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長編小説 4 『花纏月千(かてんげっち)』  作者: くさなぎそうし
最終章 『月花美陣(げっかびじん)』 
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最終章 『月花美陣』 PART10

  8.


 木に囲まれた一本道を進んでいくと、背の高い女性が立っていた。その人物はよく知っている。千月が最も敬愛するピアニストだ。


「……すまないね、お邪魔だったみたいだ」彼女は振り返りながらこちらに視線を寄せた。


「もしかして……ピアニストの……未橙さんですか?」


「ああ、そうだよ」雪奈はにやりと笑って答えた。「私もあいつに救われた一人でね。今日くらいは旦那の前に拝んでやろうと思ってさ」


 コンサートでしか見たことがない彼女の笑顔に戸惑う。どうして彼女がここにいるのだろう。まさか志遠の知り合いだったのだろうか。


 いや、それはありえない。彼女のコンサートに無理矢理連れて行った時でさえ、彼は顔をしかめたままだった。彼女の名前を出しても何の興味もなさそうだった。


 ……いやいや、それ自体ありえない。


 千月は大きくかぶりを振った。志遠とはプライベートで出かけたことはない。デートもしたことがないのだ。


 じゃあ今、頭をよぎったものは何か? 今の記憶こそ志遠と付き合っていたワンシーンだったのか。


 千月が戸惑っていると、雪奈が煙草に火を点けながら言葉を漏らし始めた。


「……私は初め君達が羨ましかった。死んだ後でもこの世に魂を残らせることができるのなら、私は必ず実行していたよ。どうして君達二人だけがそんなことができたのかと羨んだりもした」


 彼の魂が私の体に残っていた。その事実が感覚を伴い胸に浸透していく。


 志遠は私の中で生きていた、彼女の言葉にはそう信じさせるものがある。


「だけどね、君達二人は決して出会うことができない。それを考えると、やっぱり自分には無理だと思うし同情の念すら沸いたよ」


 決して交わることがない二つの線。彼は何を思いながら私に夢を見させようと考えたのだろうか。


「志遠君は大変だったと思うよ。だけど最後の最後まで自分を貫いた。その思いだけはやっぱり知るべきだったと思う。どんなに辛くても、私は幻なんか欲しくないからね」


「……正直、今の私には何がなんだかわかりません」


 千月はありのまま思いを告げた。


「でも体が反応しているんです。ここに来て彼のお墓の前に立てば何かがわかる気がして。それで……」


「たくさん語るといい」雪奈は口元を緩めていった。「時間はあるんだ。自分と向き合って彼の前で素直になればいい。そうすれば道は開けるよ。どんなに絶望的な現実が待ち受けていても時間が解決してくれる」


 雪奈の瞳は希望に満ちていた。鋭い目つきだが決して消えることのない光を漂わせている。


 その光に志遠の幻影が見えてしまう。彼はきっと彼女と同じ目をしていたに違いない。彼女の瞳の奥に彼の姿が呼び起こされていく。


「志遠君の希望は君なんだ。だから君が生きる道だけを考えた。どんなに絶望しても彼は希望を捨てなかった」


 彼と電車に乗った記憶がふっと横切っていく。彼は私を守るために身を投げ出している。そのきっかけを作ったのは自分だ。そんなどうしようもない状況を受け入れられず私は意識を閉ざしていた。


 考えたくない程、絶望的な状況だ。絶望以外、何物でもない。彼の夢を奪い、自分の夢も奪われ、未来なんて見えない絶望的な現実が待っている。


 だけどそんな状況でも、彼は私の中で私を生かそうとしてくれた。自分の記憶を封じてまでも、自分の倫理に反することを犯しても、私に未来を作ってくれた。


 私に……希望を与えてくれた。


 私は彼に、二度命を救われている――。


「そう……だったんですね」


 もしこれが現実だとして私は彼の前に立てるのだろうか。胸を張って彼に報告ができるだろうか。


「これを持っていくといい」


 雪奈はコートの内ポケットから煙草を取り出した。


「彼が好きだった銘柄と一緒だ。吸わなくてもいい。ただ火を点けて上げるだけでも喜んでくれると思うよ。もっともこの四年間は一度も口にしていないらしけど」


 雪奈から封の空いた煙草とライターを受け取る。銘柄はセブンスター。この箱には彼が愛用していたものだと確信させる何かがある。懐かしい香りがするからだ。


「ありがとうございます」


「こちらこそ。彼によろしく」


 雪奈は千月の手を力強く握ってきた。


「絶望があるということは希望もまたあるんだ。大丈夫、君は一人じゃない」

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