三 黒星は燦然と輝く②
楊は玄人を車から降ろすと、俺に挨拶もなく逃げるように猛スピードで去っていった。
不安そうに取り残された玄人は、犬が大嫌いな玄人は、去っていく車を犬を抱いたままの姿で呆然と見送った後に、俺のところに半泣きでトボトボ歩いてきたのだった。
彼は二十歳の成人だが、華奢な体と童顔で十代の少年にしか見えない。
普段下ばかり向けている顔は、完璧な卵形の輪郭に人形のような小作りの鼻とぷっくりとした唇が付いていて、目元は東北人の血か無駄な長さと濃さの睫毛に覆われた黒目勝ちの大きな瞳だ。
つまり完全な女顔で、それも無駄に美少女系である。
男でありながらその姿形のために怪しさが際立ち、女にモテないどころか同性の友達が作れない可哀相な男なのだ。楊は高校時代男に囲まれていてまともに女性と付き合った事がないと公言している。彼が玄人を「ちび」と弟のように可愛がるのは、自分と同じく外見が素晴らしい癖にその体たらくな可哀相な奴だからだろう。
そして今の玄人は、その哀れな外見によって一層の悲壮感が押し寄せていた。
今の彼がマッチを売ったなら、この無情の俺でさえ全部買ってやりたくなるほどだ。
「何やってんの。」
「すいません。僕、頼まれてしまって。でも、犬は嫌いだし。どうしたらいいですか?」
それでも落とさないようにしっかり抱いている玄人の腕の中の小型犬は、見た事もないくらい不細工で不気味な風貌をしていた。
俺は臭い部屋に戻る気も失せており、駐車場に停めてあるトラックの中に玄人を誘導して落ち着いた。時間だけが無情にもちくたくと流れ、車内に二人と犬一匹が納まっているという、なんとも情けない状態に堪え性のない俺は音を上げた。
「このままこうしていても仕方がないな。とりあえず、何があったか話せ。嫌な出来事ってな、ため込むよりもな、外に出した方が楽になるんだよ。」
俺が玄人を促すと、助手席に座る彼は青白い顔で呟くように話し出した。
「現場に遅れて髙さんが来たんです。この子を連れて。」
まず、玄人の言葉で現場が歩道橋下から民家傍の裏路地の不法投棄現場まで広がってしまったのだそうだ。
路地に捨てられたドラム式の大型洗濯機は、ガラスの扉は黒く塗りつぶされて中が見えない状態であった。扉を開くと、機械の中は残った肉片にウジが湧く腐乱死体の内臓のような有様で、扉の黒いものは凝固した血液だと誰もが判ったそうである。
「何これ。どうしたら人にこんなことができるの。」
血濡れの洗濯機に群がる鑑識官に紛れて中を覗いている楊が、ハンカチで鼻と口を押さえても防げない異臭に顔をしかめながら叫びにも近い怒りの声を上げており、そこから少し離れたところに玄人はしゃがみ込んで、彼らの作業風景を眺めていたそうだ。
「切り刻まれて生きたまま全自動洗濯機に放り込まれて、ぐるぐると脱水されたなんて怖すぎです。僕はそれ以上怖くて近づけなかったのです。」
目を閉じても開いても、老人が苦しみながら洗濯機の中で回っている映像が消えずに見せ付けられるのだ。
彼は久しぶりの発作が体を襲い始めた事を知った。
彼の患っている欝は新型と巷で呼ばれる非定型鬱で、通常の鬱が心が疲弊して体が動かなくなるのと反対に、体が先に動かなくなることで心を疲弊させて精神を鬱化するのである。
彼の発作の場合は、まず胸が締め付けられ、徐々に体が硬直していく。
硬直してしまった体は、自らの意思で動かすことは不可能となる。
つまり、肉体が精神の檻そのものとなるのだ。
彼が最近まで抱えていた電車に乗れないパニック障害は、その症状が起きるきっかけとなった心筋梗塞らしきものを電車のホームにて起こして倒れたからだと思われる。
今にも気を失いそうだと察知した彼は、その場に座り込み頭をひざに乗せて目を瞑り、久々の発作に耐えていたのであるが、殺気だった現場ではそんな彼にも容赦ない声が掛けられて、なんと彼はつま先で蹴られたりもしたそうだ。
「ちょっと、君、仕事の邪魔だから立って。」
高い頬骨に彫の深い顔立ちの田口鑑識官に蹴られたいと思う変態は多いと思うが、俺を含めて玄人も蹴られたくない少数派であり、元々打たれ弱く、以前に田口に虐められた経験がある玄人は彼女の行為どころか存在に脅え、完全に発作で体が固まってしまった。
「子供じゃないんだから一人で帰れるでしょう。さぁ、早く一般人は出て行って。あんたさぁ、仮病でしょう。本当の鬱の子ってそんなんじゃないからね。あんたはさぁ、気が惹きたいだけでしょう。だったらさ、オフの時にやってね。今はみーんな仕事中なの、わかる?し・ご・と・ちゅう。」
