五 僕の知っている事、皆が知っていた事、その齟齬②
坂下警部、元交通部の機動隊員だった彼は、交通機動隊隊長の五百旗頭竜也警視の懐刀と言われるほどの人物であったそうで、深追いをしすぎて未成年を事故死させた部下の失態を被って交通部を去ったと聞いている。
そのためか五百旗頭との親交が篤いのは勿論の事、今でも交通部の隊員達に慕われているのだ。
五百旗頭の副官の「根本さん」からは特に。
五百旗頭を「いっちゃん」と呼んでふざけている楊によると、五百旗頭は気に入らないとバイクに乗って消えてしまう伝説があり、消えると根本が坂下に捕獲を願い出るのだそうだ。
五百旗頭は一八〇近く身長がある筋肉質の大柄な男であり、坂下も良純和尚よりも低いが、一八〇以上はある長身に筋肉質で絞まった体格をしている。
坂下の軍人のような颯爽とした立ち居振る舞いをする所を考えるに、上司に一歩も引かない所があるのだろうと想像できる。
僕と坂下と楊の三人は誘拐され燃え盛る炎の中に取り残されたが、諦めない彼と楊がいたからこそ僕は生還できたのだと思う。
そして今僕達の前に颯爽と現れた目の前の坂下は、あの時の業火の中での灰まみれ姿と違い汚れ一つなく、猫毛のやわらかそうな髪は以前よりも短くなっていたが、熱風で焦げ付いたあの日のことなど存在しないかのように清潔感にあふれ、それどころか彼自身のすっきりとした目鼻立ちをも際立たせていた。
「あら、坂下。私が噂の警察庁のお気に入りと密会していると聞いて飛び込んできたの?」
妖婦のように坂下にニンマリと葉子は笑いかけ、彼女の言葉に良純和尚も反応して、それはそれは低いいい声で笑い出した。
僕は良純和尚の声が大好きだ。
力強いのに静かで、鬱状態の酷い時でも僕は彼の声の静かさに心が休まる。
彼は僕が彼の声を好きな事を知ってから、一層声に磨きを掛けてきた気がする。
僕が彼の声に反応する事で、僕以外の人も彼の声に反応するか実験し観察をして、自分の声が人に及ぼせる力を持つと知った彼は、本当にその声を上手に武器として使うようになってしまったのだ。
そんな良純和尚に籠絡されたらしい葉子の言葉と、坂下がいつも座るソファを一人で独占している良純和尚という現状をすぐさま把握した坂下は、ため息をつきながら僕の隣の一人用ソファに腰を下ろした。
それから彼は僕のアフタヌーンティーセットに羨ましそうな目線をチラッと寄越してから良純和尚に目線を戻すと、自分の名刺を渡して自己紹介を始めたのである。
「お久しぶりです。改めて自己紹介しますが、私は警備部の坂下と申します。百目鬼さんの噂は本部でもかねがね聞いております次第で。先日は武本君に大変お世話にもなりまして、ありがとうございます。」
坂下は良純和尚を探りたいのか、「噂」を少々強調しているように僕は聞こえた。
「武本からはあなたに大変お世話になったと聞いています。彼の命どころか怪我一つなかったのはあなたのお陰だ。本当にありがとう。」
いけしゃあしゃあと好青年を演じる黒公爵は動じない。動じるわけがない。
「いえいえ、感謝を頂き申し訳ありませんが、松野さんの身辺を預かる者として、松野さんを初めて訪れる方々にはいくつか質問をする慣わしでして。よろしいでしょうか。」
「そんな事、今までやっていなかったじゃないの。」
「やってましたよ。いつもは来客情報を事前に流してくれていたじゃないですか。」
「あ、そうだったっけ。まぁいいわ。和尚様とはあんたは初対面でも無いんだし、はっきり聞いたらいいじゃない。あなたは悪いことをする人ですか?って。」
「松野さん。」
葉子の発言に坂下は唖然として、良純和尚は嬉しそうにくっくと喉を鳴らした。
