながら、小汚い大型の猫を抱き上げた。
そして、せっかくの子供がいなくて空いた時間がこの生き物の世話でつぶれると、うんざりしながら家の中へと連れ帰った。