一言言うごとに彼女はつつくように爪先で蹴ってきて、実際は靴の爪先部分でつつくような蹴りでしかないので体は痛くもないのだが、まるでゴミになった気持ちで玄人は心が痛んだのだと悲しそうにつぶやいた。
あの女覚えていやがれ。
「ちょっと、君もいい加減にしなさいよ。」
きつい女性から玄人をようやく庇ってくれたのは髙だったという。
楊め。
だが、髙の一言に脅える楊班の連中と鑑識班は違う。
彼女は髙に脅えるどころか小馬鹿にした風にして、髙に言い返して来たのだそうだ。
「髙さんこそ、今頃到着って何をされていたのですか?それに、それは何です。」
「ふふ。これは先の現場の戦利品。それよりも、君こそ現場違いじゃないの。うちの班の鑑識は宮辺主任の班でしょう。」
「私は、きょう、付で、宮辺班に編入されました。」
「それで宮辺君を署に置いてきて、その上でオフの楊警部補を呼び出したの?なぜ?山口がちゃんと現場にいるじゃないの。君は山口に現場を任せられないって?」
「そ、そんなことは!」
言葉に詰まった彼女は怪鳥のような短い悲鳴を上げると、足音高く怒りを地面に打ちつけるように歩いて去っていった。その時に田口が髙にどんな顔を見せたのかは判らない。
なぜなら、玄人は顔を上げることも動く事さえままならない状態だったのだ。
「ちょっと、かわさん。玄人君がおかしい。具合が悪いみたいだ。」
玄人の異常に気付いた髙が声を上げると、楊よりも早く山口が駆けつけた。
「あぁ、クロトごめんね。ほったらかしにしてしまって。大丈夫?どうしよう、髙さん。顔が真っ青だ。どこかで横にしたほうが。」
「そうだね。とにかくここから動かそう。山口、頼めるか?」
「もちろん。近くに時間貸しのホテルがありましたから、そこに運ぶのもいいかな。」
山口の提案を聞いて、発作で動けない玄人は、ピシッと心の底まで固まってしまったそうだ。
「それよりも俺の車に運ぶよ。」
助け舟の声は楊であり、戻ってきた彼が玄人を抱き上げようと肩に腕を回したその時、変な生き物が体育座りの体勢で動けない玄人の腿の下に入り込んだ。それだけでなく、なんと足の間から体を潜り込ませて来た上に、玄人の顔をなめたのだ。べろんと。それから臭いベロの持ち主は、ワンと鳴いた。
「やめてって。僕は犬が大嫌いだから。それで目が開いて声が出るようになったのですが、それを見ていた髙さんが…………。」
「髙が?」
「この子がいると発作が治まるなら、今日は一日抱いているといいよ。良かったよ、この子を抱えては仕事ができないからね。あとでこの子を迎えに行くから、頼むねって。」
髙のセリフを一言一句正確に再現すると、玄人はがくりと首を前に落とした。
「ひどいよ、髙さん。」
「今日は仕事どころじゃない、か。あの馬鹿警察どもめ。」
顔を上げた玄人の表情は蝋人形のように青白く強張り、それは久々の発作の後遺症だと見て取れた。
思わずしてしまった舌打ちに、玄人はびくっとして、すいませんすいませんと、俺に繰り返し謝ってくるではないか。
この玄人の様子は、まるで、九月に俺達が出会った頃の鬱が一番酷かった時のようだと、俺はその姿にさらにむかむかと苛つき、すると、玄人の手の中の不細工な小型生物は彼の下あごをなめて彼を一層追い込んだ後に、自分が原因だというのに俺に威嚇してきたのだ。
「シッ。」
「キャウン。」
俺の威嚇に犬は一瞬で尻尾を丸めたが、玄人の方は犬嫌いのくせに、脅える犬を慌てて抱き直してあやし始めた。
「あぁ、ごめんなさい。ごめんなさい。」
「お前が謝る事など無いだろ。脅えさせたのは俺だ。」
俺はこのどうしようもない物件にうんざりしていたし、売れなかった土地が高値で売れたことで少々の損益にも耐えられる事も思い出し、大きなため息をついた。
俺の溜息にさえ玄人がビクッと脅えるとは、楊め。
「今日は、仕事を、やめよう。」
玄人はぴたりと動きを止めると、不思議そうな顔で俺を見上げた。
彼の具合を見ながら彼を休ませることはあったが、俺自身が止めようと言うのは初めてだからだ。
そして、俺はただでは転ばない。
「松野葉子にあの事件以来俺もお茶に誘われていてね。道すがらその不細工のケージを買って、松野葉子宅を強襲するぞ。シートベルトを閉めろ。」
「はい。良純さん。」
松野葉子とは楊の婚約者の祖母であり、二月の事件のターゲットそのものであり、相模原市に大邸宅を構えている大金持ちの女王様だ。
松野家で匿われて彼女と親友となったらしき玄人が頬に血色を戻らせて、今や俺を崇め奉るような眼差しを向けているではないか。
偶には飴玉も与えなければいけないのだ。
これで楊に今日の仕返しも出来るし。