「葉子さんには適いませんね。私はもっと早くあなたのお茶のお誘いを受けるべきでしたよ。あなたは最高だ。」
葉子と良純和尚は共犯者のような悪い笑顔で目線を交わしている。
僕はサンドウィッチをおいしく頂いている。
あ、完璧なティーサンドだ。
「坂下さんの懸念はわかりますよ。ウチの武本が金虫警視長に馬鹿なことを伝えましたからね。何だっけ?クロ。」
やはり僕が会話の仲間入りにされてしまった。
けれども僕は咀嚼中だ。
「悪いことが簡単だから良純和尚は悪いことをしないって、面白いわよねぇ。」
悪いことを簡単に出来そうな人だから悪いことをするはずと思われていたから、僕は否定しただけなのである。そんなに可笑しい事なのだろうか。
「それじゃあ、難しい悪い事があったらチャレンジしそうじゃないの。」
葉子は笑い、僕は納得した。そんな風に考えるのだと。
「葉子さん、難しい事でもチャレンジ出来ちゃうってことは、やっぱり簡単だということなんですよ。そんな簡単な事で犯罪者になるのって、割が合わないと思いませんか。」
葉子は真顔に戻り、良純和尚は爆笑だ。
「嬉しいね。クロは俺をそんなに買いかぶっていたんだ。」
良純和尚は笑いながら、僕の頭をいつものように撫でてくれた。
「買いかぶるって、やっぱり悪いこと、しそう?」
坂下の質問はちょっと間抜けそうな言い方になっていたが、良純和尚はそんなことは気にしていないようなちゃんとした答えを返した。
「悪い事ってなんでしょうね?私にとってこの社会も仕組みも納得のいくものですから、わざわざ枠組みを壊す必要はないでしょう?テロをする人間は、気に入らない社会を壊してもコンビニエンスストアも無くならないし、水道を捻れば水が出て、スイッチを入れれば電気がつくような当たり前が続くと勘違いしている馬鹿共だと思いますよ。一緒にされたくはありませんね。」
「あなたも面白いわよね。さすが玄人の相談役ね。」
それから彼女は坂下に向き合うと手元の無線機を持ち上げた。
「これから勝利も来るようだし。坂下、あなたはもう少しここに居られるのでしょう?」
無線で調理場のスタッフに坂下のコーヒーを頼む葉子を見て、僕は咄嗟に葉子に口を出してしまっていた。
お客の自分がなんとはしたない事よ。
「ねぇ、葉子さん。坂下さんはコーヒーよりも紅茶がいいかなって。坂下さんは紅茶友の会の会員三十八番なんですよ。あ、でも、今日はコーヒーの方が良かったですか?」
僕の言葉に吃驚した様子で僕に振り返り、目が合った坂下は破顔した。
「今日の君のセットはいいよね。葉っぱはなんだい?」
「ウバです。」
「ミルクに合うよね。」
さすが坂下は紅茶友の会の有望会員だ。
「あんたらのそれは何のお遊びなの?」
「紅茶友の会は紅茶好きで陶磁器好きの人達の趣味の会です。会員の選抜は副会長の長柄由紀子さんが行います。年一回、武本物産から僕好みの陶器を購入するのが会費替わりであり、会則として、会長の僕と出会ったらひたすら紅茶を心行くまで一緒に楽しまなければなりません。葉子さんは如何ですか?」
「それって、あんた以外は楽しいの?」
「あ、そうか。でも、会長は新会員を好きな場所にご招待する義務があります。ねぇ、坂下さん。どこに行きたいですか?」
「え?どこって?」
「あの、紅茶を飲んでみたい場所です。えと、一応日本国内という縛りはありますが。あと、今の僕にはご招待できるところが限られてしまいますので、東京都内か近郊でお願いしたいですけれども。」
会則を読んでいなかったのか、坂下は物凄く驚愕している顔を僕に向けていたが、きゅっと唇を噛んで何かを考えた後、僕を彼の真っ直ぐな目で射貫くように見つめてきたではないか。
僕は少しどころか坂下への期待がどんどん高まっていた。




